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誰もが立ち返る「母」との関係性

どこからどう描写していいのかわからず、一段落書いては消して、を繰り返していました。

私たちは誰もが母の胎内で数ヶ月間を過ごし、そこで胎児として充分に育まれ、そしてこの世に生を受けるに至っています。そして胎児の頃から多大な影響を受け、その後の人生の基盤を作ってきています(そんな影響を受けることさえ、自分の魂が事細かに選んできているわけですが)。母との関係性は、私たちが「自分を知る」「自分に還る」という悟りのプロセスにおいて、誰もが必ず立ち返ることになるテーマであると感じています。

もしかすると母親のことを長らく許せないと感じている人もいるかもしれません。疎遠になっていたり、確執が生まれて連絡を取らない間柄になっている場合もあるかもしれません。もしくはとても仲良いだけに、その関係が壊れるのが怖くて、無意識に向き合いを避けている人もいるかもしれません。本当は母を許していない。本当は憎い。辛かった幼少期は母のせいだ。小さい頃に本当はひとりで寂しかった。甘えさせてもらえなかった。もっと一緒に過ごしたかった。自分が思い描いた形で、愛をくれなかった。受け入れてくれなかった。だから困らせたい。だから避けている。だから優しくできない。そんな自分の本当の感情と向き合うのが怖くて、できたら見ないで過ごしたいと思っている人もいるかもしれません。

男女関係なく、誰もが、生まれたときから母の愛を感じて生まれてきています。月日を重ねるなかで、それが思い描いた形で与えられなかったとき、私たちは、それが本来の「愛」なのだと脳が誤認していきます。ある条件のもとでしか与えられない愛。条件ありの愛。頑張らなければもらえない。いい子でないともらえない。しっかりしていないともらえない。泣かないでいないともらえない。男の子なんだから。女の子なんだから。さまざまな条件のなかで与えられるものが愛なのだと、脳が思い込んでいきます。それら脳の誤認に気づき、本来の愛を知ることで、私たちは深いレベルで自分自身を癒し、重くなった感情を手放し、許していく。自分自身を許すことで初めて、相手を許すこともできます。

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母との関係性において、人並みの反抗期や人並みの自立をして生きてきていた(と思っていた)私は、心配症で過保護な感じもあるけれど友人のような存在という当時の母との関係性に対して、さほど大きな疑問も抱かず生きていました。そんな私が「違和感」を感じ始めたのが、36歳で子どもを身ごもったときでした。

海外の学校を選んだことも、編集者としてバリバリ働くことにしたことも、どちらも母の影響が及ばないだろう領域を無意識に私は選択していたのかもしれません。そんな私が妊婦になり、初めて母が“経験者として助言できる立場”になったとき、私のなかで拒否反応が起こり、私の領域を侵さないで欲しいという感覚が湧き起こりました。これが拗れると確執になりかねない。そんな危機感さえ感じるほどでした。いま思えば、胎内にいる胎児の魂が「こっちだよ〜」と感覚的なベクトルを教えてくれていたような気もするのですが、生まれて初めて私は母との深い共依存の関係に気づいていきます。それが目に見えない領域で多大なエネルギーを重ね合っていることだとわかるまでは時間が必要でした。

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子どもを授かってからしばらくして、私は「子宮頸がん」の健診で高リスク型として引っかかるようになります。婦人科に通いながら定期的に詳しく検査をしても子宮自体は問題なく、原因不明。様子見をしているうちに今度は子宮から謎の出血をするようになります。産後に1ヶ月くらい続く悪露(分娩後の産褥時に子宮から排出するされる分泌物)などとは比べものにならないほどの出血量。ひどいときは、こぶし大の血の塊がドバドバと立て続けに出る始末。貧血で夜中に意識が飛びそうになり、これはヤバい!と広尾の日赤病院に駆け込んだこともありました。止血の点滴を打ってもらい、さらに精密検査をしてもらうのですが、やはり子宮はきれいで何の病でもない、とのこと。

それから2年ほどは出血はないものの、時折り不安が残ると感じていた2018年。私は友人の紹介でとあるキネシオロジーのセッションに出会い、自分のインナーチャイルドの声を聞くことになるのです。子宮の出血が抱えているテーマは「母性」でした。

私には数年に一度くらいのタイミングでときどき思い出す「消えてしまいたい」と感じていた7歳頃の記憶がありました。セッションを始めるにあたり、急にその記憶にアクセスすることになります。学校がつまらなくて楽しくなかった。理由はそれだけだと長らく思い込んできたけれど、本当は学校だけではなく、家でもつまらなかったことを思い出します。頭を後ろからドンと叩かれたような、鈍い痛みが脳内で響きました。「あぁ、そうだったのか……」と一瞬にしてすべてを理解していきます。いつからか、子どもが自由に表現できる場を作りたいと、なぜか祈るように願っていたこと。誰もが生きやすいと感じる場。そんな場所を必要としていたのは、紛れもなく「私」でした。点と点が線になったとき、泣きたくもないのに、ひとしずくの涙が頬を伝いました。「消えてしまいたい」と感じていた幼き自分と再び繋がった瞬間でした。

さらに自分の魂をちぎって7割を母に預けてきたということを知ります。幼き自分の感覚・感情を呼び起こすことで、長年のエネルギーの重なり合いに気づいていくというセッションでした。そこで最終的に感じていたのは、先祖代々から蓄積されている集合意識に縛られて生活してきた母や祖父母の姿。そうするしかなかった。時代背景に翻弄されて、どうしようもないという「慈悲」の感覚でした。

慈愛ではなく、慈悲を感じる。そうわかりやすく感じたセッションでもありました。どこか被害者と加害者のいる二元的な世界観です。そのため、セッション後は3日間ほど嗚咽するほど号泣し続けていました。幼少期の自分の感覚・感情がすべて蘇ってきてしまい、その感覚に覆われ、どう今までの感覚に戻っていいのかわからない。一旦は統合したものの、突然の同居に戸惑いしかないような感覚。今後どうやって母と接していいかわからない、という迷子。けれどそんな時に限って、家族の誕生日会という名目で数日後には顔を合わせることになったのです。

そこで母が放った言葉に私は驚きます。「この前、小さな子どもが出てくる夢をみて。たぶん〇〇ちゃん(3人目の孫)だと思うんだけれど。もっと私のことをみて!って言うの。だから反省してね。(3人目なだけに面倒みることも少なかったため)これからはもっとかまってあげないと」とポロっと話すのです。その夢を見たという日は、まさに私が母から魂を返してもらった日。夢の中の小さな子どもは、幼き日の私自身でした。私たちは常にお互いに影響し合っているという現実。世界。それをまざまざと体験することで、あ、もう大丈夫だ、と不思議な安堵も覚えました。現象世界において「伝わっている」ということを改めて感じることで、自己受容が深まったのかもしれません。

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もともと肌が敏感で弱かったのですが、その頃から炎症が目にみえてひどくなっていきます。同時にそれは私が私に戻ろうとする過程、プロセスが本格的に始まったことを知らせてくれていました。

その後、長らく放置してきた自分自身の感情・感覚を味わい尽くす、感じ切る、出し切る、ということをOSHOのアクティブ瞑想やクラニオ・バイオなどの施術を通して深めていった気がしています。同時にグルテンフリーやシュガーフリー生活なども始め、心身ともにただひたすらスポンジのように柔らかくしていく。とことん素直になる。そのためのプロセスでした。

そして私自身の準備が整ったとき、MOTOKOさんのシータ・ヒーリング®︎と出会い、自分自身を癒し、手放すことについて学びを深めることになりました。各種学びを通じて宇宙の理に触れることは、私にとってどこか思い出す感覚、確認していく感覚に近く、スルスルと腑に落ちていく感覚がありました。その後、他のセッションなども含めた各種向き合いを通じて、4歳から続いた祖母とのエネルギーの重なり合いを「家族のために自己犠牲する」というDNAレベルの思い込みと共に手放したり、7歳から続いていた母とのエネルギーの重なり合いを2021年には本格的にリリースしていきます。

深いスピリチュアルレベルでの解放劇が起こるとき、私の場合はとてもわかりやすい形で現象化されました。最後のエネルギーの重なり合いの解放には、真夜中に得体の知れない気持ち悪さと共に飛び起きてしまうという通過儀礼のような出来事がありました。肌の違和感と熱感、尋常ではない違和感を感じて洗面台に行くと、鏡に写っていたのは見たこともない形相に腫れ上がっていた自分の顔でした。まさに取り憑かれた別人。顔面が膨れ上がり、目は開こうとしているのにほぼ開いていない状態。いつもの皮膚炎の悪化とは明らかに様子もレベルも違う。エネルギーの重なり合いの可視化、現象化そのものでした。

人間の世界の「愛憎」というものは、わかりやすいほどに表裏一体にできている。そんなことを感じずにはいられないほどの状態でした。掛け違えたボタンをかけ直していくかのように、慣れ親しんできた手法を手放しながら、私たちは共依存や自己犠牲という「思い込み」によって理解していた「愛」というものを本来的な意味合いとして理解し直し、本来の自分を認め、輪郭線をくっきりと強めていくのだと感じています。重なったエネルギーが象られると、どのようなものとして現れていくのか。その目撃者として体験することを、私の魂は選んだのでした。

そのほかにも自身との向き合いのなかで、潜在意識レベルでのさまざまな思い込みや信念体系に気づいては見直し、不要になったものは手放す、ということを繰り返してきました。もちろん過去生からの影響や、思春期や青年期に体験した経験からの思い込みもあったりはしますが、何より深いところでの「常識」や「当たり前」というレベルの思い込みや信念体系を作っているのは、幼少期における体験です。小さい頃に経験した家族とのこと、身近な関係性の間で行われたこと。それらの向き合いが最も深く、私たちの世界を象っている要因だったりします。

もはや細かい向き合いの内容は覚えてはいないのですが、例えばMOTOKOさんのシータ・ヒーリング®︎のリレーションシップの講座では、私が家族に対して代替医療や食事療法、健康法を薦めたりするのは、幼少期に満たされなかった私の復讐心からくるエゴティズムだということに気づかされました。なんだ、復讐なのか。そんなひどいことをしていたのか、と気づいたとき、初めて本当に手放す覚悟が決まりました。いわゆるヒーリングを介さずとも、顕在意識レベルでの気づきひとつで大きな変容が起こった瞬間でもありました。

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私の大いなる禊は2021年がメインでした。2019年頃から長らく続いていた皮膚炎もほぼ終わりを迎えていました。そして2年経った2023年、インドのアーユルヴェーダ病院にて何十年もかけて溜め込んできた深いところの毒素をリリース。精神的な気づきは一瞬で起こりますが、ときに三次元に存在する肉体は追いつくことができない。ゆっくりと、けれど確実に、デトックスしていきます。そして半年経ったいま、肌の炎症はほぼなくなってきているだけでなく、肌ツヤが若返り、内側からの光のようなものが増すようになってきました。

そして不要になったものをすべて手放したあと、私たちが向き合い続けるのは「魂が本来的に望むこと」を実現していくこと。そうすることで、さらに健やかな形で身体と心が整っていくのだということを感じています。要は、好きなことをして波動・バイブスを高めていく。それが誰かと再びエネルギーの重なり合いをしてしまうことを防ぐ、いちばんの方法だと感じています。魂の目的をひたすら進めることで、不必要な依存はせず、真に自立した存在になっていくということ。そんなことを改めて感じています。(きっとこれは私のDHが乙女座であり、DT魚座の依存からの解脱、精神的な自立がテーマであることも関係していると感じています)。

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この向き合いは私にとってはメインテーマのような大きな課題だったため、ひとつの記事にまとめられないほどの内容なのですが、かいつまんで綴ってみました。詳しくは「holos.QUANTA」というオンラインコミューンでご覧いただけますが、当時の感覚とはまた変わってきているので同じようなテンションで文章を書けないようです。同じようなプロセスを辿っている、誰かの向き合いの一助になったらただただ嬉しいです。

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どんなに憎んでいたとしても。どんなに苦しんでいたとしても。どんなに自分が思い描いた理想とは程遠かったとしても。どんな形であったとしても、それは私たちが自分自身で選び、創造してきているものです。なぜそんな辛い思いを抱えることを自ら選んできたのでしょうか。なぜ誰からも愛されていない。誰からも必要とされてきていない。そう思い込んできたのでしょうか。

大人になった今だからわかること、ありませんか。あなたが培ってきた経験。あなたが感じていたもの。それらを糧に今の素晴らしいあなたが存在しています。大人になった今だからわかること、ありませんか。今まで許してこなかった人にも何かしらの事情があったこと。今まで憎んできた人にも人生の目的、課題、そしてあなたとは別の世界線があること。大人になった今だからわかること、ありませんか。すべてはあなたが選んできたとしたならば、あなたが何かに気づきを得て、今世において魂の成長をするために、相手がいたのだ、と。相手がいてくれたのだ、と。私たちは誰一人として、一人で生きることはできません。お互いに常に影響し合って生きているのです。

宇宙の理を知り、私たちが自分という存在に深く理解をすることができたとき、世の中に争いはなくなると感じています。たった一人の自分という存在にいかに寄り添い、すべてを許していけるのか。それが平和への一歩だと確信しています。









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