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人身御供とかわいそう


 過去に、散々女性がかわいそうな目に遭ってきたり、死んでしまったりするような場面で、人々が感情を高ぶらせて大きな声を出して犠牲を出してはいけない、犠牲は避けなくてはならない、何か対策をしなくてはならないという声を取り上げてきたし、弊害のようなものも同時に発生するようなことも珍しい話ではない。

 今回も8月の自殺者統計の速報値にて下記のような記事が出たことにより、女性に対する反応が多く見られることになった。



警察庁によりますと、8月全国で自殺した人は速報値で1849人で、去年の同じ時期に比べて246人、率にして15.3%増加しました。
このうち、男性は60人増えて1199人、女性は186人増えて650人となっています。

 女性の自殺者数が増えたことを受けて、女性がこれだけ死んだことは何かがあったのだろうか?なぜこうなったのだろうか?と言うような意見が大きくとりあがったわけである。

 何か大事なことがあるはずだ、何かしてあげないといけない。こういう声は過去にも紹介したことはあるし、今回も例に漏れず登場したというわけである。知っている人は知っているだろうがいわゆる「かわいそうランキング」という同情されやすい属性であるときには、それだけ同情が得られやすい反応が出てくるという状況である。

 本件に関しては色々な異論はあるが、今回私がここで紹介したいのは、このように女性であることを理由に物事を大きく動かそうというのは、まるで人柱、人身御供のようなものであり、これらと一体何の違いがあるというのだろう?と思うに至ることである。

1 迷信とは違ってはいるものの

 人身御供とそっくりな面はあるが、そもそも人身御供自体嫌っているのではなかったのだろうか?もちろん、前時代的な迷信であることは言うまでもないし、ほとんどの人がそんなモノに今更同意をするとも思えない。

 意図的に人命をとる行為であり、なおかつ科学的な根拠が全くないものだ。そんな効力のないものよりも、実効性のあるものをできる限り求めるべきである方向、法改正や。そういったところは昔に比べれば違うとは言える。比べること自体おかしいのではないと考えるのも不思議ではない。

 また、女性の人身御供というのは、女性だからこそ価値があるから捧げる価値があるとも考える人もいるだろうが、口減らしや労働力として貴重な男性を出すよりも(昔の農業などは今と違って男性の手がないと回らないくらいの重労働である。)、女性の方が良かったとかいった面や、過去の人命を軽視されている時期だったりとする事などが考えられる。(もっとも、人柱の物語は、伝説的な部分も多く、実在するものも男性だったり、労働者だったりする話もある。本当にあるかどうかというのも怪しいものも多い。)
 女性だからという理由で捧げる価値があるという風には言えない。

 こう見ると、一体何が一緒なのだろうというようにも感じるが、不思議なことにこういったことがあったときに、犠牲によって人々の安全・安寧のために、文字通り人命をとして身を捧げているようにも見えるのである。


2 犠牲になるのは嫌っているにもかかわらず・・・。


 犠牲なんてものが出るのは今も昔も避けたいものだろう。特に現代の女性に対することになれば、大事にしたくなるほど騒いでいる光景は何度も見ている。が!

 不思議なものだが、犠牲を出したくなという割には、彼ら彼女らが騒ぐのは決まって犠牲が出たときではないだろうか?こういったときにこそ、ぶわっとでてくるものであり、普段からこのような姿を見せているわけではないのだ。

(1)何かあったときほど、声が出ていた。

 過去を思い出してみても、大手の企業にて女性が過労死したので、大きな声を出しました。女性がとある軍隊から性被害を受けましたので大きな声をあげました。性犯罪で無罪判決が出たので声をあげました。テレビ番組で出演してた女性が誹謗中傷で自殺しましたetc

 そんな女性が何かかわいそうであるという声が聞こえてきたときに、どこかから声をともに出してくれる人がわらわらとやってきて、声がだんだんとでかくなる。
 そのうち色々な人が動いてきて、場合によっては政府が迅速に動いてくれることもある。今までは動かなかったが、動いてくれる、現実が変わっていく、声をあげれば変えられるというようなことがあれば、人々はそれにおおいに満足することだろう。
 その経験を元に、また同じようなことがあれば、同じ事を繰り返すのである。

 中にはこれを利用する人間というものなのだろうか。活動家が政治集会にもいることもいる。まるで、犠牲が出るのを待っていましたかと言わんばかりに待っていましたというように、署名や活動までの時間が早く、あらかじめ用意していたのではないか?と疑うくらいだ。
 かつて、そういった犠牲を元にかつてないほどの「成果」を挙げた事例というのを紹介したことがあるが、これもその成果である。(下記の記事は必読レベルなくらいわかりやすい事例があるので、読んでみて頂きたい。)


 しかし、その姿を見るに、人身御供と一体何が違うのだろうか?誰かを犠牲にしているところから、今後の安全を祈願し、多くの人々が祈りの声を出してくる光景はまるで、神に供物として捧げた後に祈りを捧げるかのような光景にも見える。善意によって行っているものではあるが、犠牲が出ているという面では変わりがない。

 神の代わりに人が人に祈るようになっただけで、安全と安寧を得ようとしている事には変わりがないのではないか。

(2)声をあげても変わるとは限らない 

 もちろん対策をいくらしても物事が解決するとは限らないし、多くは解決しないわけである。声はあげれど、そこから変化するとも限らない。デモや政治活動をしたからといって、成果が上がるわけではない。多くは願いとなって終わるのである。 
 運良く声をあげることで対策をしたからと言っても、すべてが防げるわけではない。いつの世にも一定数の犠牲は出るし、情勢の変化によってはまた元通りの状況になったりもする。
 そうなった後に何をするのかと言えば、また同じような犠牲が出たら声を出して騒いでいくのである。 

 結局は、こうあってほしいとする願いを捧げようとしているのとそれほど変わらないものであり、多くは「お気持ちの表明」になってしまうのである。神に祈ろうが、人に祈ろうが変化しないときは変化しない。痛切な祈りは、叶わない信仰と同じである。

 それでも、何かが変わると信じて祈り続けるのである。過去に変わった事例にすがるように、「まだ、(犠牲が)足りないと。」

(3)尊い犠牲が出るからこそ、声が出るという皮肉

 声を上げても叶わないようなケースのほうが多いのだろうが、誰か犠牲が出たときに出てくる祈りというのは、他人の感情を揺さぶるには大きな効果があったこともあることを我々は数多くの事例によって認知できる。

 普段にはないようにみえることだからこそ、普段から発動できるものでもないし、こういったときにこそ人の感情を動かしやすいものである。だからこそ、目立つし多くの人にも影響を与えるのだろう。場合によっては、禁断の手段にも手を突っ込むくらいのこともやり始めるのである。

 しかし、犠牲を出して自分たちの運動や感情のために捧げるような行為は、迷信や蔑視として捉えられているようなことと、まるで同じようなことをしている姿に見える。あれだけ犠牲を嫌っているはずなのに、犠牲者を出すという事実が出ることによって、一斉に何かを祈り始める。

 しかも、それを犠牲を嫌がるものが待ち望んでいるかの如くやるというのだから、なんとも気味の悪い光景である。


 後はおまけで、ちょっとだけ近年のフェミニズムの動きに対する批判に関しての雑感で。ちょっとしたお布施という感じでも。

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