向日明神の伝承その4ー広隆寺の秘仏薬師如来像の1

『広隆寺来由記』には、向日明神の伝承がある薬師如来像について、次のように書いています。
 本像は向日明神権化の神作で、光を放つ枯れ木となった神木で造像された。その後願徳寺(後の宝菩提院)に移され、貞観6年(864)に僧•道昌が広隆寺に移したものである。道昌の奏上により、弥勒仏に替えて本尊とされ、清和天皇により仏龕が勅封とされた。とあります。
 さらにこの薬師如来像には次のような話があります。乙訓社の向日明神が薪採りの人に姿を現して薬師如来像を造立し、延暦16年(797)5月5日に勅命により願徳寺に遷し、貞観4年(864)に清和天皇が病気になり、道昌が勅許を得て広隆寺に遷し、七日修法を行ったということです。また、乙訓社の向日明神が神木に仏の姿で現れ、神が自らの姿に対して「南無阿弥陀仏」と唱えて拝んだという話もあります。いずれにしてもこの薬師如来像には向日明神の伝承が残されています。
 宝菩提院願徳寺(ほうぼだいいんがんとくじ)は京都市西京区大原野春日町1223―2にある天台宗の寺院。元は向日市寺戸町古城3―6にあり、現在その場所は公園になっており願徳寺の説明板が設置されています。現在の場所は金蔵寺の近くです。願徳寺は持統天皇が夢の啓示を受け、薬師如来を本尊として天武天皇8年(679)に旧寺地に創建しました。旧寺地は向日神社の近くになります。「京都で一番小さな拝観寺院」を名乗り、本尊は国宝の如意輪観音。アクセスは阪急電車「東向日」駅から阪急バス「南春日町」下車西へ約1.2km。
 広隆寺と言えは、「国宝第1号」として有名な「宝冠弥勒」があります。右手の中指を頬にあてて物思いにふける姿はとても印象的です。ウィキペディアによると、この像は像高123.3cm、アカマツの一木造で、元来は金箔で覆われており、制作時期は7世紀。朝鮮半島からの渡来像とする説が有力だそうです。前述のようにこの像はよく「国宝第1号」と紹介されますが、本像が国宝に指定されたのは昭和26年(1951)6月9日付けで、この時に国宝に指定されたのは他にも多数存在します。本像は国宝指定時の指定書及び台帳の番号が「彫刻第1号」であったということです。
 この有名な「宝冠弥勒」が収められている新霊宝殿(霊宝殿とも言います)の中に秘仏の薬師如来像があります。霊宝殿に入ると正面に安置されている「宝冠弥勒」に向かって左側、十二神将像や脇侍の日光•月光菩提像が立ち並ぶ真ん中の厨子の中に「勅封薬師如来像」として祀られています。秘仏で通常は拝観できませんが、11月22日の聖徳太子の命日に年に一度だけ開帳されます。この日は「聖徳太子御火焚祭」が行われ境内で護摩法要が営まれます。ネットに拝観記があります。それによると、この像は薬師如来立像で、一般的な薬師如来像とは異なり、吉祥天のような貴人女性の姿をしているそうです。像高は97.6cmで、針葉樹の一木造。平安時代前期の作。明治維新までは勅封とされていたため彩色が良く残っています。重要文化財に指定されています。長らく広隆寺の本尊であり、清和天皇により勅封とされ、「霊験薬師仏」として信仰されてきました。
 広隆寺は創建当初、飛鳥から奈良時代にかけての本尊は弥勒仏でした。平安時代になると薬師信仰が盛んになり、広隆寺においても薬師如来が本尊として信仰されるようになります。その時期は承和三年(836)に別当に就任した道昌によると思われます。それは弘仁九年(818)に火災に遭ったことが契機になり、当時薬師如来信仰が急速に広まったことが背景にあります。平安仏教界の動きにあわせて本尊が薬師如来に変わったものと考えられます。それでは新しく本尊となった薬師如来像はこの旧勅封の秘仏薬師如来像なのかというと違うようです。そのへんは次章で説明します。






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