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結局は魂なんだ

30歳、最初の1年間が終わろうとしている。30歳という響きに信じられないと思いつつ、この1年間は20代とは違う気持ちで、もう若くないんだと、走り続けることができた。思えば、本当に一瞬で過ぎ去った。今日、考えていることを書き残しておこうと思う。去年書いたnoteを貼っておく。


頭がちぎれるまで考えたか?

このフレーズは僕の最初の人事評価における一つの項目であった。この言葉の意味をこの一年間まで、根性的なものだと考えていたが、今自分の中で解釈すると別の考えにいきつく。

頭がちぎれるまで考えたか?」というのはつまり、全ての選択肢を土俵に載せて最強の一手を選んだのか?というシンプルだが最強な行動だと考えることができる。全ての選択肢について考えることは、当然リソースを使う。そのため、全ての場面、全ての人にこの考え方を適用することは、意思決定のスピードを遅らせることになり得る。そのため、自分が管掌するチームにおいてそれを常に求めることは悪手にもなる可能性がある。しかしながら、自分の行動の範囲においてはこの手法を常に意識してこの1年を過ごしてきて、良い方に転ぶことが多かった。全ての選択肢について考えられているため、もしプランAがダメでもすぐにプランB、Cに移行することが可能で、臨機応変に対応できて良い。

人生においては、何かをするということは何かをしないということだ。全ての手を考えるために、イメージとしては常に頭を動かしている感じで、電車で通勤、トイレ、お風呂、夜のランニング、一人でいる全ての時間において「あのプロジェクトのあの問題、どうしようかな〜」とか「これを解決するために、プランAを考えたけど、他に手はないのだろうか?」ということを常に考えるようにしている。こうすることで、実際に仕事の時間になるとあとは手を動かすだけになっているので、考える時間を短縮することができる。チームやステークホルダーへの説明の仕方についてはも複数のパターンを考えることができる。

この方法論については、再現性がありそうなので、今後も継続していきたいが、大学生くらいからずっと同じような状態だったので、ようやく成果につながるようになった気がする。

迷ったら少数派へ、不確実性が高い方へ

仕事においても、人生においても考えても考えても白黒つかないことがある。メリットやデメリットを並べてみてもどっちつかずの場合、僕はどっちが不確実性が高いのか、どっちが多くの人が選択しない道なのかで選ぶようにしている。不確実性が低いということは、ある程度は結果が見えているということで、そういう選択は面白くないというのはあるが、そういう選択は結局のところコモディティ化して、多くの人が通る道となっている。

もともと、大学院を半年で退学してスタートアップにジョインした選択もこの考え方に基づくものだったのだと、今思えば筋が通っていた。正直、全ての選択肢において結果がわかっているなら選びやすいと思われるが、人生そんなことは絶対ないに、どこかに自分でどうにかしなければならない部分があるのだとすると、自分は誰も通ったことがない、少数の人が通っている道を選び、どうにかしたいという気持ちがある。

近年は不確実性への向き合い方も学んだので、より安全に不確実性が高い選択を取れるようになったと思う。シンプルに言ってしまうと、リソースが100あった時に、不確実性が低い選択は90 ~ 110%の結果が得られて、不確実性が高い方は50 ~ 500%の結果が得られるとした時に、70 ~ 80のリソースを不確実性の低い方に張って、残りを不確実性が高い方に張るという方法だ。そして肝は、不確実性が高い方は、サンクコストとか考えずにクイックに結果からフィードバックを受けて方向性を変えていくことにある。このフィードバックとは不確実性を落とし得る情報のことで、個人的にはこの方法が最強だと思っている。

自分の評価は自分で決める

会社に勤めている人なら必ずある人事評価と給与査定、このシステムはこのシステムで全力で挑む必要があって、好んでどうでもいい、というのは長期で見た時にはさまざまな面で支障が出てくると思われる。

しかしながら、何度もこのステップを踏んでいると、個人的な考えとしては「人間が人間を評価するには限界がある」と考えている。もちろん、全力で挑むという前提であるが、その人の能力を完全に推し量る物差しなんて誰も持っていないし、その人が3ヶ月で行った全ての事象に対して、評価を完璧にこなすことなんてあり得ないと思っている。その上で、自分が重要にしているのは各個人における納得感なのだが、その話は別の機会として、ここではその前提で自分を正しく、継続的に成長させるためには自分の評価は自分で決める必要があると思う。

自分の評価を自分で決めるというのは、端的に言ってしまえば「自分はまだまだである」という伸び代を常に持つことと、それを裏付ける内省という言語化をすることにある。「なぜ人と組織は変われないのか――ハーバード流 自己変革の理論と実践」や下記の記事の引用において、人間は成長し続けることができるとある。

キーガン:大人の知性は、3つの段階を踏んで成長していきます。大人の知性の最初の段階は「環境順応型知性」です。順応主義で、指示待ちの段階です。チームプレーには向いています。次の段階は、「自己主導型知性」。課題を設定でき、導き方を学び、自分なりの価値観や視点で方向性を考えられ、自律的に行動できる。自分の価値観に基づいて自戒し、自分を管理します。

いくら言っても、人や組織が変わらない理由

また、下記のnoteで成長し続けることについて考えてきた。

自分の考えとしては、人事評価においてどれだけ良い評価を得たとしても、自分のことは自分で評価づける必要があって、その時に「自分にはまだまだ成長の余地がありまくる」と考えることが重要であると考えている。

このような考え方を続けると自己嫌悪とか、渇きすぎてメンタルがボロボロになっていくので、どういう振る舞いが自分の信念に基づいていて良かったのか、どういうところが改善すべきところなのかということを内省する必要がある。

この1年間で内省をするときの信条として「考えることを疎かにしない、深く深く掘る」ということを意識した。例えば、深く考えると実は自分の中の感情にいきつくことが多くて、感情がどうして湧いてきたのかを理解すると、今度そのような感情が湧き出た時に、正しく扱うことができるようになる。正しく扱うというのは、蓋をするということではなくて、正しく自分の中に落とし込んだり、処理をする方法のことを意味している。蓋をしてしまうと、いずれか限界が来て、自分もいっぱいいっぱいになってしまい、他者に影響を及ぼしてしまう。そういう感情は小さい時に徹底的に考えて、言語化して「なんだそんなことだったのか」というレベルに炙り出して、時間が解決することをまったり、体を動かして燃やしてしまったりするのが良い。こうすることで、自分を自分でコントロールできるようになっていくのだが、自分はまだまだ、だ。

他者からもらうのは自分をアップデートさせるための匕ントだけ

この1年間で意識していた観点としては「他者からもらえるフィードバックは全て自分をアップデートするためにもらっている、本当にありがたい、一つ一つを内省する」というものがある。自分がそうだが、他者に対して、特に改善を指摘することってかなりエネルギーが必要で、もらっただけで本当にありがたいこと。そして、例え直接的には改善点とかはなかったとしても、実は間接的に言及されていることもあって、そういうことは深掘りをして聞かせてもらうか、自分の中で改善点となることはあるのか?と考えるようにした。

そして、それらのフィードバックの中で、自分の信条に基づかないものはどれだけ良いフィードバックだったとしても、自分をアップデートするものではないという区切りをつけるようにした。自分の信条そのものを簡単に変えてしまっては、芯がなくなってしまう。しかしながら、頻度高くもらえるあるいは自分でもそうだと思うことに関しては、すぐに信条をアップデートしていく必要があると考えている。そのため、自分の信条と照らし合わせて、自分をアップデートする必要があるかどうかを常に考えていている。今までの感覚的に、最初違和感があることが結構自分をアップデートするためのフィードバックだったりする。こういうものって、最初は否定したくなる、つまり自分を守りたくなるけれど、考えれば考えるほど、守りたい自分を変えた方がいいということに気がついてしまう。

そのため、他者のフィードバックを取りこぼすことなく吟味して、分別をすること、自分の中に完全に落とすために、常にそのことについて考えていたのが自分の中では結構再現性があったと思う。

今の自分を変えるのは行動するしかない

自分が認識している課題点として、くよくよ考えてしまう、ずっと考えてしまい行動に移せないということがある。

ほとんどの人が、ある程度論理的に考えられたとして、何を大事にするかもあるが、運動をコンスタントにした方が健康にとっては良いだろうし、糖質や脂質をコントロールした方が長生きには良いだろうし、そりゃ勉強した方が良い成績や仕事にとっても良いだろうと考えていると思われる。しかしながら、全ての人がそうするわけでもなく、現状に対して不満を抱きながら生きていると思っている。

つまり、理論的にはわかっていることが、行動としては出てこないことがほとんど当てはまると思っていて、僕もそれだ。そうやってずっと生きてきたのだが、30歳にもなったので、行動してみるかということと、ちゃんとしたステップを刻んで行動を取ろうと考えた。例えば、仕事で関係する人や自分の日常で大きな影響がでないように、自分でプロダクトを創ることにした。実際にそれはリリースできて、今も改善をちょこちょこできている。これについては後述する。加えて、一昨年の暮れくらいからダイエットのために食事をコントロールしたり、できる限りランニングに行くようにしたりを継続してきた。

これらの事象を通して考えついたのが、当たり前ではあるが「今の自分を変えるのは行動するしかない」という考え方なのだが、そんなことは当たり前なので、どこかに行動するための障壁があるはずだ。おそらく、失敗したらどうしようとか、面倒くさいとか、現状維持が楽とか、そういう感情的な部分だと思うが、完全には落としきれていない。

良かった方法としては、三つある。まず、明確な目標を決めてしまうと、それが達成できたら、気が緩んでしまうので、例えばダイエットだとしても〇〇kgを目指すというよりも、糖質は意識的に控えるとかできる限りランニングに行くとか、そういう日々の生活で実践するものとしていた。そして、大きなことを言ってしまうと結構しんどいので、プロダクトを創る時とかは、毎日何でもいいから作業する、コード1行でもOKとかにした。こうすることで、1mmでも前に進めることができるし、毎日意識はするようになるので、がっつり時間ができた時とかはやりたいことがサクサク進むようになった。最後の方法としては、自分のスケジュールに組み込んでしまうという方法である。ほとんどの人で、毎日ご飯は食べるだろうし、お風呂に入ったり、歯磨きをすると思う。これは習慣なので、どこか無意識的にやっていると思う。これと同じように生活に組み込んでしまった方が良いというのが僕の考え方だ。毎日30minの自由時間があったとして、月曜日は週刊少年ジャンプを読んで、他の曜日はランニング行くか、雨が降ってランニング行けない日は多くのコードを書くとか、何かをする時間と決めてしまうことで時間を確保することができるし、その時間に何かに取り組まないと気持ち悪くなるレベルに達することができる。

このように、少しずつ少しずつ行動を変えることでしか、自分を変えることができないのだと今は考えている。

覚悟を決めた

昨年の暮れに、今後10年はプロダクト開発をしていく覚悟を決めた。

元々、考えてはあーだ、こーだと難癖をつけて、踏み出せない or 小出しにして終わってしまっていたのだが、今の自分は「今の自分を変えるのは行動するしかない」と思っているし、自分の正解は自分でしか決められない。10年後に30代は駆け抜けたと思える人生とは何かを考えた時に、やはりプロダクトを創ること以外に考えられなかった。

そして、元々今の会社に入った目的でもあった、自分でプロダクトを創れるようになりたいという夢を形にしなければならないと思い、2022年終わり?くらいから構想を開始して、仕事と育児の合間を縫ってコツコツとコードを書いてきた。そして、今も続けることができている。

平均すると、身体にいいことを自動で行っていると実感できるようになったのは、66日繰り返したあとだった。新しい行動に取り組み始めたら、それを2ヵ月と1週間繰り返す。そうすれば、自動的に行う感覚は大幅に高まる。

【科学で解明】習慣は身につくまでに「何日」かかるのか?

習慣にするに66日、つまり2ヶ月強は繰り返す必要が科学的にはあるようで、今の自分は1年半くらいは続けることができていて、時間があればどうすれば良いプロダクトにできるのかを考えることができている。

正直、この取り組みがどのくらい続くのか、本当に10年続けられて、10年後には世界中の人が使っているプロダクトにできるのか定かではないが、それは自分自身でしかできないことだし、やはりプロダクト開発は楽しいので、それを根底に持って継続していきたい。

自分の人生に責任を取れるのは自分しかいない

ここまで書いてきて、これまでの人生には非常に葛藤があった。周りの人からはどう見られているんだろう。この選択で本当に自分は成長しつづけることができるのだろうか。さまざまな葛藤の中で「誰がこの選択に責任をとってくれるのか?」と考えるようにしている。仕事をしていると、形式上は自分の失敗は上司の責任であり、そのまた上司の責任と上がっていくだろう。しかしながら、自分の人生における選択はどうだろうか。そういう他責ではなく、自分自身の行動は自分で本当の意味で責任を果たしていくしかない。

数ある選択肢の中から自分が選んだ選択に対しては、自分で正解にしていくしかない。自分が失敗したら、誰が責任をとってくれるんだ?と考えれば考えるほど、自分しかいないわけで、周りからとやかく言われたとしても、その人たちは責任を負ってはくれない。その人たちもその人の人生に対して唯一の責任を負っているわけで、周りをかまってはいれないはずだ。

自分が選択した人生の中で、自分が成長しつづけるためには、常に現状を知覚して、未来に向けた行動を取り続けるしかなくて、過去がどうだったかとか、原因論的な悲観は無意味だ。過去の経験から学び、次の行動をとり続けることでしか、先に進むことができないんだ。

結局は魂なんだ

この1年間の締めくくりとして、結局は魂 = 志 = 簡単にいうと気持ちなんだということを言語化しておく。

世の中、自分よりも圧倒的に優秀な人たちがいて、仕事をしている中で、ちゃんと考えたら違うだろみたいな、今から考えたら違った未来があるような選択をなぜしてしまうのだろうと考えると、結局は人間は論理的な生き物ではなく、ひどく感情的な生き物なんだということを考えている。

そもそも、人間が生まれて0歳とか1歳の時には、寝たい時に寝る、食べたい時に食べたいと叫ぶ、歩きたけばぐずるみたいなことをしてきたわけで、非常に利己的な振る舞いをしている。そこから親を含めた他者との関わりの中で、社会性が身につき、理性が身につき、論理的な思考を手に入れる。しかし、元を正せば僕らは非常に感情的な生き物であったし、論理的思考は常にできることでもない。特に不確実性が高い世界においては、10年後とかに何が起こっているのかを当てることは難しいし、でっかい夢を描けなければそういう未来も来ない。自分は自分が思考できる範囲の中でしか思考することができないのだから。

多くの会社にはこういう世界にしたいというミッションが存在する。例えばGoogle。

Google の使命は、世界中の情報を整理し、世界中の人がアクセスできて使えるようにすることです。

Google 検索の 25 年間の歴史を、これまでに最も検索され、世界中の人々や新しい世代に影響を与えてきた出来事とともに振り返りましょう。

https://about.google/

このミッションが本当はどういうプロセスを経て決まったのかわからないが、誰か特定の人が決めたにせよ、合議制で決まったのにせよ、その時にいた人たちの間で決まったことだ。ある日突然降ってきて決まったということではないと思われる。となれば、その時に決めた人たちが「こういう世界にしたいよね」とか「こういう世界にならなければいけないよね」という感情的な部分があったのだと僕は考えている。これは夢だ。

会社に属しているということは、その会社がミッションを制定していたとすれば、そのミッションの実現を最終目標としてあらゆることが決まっているはずである。関わっている仕事、プロジェクト、事業と上位レイヤーにいけば最終的にはミッションに辿りつくはずである。つまり、誰かが制定した感情が入ったミッションに対して、少なからず共感をして仕事をしているはずである。

全ての意思決定は超明確に答えが決まるものを除けば、どこかに不確実性が存在するわけで、どの不確実性に賭けるのかという、最後はその責任とセットで誰かがこれだ!と決めると考えている。だからこそ、どれだけ優秀な人間でもミスはするだろうし、それが面白いんだと思っている。感情的になれ!というわけではなく、最終的には感情に左右される社会の中で、自分がどう生きるかと問われた時には、自分の感情に従って生きていくのは、自分の人生を自分の中での正解にする第一歩なのだと思う。

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