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舞台はいかに柔らかくなり得るか 東京都現代美術館「柔らかな舞台」


 常日頃から長いカタカナの名前は覚えづらく感じているが、ウェンデリン・ファン・オルデンボルフは幾度耳にしてもなかなか記憶に残らない名前であった。そのような私が彼女の名前をしっかりと記憶に刻んだのは、彼女の講演会に「参加」したことがきっかけである。東京都現代美術館で開催中(2022年11月12日-2023年2月19日)の「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」はオランダを代表する現代アーティストの一人である彼女を紹介する日本で初めての展覧会だ。オルデンボルフは過去にヴェネツィア・ビエンナーレのオランダ館代表を務め、あいちトリエンナーレを始めとする国際展に数多く参加している。今回は、私が彼女の講演会、展覧会に「参加」したことを踏まえた上で、彼女の「柔らかな舞台」はどのようなものでそれはどのように柔らかいのか、そしてそれは本当に柔らかいのかということについて論じたい。

 まず最初に、彼女の考える「柔らかさ」は何であるのか。先月、来日していたオルデンボルフが、私の通う大学で講演会を行うことが決まったのはかなり突然だったようだ。それにもかかわらず、当日講義室は大盛況であった。講演の前に、まず新作《彼女たちの》という40分余りの映像作品が上映された。映像は最初、どこかの和風建築で数人が文章を朗読しているところから始まる。時折、文章自体やその作家についての感想を挟みつつ話は進み、どうやら林芙美子や宮本百合子といった昭和の女性作家の話をしているらしいということに気づく。その後、舞台は図書館や外階段、カフェのような店内へと移り、出演者が前述の女性作家たちやフェミニズムについてざっくばらんに語り合う。特にシナリオは定まっておらず、朗読、対話を中心とした映像であった。映像上映後、オルデンボルフは私たち学生からいくつか質問を募り、自らの作品に対する姿勢を語った。その中でも特筆すべきは公共空間を作り出すことを信条とし、それが作品の一部であると捉えている点である。彼女はポリフォニー(多声性)に重きを置き、差異がある時にこそ開かれたスペースを作るべきという考えのもと作品を制作しており、その「開かれていること」こそが彼女の考える「柔らかさ」なのである。

 このことをふまえれば、《彼女たちの》に見られるような特定のシナリオを持たず様々な人の声を拾っていく映像の制作方法は「柔らかい」と言えるだろう。彼女の作品の出演者は役者ではなく、多くは彼女がリサーチをする中で出会った人々である。また、彼女は今回私が「参加」したような講演会やギャラリートーク、読書会の機会を多く設けている。それらは展覧会が開催されている東京都現代美術館に限らず、外部の本屋や大学でも行われている。このような積極的な開かれたスペースの展開も、彼女の考える「柔らかな」作品に貢献しているだろう。彼女はまた、そのような「柔らかい」場を作ることについてとても政治的であると語っている。そもそも彼女の作品の主題は、オランダの植民地支配やフェミニズムといった政治性の強いものだが、彼女は企画、準備、制作、対話など全てのステップにおいて判断を下すことを政治的であると考えているようである。講演会でも彼女は自らの政治的立場をはっきりと表明し、それに対する同意や反対意見を柔軟に受け入れていたため「参加者」である私たちは発言がしやすく実際に開かれた「柔らかな」場であると感じた。

 しかし、一方で「柔らかさ」を感じられない面もいくつかある。《彼女たちの》の出演者は確かに日頃演技を生業にしていない人々であるが、オルデンボルフの問題意識に深く関心を持つアーティストや活動家、学者といった知識人が主である。そうなると、否応なく内容もハイコンテクストなものとなる。問題意識を共有していない者、また共有していてもそのコンテクストを理解できない者たちは除け者にされている、受け入れられていないと感じてしまうのではないだろうか。多くの声を受け止めようという「柔らかさ」を重要視しているこの場合、他の演劇作品や映像作品と異なり、これらの人々を無視することはできないと思う。また、展示空間の構成についても疑問が残る。オルデンボルフは、建築自体が「作品」であるとした上で展示空間への介入について以下のように語っている。

私は以前からずっと鑑賞者を作品における積極的な参加者として考えてきました、作品と鑑賞者の間だけでなく、鑑賞者も展示空間でお互いに見えている存在なので、鑑賞者の間にも、様々な関係性を生み出したいと考えています。誰もがみな舞台上でのそれぞれのあり方を持っています。それは覗き見的なものとは違って、ある構図の中に自分の立ち位置を得るということです。鑑賞者には、自分自身の空間と思考プロセスを持ってほしいと思っています。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ『柔らかな舞台』カタログ、pp.104-105

 実際、彼女は東京都現代美術館の展示空間の構成にも深く関わっており、こだわりが窺える展示空間になっていた。まず、入場する際に鑑賞者は一人一人ヘッドホンを手に取る。展示室は映像が見やすいように少し暗くなっているが、作品同士は明確にパーテーションで分けられているわけではなく、空間は緩やかに繋がっていた。最も大きな展示室には中央にひな壇式の腰掛けが置かれ、よく見る劇場の姿になっていた。またある映像は、まるで野外劇場のように鑑賞者自ら折りたたみ椅子を置いて鑑賞するようになっていた。このように工夫された展示空間は自由に鑑賞しやすい「柔らかさ」を意識したものだろうと思うが、私は非常に鑑賞しづらく居心地の悪さを感じた。そもそも、一つの展覧会で映像をいくつも展示することは可能なのか。以前、あるキュレーターが「展覧会で映像を展示する場合、映像の占める割合は全作品中何%までと大体決まっている」と言っていたことを覚えている。そのようなルールが存在するのは、映像が鑑賞者の時間を拘束するものだからである。「柔らかな舞台」展の居心地が悪かったのは、所々写真展示や読書スペースがあるにしても、「カムバック券」があるにしても、一本約40分のどちらかというと難解な映像作品を6本続けて観るのはかなりの苦痛だからだ。加えて、映像はタイムテーブルに沿って定刻に始まるわけではなく常に流れている状態であるため、鑑賞者はほとんど途中から映像を観ることになる。時間の拘束が少なく自由に見て回ることのできる「ギャラリータイム」と時間に従属する一回性の「シアタータイム」の垣根を越えようとする試みだったのかもしれないが、どっちつかずのままになってしまったという印象を受けた。

 オルデンボルフの「柔らかさ」を作り出そうとする姿勢には見習うべき点が多くあり、彼女の作品は現代に生きる人々の抱える問題と歴史を交差させ、対話の場を作り出している。彼女にとって「柔らかな舞台」の「舞台」は映像、展示空間、対話の場全てを含めた「作品」である。ただ、その「舞台」を本当に柔らかいものだと断言するには、依然として解決されるべき問題が残っていると言える。


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