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熊野に神います~熊野の神をご一緒に

「熊野に神います」というフレーズは、984年に源為憲(みなもとのためのり)が、冷泉(れいぜい)天皇の皇女尊子(そんし)内親王のいわば仏教入門書として書いた三宝絵詞(さんぽうえことば)に登場します。 彼女は後に那智で修行したとされる花山(かざん)天皇の同母姉です。原文は「紀伊国牟婁郡に神います」ですが、これを少し変えてブログのタイトルにしました。原文ではこの後、神の名前が出てきますが、それは改めてにします。牟婁(むろ)郡は、現在の行政では、三重県に南北、和歌山県に東西の牟婁郡が

    • 座田氏の『御阿礼神事』ー御休間木と立砂

       また、阿礼木とは別に「御休間木(おやすまぎ)」と呼ばれるものを神籬の中に立てます。御休間木は、尖端に榊の枝を多く結び付けた長さ約四間(約8m)の二本の松の丸太を神籬の中央の杭の根元から前面斜め上に向けて扇形に出すようにして設置します。この御休間木について、座田氏は「これは朝鮮でいう『ソトフ』と同様これを目標として神が降臨されるとの観点から造られているもの」と説明されています。  神籬にはこの他、外部から見ても気付かれないように、乾(西北)の隅に入り口を設け、神籬の前面より約

      • 座田氏の『御阿礼神事』ー神籬

         ブログの『古代鴨氏物語[六]御阿礼神事』には、座田氏の論文に書かれている「御阿礼神事」の内容が紹介されています。  「御阿礼神事」は祭神である別雷神の降臨を迎えるという神事の性格から一般には非公開となっています。そういうことからも上賀茂神社の宮司であった座田氏の論文は当事者が書かれたものとしてその実態を知ることができる重要な資料です。下鴨神社摂社の御蔭神社で斎行される「御生神事」も同じく祭神の降臨を迎える祭儀ですが、こちらは公開されています。ただし肝心の神霊の降臨を迎える神

        • 上賀茂神社の御阿礼神事の4ー鎌倉時代の記録の6と御阿礼神事の骨格

          ⑫本宮の儀に書かれている言葉の説明です。「八脚」は、両側に各四本の脚がある机。大と小があり、ここでは小さな方が使われています。「社務五官」は、座田司氏氏の『御阿礼神事』によれば、本社の神主、禰宜、祝、権禰宜、権祝を指します。「祝言の屋」とは現在の「祝詞舎」のことと思われます。 ⑬本宮閉扉 原文は、御祝言は(果)てぬれば祝計参て御じやう(錠)さ(鎖)しまい(参)らする 朱書:祝言のや(屋)よりすぐに 通釈は、御祝言果てぬれば祝(はふり)計(はからい)参て御錠鎖し参らする(祝言の

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        熊野に神います~熊野の神をご一緒に

          上賀茂神社の御阿礼神事の3ー鎌倉時代の記録の5

          ⑨直会(神館跡) 原文は、其後やとね(矢刀禰)おほづくえ(大机)にみわ(神酒)そゝ(注)ぎ、をもの(御食)申、つねのごとし(常の如し)、社務手をたゝ(叩)きはしをたつ(箸を立つ)、其後おほづくえ(大机)をわ(分)く、社司のまへ(前)にかみ(紙)をを(置)く、みわ(神酒)のさかづき(盃)下、はしを立つ(箸を立つ)、ことは(果)てぬればまへ(前)の物身つからいだす(自ら出す) これは御所のぎしき(儀式)なるゆへ歟、存知すべし 通釈は、その後、矢刀禰は大机の上の盃に神酒を注ぎ、御食

          上賀茂神社の御阿礼神事の3ー鎌倉時代の記録の5

          上賀茂神社の御阿礼神事の3ー鎌倉時代の記録の4

          ④直会(御囲前)、次に神酒、御直会参る ⑤神人、又、御垂(しで)を配る、これを給て十五のしで(垂)を用意す ⑥御榊神事 原文は、垂を付ける つぎ(次)に御さかき(榊)五本まづ手をかけてめぐ(巡)らす、歌有、この時には社司は南にむ(向)く、社司のすゑ(末)にせんじのつぼね(宣旨の局)車をた(立)つる事有、きぬ(絹)を出、さぶらひぐす(侍具す)、かくのごとく五本のさかき(榊)一ペンめぐ(巡)らしてつぎ(次)のたび(度)しで(垂)をつ(付)く、一本に三づゝ也、通釈は、次に御榊五本ま

          上賀茂神社の御阿礼神事の3ー鎌倉時代の記録の4

          上賀茂神社の御阿礼神事の3ー鎌倉時代の記録の3

          其後おほづくえわく、社司のまへにかみををく、みわのさかづき下、はしをたつ、ことはてぬればまへの物身つからいだす これは御所のぎしきなるゆへ歟、存知すべし、ざしきはてぬればをのをの宮しりより経所の北をへてがくやのまへをへて御前に参、らんじやうをそうし、祝御とをひらきまいらする事つねのごとし、社務参て(朱書:まつ少八あしつかまつる)、あふひかつらまいりぬれば(朱書:まつりまでは少八あし御まへにをく)、社司等社々へまいる、社務五官祝言のやによて、そのしきつねのごとし、御祝言はてぬれ

          上賀茂神社の御阿礼神事の3ー鎌倉時代の記録の3

          上賀茂神社の御阿礼神事の3ー鎌倉時代の記録の2

           『嘉元年中行事』の御阿礼神事の次第に関する記述は短いために細かな次第は省略されている可能性があります。それでは鎌倉時代末期の御阿礼神事の次第です。 ①着座 社司等参て西を上座として座につく ②奉幣 公幣神人参らする、又、私幣氏人進む、これを取りて二拝、又二拝、後、幣を神人に渡す ③葵桂装着 葵給いて(葵は冠に飾る、桂は腰にさす)、但し葵には祝言有、朋輩の社司に誂えて形見に申 ④直会(御囲前) 次に神酒、御直会参る ⑤御榊神事(垂を配る) 神人又、御垂を配る(これを給いて十五

          上賀茂神社の御阿礼神事の3ー鎌倉時代の記録の2

          上賀茂神社の御阿礼神事の3ー鎌倉時代の記録の1

           前章では座田司氏氏の論文『御阿礼神事』を元に神事の次第をみていきました。座田氏の論文は昭和35年に発表されていますから、御阿礼神事が斎行される場所がゴルフ場になった昭和24年より後になります。そういうことからこの論文に書かれている神事次第は現在もそれほどの変化はないと考えても差し支えないと言えます。それでは昔の神事の様子はどうだったのでしょうか。この章では鎌倉時代の御阿礼神事の次第について『賀茂社嘉元年中行事』を元にみていきます。この資料は「賀茂神主経久記(かもかんぬしつね

          上賀茂神社の御阿礼神事の3ー鎌倉時代の記録の1

          御阿礼神事の2ー座田司氏氏の論文『御阿礼神事』

           御阿礼神事について、上賀茂神社の宮司であった座田司氏(さいだもりうじ)氏の論文『御阿礼神事』に当日の式次第が書かれていますのでそれをご紹介します。  座田氏の論文『御阿礼神事』は昭和35年(1960)の神道史研究第十巻2号に掲載されています。神道史研究は神道史學會が発行しており、同學會は神道•神道史並びにそれに関連する研究論文、書評などを掲載し、原則として歴史的仮名遣いを使用としています。代表者は三重県伊勢市の皇學館大学の学長さんです。それでは『御阿礼神事』に書かれている「

          御阿礼神事の2ー座田司氏氏の論文『御阿礼神事』

          御阿礼神事の1ー神事の概要

           上賀茂神社並びに下鴨神社で行われる祭礼が毎年5月15日の賀茂祭です。葵祭として知られ、夏の祇園祭(八坂神社)、秋の時代祭(平安神宮)と並ぶ京都三大祭りの一つとしてマスコミでも必ず取り上げられます。京都三大祭りの中で一番歴史のある祭りで、天皇の使いである勅使が参向する格式の高い祭儀です。15日に斎王代と呼ばれる女性を始め多くの参加者による行列が京都御所を出発して下鴨神社を経て上賀茂神社まで進みます。これを賀茂祭(葵祭)行粧(ぎょうしょう)と言います。  葵祭行粧に先立つ12日

          御阿礼神事の1ー神事の概要

          上賀茂神社の岩上と片山御子神社(片岡社)

           上賀茂神社の境内には「神山」と並ぶ賀茂信仰の原点とされる「岩上(がんじょう)」があります。社殿はなく注連縄で結界された岩と草があるだけですから、ほとんどの参拝者が足を止めずに通りすぎるようです。磐座祭祀の場所になります。神社が建てた説明板には次のように書かれています。 岩上(がんじょう) 賀茂祭(葵祭)には宮司この岩の上に蹲踞(そんきょ)、勅使と対面し、御祭文(ごさいもん)に対して神のご意志を伝える「返祝詞(かえしのりと)」を申す神聖な場所である。太古御祭神が天降りされた秀

          上賀茂神社の岩上と片山御子神社(片岡社)

          上賀茂神社にゆかりの二つの国有林

           上賀茂神社の周辺には、祭神の別雷神が降臨したとされる「神山(こうやま)」が神社の北にあり、そこから東に連なる山を「本山(もとやま)」と言います。これを総称して「賀茂の神山」として歌枕として和歌に詠まれています。そして「神山」も「本山」ももとは上賀茂神社の社地でしたが、明治の上知令により国有地となり、神山(こうやま)国有林と本山(もとやま)国有林となっています。本山にはいくつかの峰があり、当ブログでもその名前が出ています。ここで一旦整理してみます。  「江戸時代の神山」で触れ

          上賀茂神社にゆかりの二つの国有林

          賀茂別雷大神の降臨地の4ー神山に関する資料の説明

           まず『大日本地名辞書(だいにほんちめいじしょ)』から。この本は明治33年(1900)3月に第1冊上が出版された地名辞書。日本初の全国的な地名辞書として、在野の歴史家吉田東伍個人によって13年をかけて編纂されました。序言に「本書は地誌にして、其名辞の索引に便利なる体裁を取りたり、即、地名辞書といふ」とある通り、地名についての語源、変遷だけでなく、地形や歴史などあらゆる風土的事象を扱い、寺社や河川、橋、旧跡等についても項目が立てられ、膨大な古典籍を引用しながらも厳しく史料批判を

          賀茂別雷大神の降臨地の4ー神山に関する資料の説明

          賀茂別雷大神の降臨地の3ー上賀茂村志にある神山

           寛政7年(1795)の『賀茂名所物語』では、一説として、別雷山別土山正ノ岳は同じ一つの山の名前で、「片岡山のうしろ、御生山の東にあり、俗に圓山と号す」としています。これによると、別雷山、別土山、正ノ岳は同じ山であり、場所は片岡山のうしろ、御生山の東にあり、俗に圓山(丸山)と呼ばれているということです。  明治44年(1911)の『京都府愛宕村志』にある「上賀茂村志」の内容を下記に引用します。なお一部の漢字は現代表記にしています。 山岳 神山 所謂賀茂の神山にして本社の正北に

          賀茂別雷大神の降臨地の3ー上賀茂村志にある神山

          賀茂別雷大神の降臨地の2ー江戸時代の地誌にある神山

           神山は現在は上賀茂神社の北北西2kmにあり、京都産業大学の裏手にある山とされていますが、前章にも書いていますが、平安時代の史料にある神山がこの山を指すかどうかは分からないということです。  江戸時代の地誌にはどのように書かれているでしょうか。  まず『扶桑京華志(ふそうきょうかし)』では、賀茂山の別称を「神山」、又は「鴨ノ羽山」、初名を「別雷山」としています。この「別雷山」の「雷」は「土」と訓ずとありますから、「わけつちやま」と呼んだということになります。さらに初名とありま

          賀茂別雷大神の降臨地の2ー江戸時代の地誌にある神山