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No.578 「惚れてまうやろ!」と言わせたその男と祇園祭

男の私が、惚れてしまった男がいます。藤原保昌は、平安時代中期の貴族です。大和守、摂津守、丹後守などを歴任した人物です。摂津守となり同国の平井の地に住んだことから平井保昌とも呼ばれます。後に、和泉式部の夫となった酒呑童子退治をした一人としても有名な藤原保昌を知る面白いエピソードが『今昔物語』(『宇治拾遺物語』、『十訓抄』にも)にありますので紹介します。荒っぽい訳ですが、ご一読ください。
 
『今昔物語』巻25第7話「藤原保昌朝臣値盗人袴垂語」
「藤原保昌、盗人袴垂(はかまだれ)に値(あ)へる語(こと)」
口語訳…「今は昔、世間で袴垂と呼ばれる盗賊の大親分がいました。肝が太く、力が強く、足が早く、手先が起用で、思慮も深く、多くの人々の隙を伺っては物を奪い取ることを仕事としていました。

その男が、十月頃のこと、(寒くなったので)着る物が必要となり、少しばかり手に入れようと、ありそうな所をあちこち探し回るうち、真夜中の頃とて、人が寝静まって月もおぼろに霞む時に、衣装を何枚も着込んで、指貫らしく思われる袴の裾を手挟み、柔らかそうな狩衣姿で、ただ一人、笛を吹きながらゆっくりと歩いている人がいました。

それを見た袴垂は、『これは俺に衣をくれるために現われた奴に違いない』と、喜んで走りかかり、打ち伏せて衣を剥ぎ取ってやろうと思いました。しかし、その人はなんとなく恐ろしげなので、寄り添ったまま二三町(220m~330m)ばかり歩いていくと、少しも自分を気にする様子が見られず、いよいよ静かに笛を吹き続けています。袴垂は、試しに足音を高くしてバタバタと走り寄ってみたのですが、全く動じません。笛を吹いたままこちらを見返した様子が毅然としていたので、飛びのく以外ありませんでした。
 
こうして何度か驚かそうとしてみましたが、一向に動揺する気配がありません。袴垂は、『これは大変な奴だぞ』と思いながら、十数町(1km以上も)ついて行きました。そのうち、『こんなことばかりしてはおられんぞ』と思い、刀を抜いて走りかかりました。すると、男は笛を吹きやめて『お前は何者じゃ』と言いました。たとえ相手が鬼であっても、一人しかいないのだから恐ろしいことはないはずなのに、どうしたわけか、心も肝も消え入るほどに恐ろしいと思った袴垂は、我を忘れて立ち尽くしました。『誰じゃ』と男は更に自分の名を尋ねます。そこで、もう逃げられまいと観念した袴垂は、『おいはぎでござる、名を袴垂と申す』と答えると、男は『そういえば聞いたことのある名だが、珍しい奴だ。一緒について来なさい』と言って、又同じように笛を吹きながら歩き始めました。
 
この人の様子をよく見ると、『尋常の人ではあるまい』と恐れをなし、まるで鬼に魅入られているような気持ちでついていくと、この人は、大きな家の門の中に入っていきました。そして履のままで縁側に上ったので、『こりゃあ、この家の主人だな』と思っているうち、家の中からすぐに出てきて、袴垂を呼び、厚い綿入れの衣を一枚与えると、『今後も欲しいものがあったら参って申せ。良く知りもせぬ人に斬りかかって行って、怪我をするのではないぞ』といって、再び中に入って行きました。

家の主を確かめると、摂津前司保昌という人の家でした。『これが、あの音に聞こえた保昌だったのか』と思うと、生きた心地もせずに出て来たのでした。その後、袴垂が捕らえられた時、(保昌について)『何とも気味の悪い、恐ろしい人だった』と語ったそうです。」
 
私は、この威風堂々として泰然自若とした藤原保昌という人物に「ほ」の字です。慌てず、騒がず、ないがしろにせず、盗人に命を脅かされようとも情けをかけてやり、過分な着物を与えた上に、「下手に他人に斬りかかって命を落とすでないぞ」と諭してやるのです。男の中の男です。上司を持つならこんな人、もう一生ついて行きたくなるような御仁なのであります。
 
京都の「祇園祭」がもうすぐ始まります。その山鉾の一つに「保昌山(ほうしょうやま)」がありますが、ご神体は、平井保昌(藤原保昌)です。謡曲の『花盗人』に歌われた、保昌(958年?~1036年?)と和泉式部(976年?~1030年?)の恋にまつわる物語を取り上げたものだと言われています。名物の保昌山粽(ちまき)は、「縁結び」のご利益があるとされている人気の一品です。
 
さて、二人が結婚したのは、1013年(長和2年)頃で、保昌は55歳前後、和泉式部は35歳前後のことだったとか言われています。式部自身は、前夫・橘道貞との間に娘・小式部内侍(999年?~1025年?)を生み、敦道親王との間に息子・永覚をもうけましたが、この保昌との間に子がいたかどうかは明らかではありません。
 
因みに、百人一首でも有名な小式部内侍の和歌、
「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立」
が誕生したエピソードは、母親の和泉式部が、丹後守となった夫の藤原保昌に付き従って下った1020年前後の頃になるのでしょうか。その娘・小式部内侍を25歳前後で失います。恋に生きたと言われる和泉式部の哀切な歌、慟哭の歌がのこされています。
 
波乱万丈の人生を謳歌したかに思われる当代一流の歌人にも、矜持の光と胸掻きむしる影があったのです。