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生きるものへの癒しと愛の儀式

2019年6月、癌を患っていた父が急逝しました。

その3日前、はからずも私たち家族は甥っ子の誕生日会と称して両親の家に集まっていました。自宅から通いでの治療を受けていた父と共に。まさかそれが父との最期のひと時となるとは知らずに。

けれどその日、何か内側から突き動かされるものがあり、私は朝から家を飛び出し、父と一緒に食べるためのお土産を買いに出かけたのです。その日のスケジュールを考えると朝から私がひとり出かけるのは効率が悪く、なぜそんな身勝手な行動をするのかとパートナーと口喧嘩にもなったのだけれど、それも百も承知の上、その日は「あと何回、父のために何かを選ぶことができるかわからない」「あと何回、何かをプレゼントできるかわからない」「あと何回、共に過ごせるのかわからない」ーーそんな強い想いが湧き上がるものの、口に出して現実になってしまうのを恐れ、それを拒むかのように何も言えず、家を飛び出しました。そして自転車をかっ飛ばしながら、気がつけばボロボロと泣いていました。

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ホリスティックなことをライフワークの主軸にしていこうとしている私が、なぜ父を助けることができないのか。たとえ家族だったとしても、自分以外の人生を変えることができないのにも関わらず、当時の私はそんな傲慢な思いを常に抱えていました。代替医療を含めたホリスティックな治療を探しては父に勧めたり、治療方針にもよく口を出しては病院の主治医を困らせていました。対処療法では完治できないはずだ、という戦いの意識のなかにいた私は、私にとっての正義を証明せずにはいられない。そんな苦しい状態を生き続けていました。どんな治療であれ、本人が選んだものが最善なのだと、当時の私は思えなかったのです。

けれど父が急逝したとき、私は父がこの日を選んだことを、父は父の人生を全うしたのだということを直観的に知るのでした。

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自転車を飛ばした私は結局、家族みんなで食べるために美味しそうなプリンを購入し、家族が待つ両親の家へ向かいました。甥っ子の誕生日会は、子どもたちの遊ぶ声が絶え間なく響き、いつものように賑やかで騒がしい。食欲もほどほどの父は少しつまんで食べたあとは部屋で休んでいたためお土産のプリンには手をつけませんでしたが、私たちが帰宅したのちに食べることができたようで父からのお礼の動画が母から送られてきました。「美味しいよ、ありがとう」と。それが私が動いている父をみた、父からの感謝の言葉を受けとった最期となりました。あの日の朝に感じた内なる衝動、それに従った自分には感謝しています。何かわからないけれど何か感じる。あの言葉にできない感覚、テレパシーのようなものを大切にしていたいと改めて感じています。

その3日後の父が亡くなった日、私は娘の幼稚園の参観日で園に出かけていました。「いますぐ病院に来て!」という母からの電話で、血の気が引く感覚がしながら車で向かいました。はからずも父が通っていた病院から車で15分という距離。車を運転しながら頭を駆け巡ったのは知人(故・真舘嘉浩さん)の「愛は生きているうちに」というフレーズ。「どうか間に合って!」という想いは届かず、私が病院に着いたときには息を引き取っていたあとでした。その後、数十分後に弟も到着。普段、涙を見せない彼が、うなだれて泣く姿に驚き、嗚咽しながらも冷静に状況を把握している自分も同時にいたのを記憶しています。お父さん子だった弟。その日は彼の息子、甥っ子の誕生日でした。

次の世代にバタンを渡すことを決めた父。この日に決めていたんだな、と、家族ひとりひとりがその意志を受け取っていたような気がします。

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翌月、フラワーアーティスト塚田有一さんと医師であり『いのちを呼びさますもの』の著者である稲葉俊郎さんのワークショップに参加し、ワークの終わりにみんなで余った花で花曼荼羅を作りました。その光景に既視感を覚え、なんだろうと振り返ると、父の葬儀での光景でした。棺のなかにひとりひとりが花をたむけ、別れの儀式をしたあの光景。そのとき「あぁ、儀式は、生き続けるもの、生きるものへの癒しと愛のひと時なのか」。そんなことを感じ取っていました。


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長くなったので、ひとまず終了!また続き?続編?書きます。
読んでくださり、ありがとうございました!

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