「なんで死んではいけないのか」と問われたとき②
この記事は「なんで死んではいけないのか」と問われたとき①の続きとなっている。まずは①を読んでからご覧いただければと思う。
自殺に反対する
ここまで自殺の積極的側面を取り上げ、また中立的立場からそれを評価することをしてきたが、最後にようやく、自殺に反対する意見を少し述べておきたい。前回に述べたように、これは何か特定の証明したい結論があるからというよりも、クライアントをオープンなコミュニケーションの継続という、自殺予防のプロジェクトへの参加へと促すものである。
ヒューマン・プロジェクト
かつてはヒトは他の生物とは異なる神の似姿として創造され、それが生きる意味は、創造主である神の目的を実現することであるとされていた。しかしダーウィンの進化論をはじめとした科学的説明によれば、ヒトの生命は単なる遺伝子の運び手であり、そこになんらかの目的があるという見方は退けられている。以前はあたかも目的を持っているかのような精緻にデザインされた身体構造が神の存在の証とされ、そこから「生きる意味」について語ることができたが、ダーウィンはそれを退けてしまった。つまり生物としてヒトは、個体としては生きる目的など持たず、従って生は単なる現象であり、そこに意味などはない。
しかし「ヒトは単なる遺伝子の運び手である」という結論は、その一方で僕らを納得させるものではないように思う。なぜならそこには、あくまでヒトという生物的側面しか存在していないのである。我々は単なるヒトではなくそれ以上のものである、という社会の中で生きている。ヒトはそれだけで人間になるのではない。その基本的な権利が認められて、始めて人間になるのである。ヒトではなく、人間として、我々は生きる意味を問わなくてはならない。
しかしこれは、人間にはなんらかの生きる目的が必要である、ということではない。むしろ単なるヒトではないものとして人間を定めるということは、人間の存在それ自体をその目的とするようなことであると言える。ヘクトの『自殺の思想史』の中で、カントについて述べた部分にはこのように書かれている。
カントが反対するのは、人間を単なる手段とするようなロジックである。前回の記事で述べたように、自殺は自らの命を手段とすることで、何かを達成しようとするものであるとも捉えることが可能である。カントのロジックはそれに力強く反対するものである。同時にそれは、手段として自殺を用いることが是認されるような状況を、非人間的であると批判することも可能にするようなものである。
しかしここで注意をしなくてはならないのは、生きる義務とは、特定の誰かに対する義務ということではない。そうではなく、それは人間を単なる生物的なヒトを超えたものへと押し上げるような、ヒューマン・プロジェクトともいうべきものである。それは単なる生物的なヒトを超えた存在としての人間の苦闘の過程であり、歴史と呼ばれる。生きるだけで、わたしたちはそのプロジェクトに貢献しているのである。生きることに目的や意味は必要とされない。それは生きること自体が目的であり、そして意味だからである。この点から、自殺に対して反対することができる。
共同体の視点
カントの立場より、もっと身近な他者の存在のためにも、わたしたちは生きることができるし、自殺を思いとどまることができる。わたしたちは社会的存在であり、相互依存し、繋がりを持ちながら生きている。その中で誰かが自死することは、その共同体そのものを危機に晒す。
古典的にはウォルテル効果として知られるように、自殺は伝染性を持つ。一人が自殺することで、地理的・心理的・社会的に近い人たちに対して、自殺念慮を引き起こす。このことは社会科学的な研究がますます明らかにしていることである。そのため自殺することを拒否することは、それだけで多くの人に対する貢献となっているのである。今もそうして、人知れず誰かのために苦しみに耐えている人は多くいる。ヘクトが『自殺の思想史』で繰り返すように、これを読んでいるあなたもまさに自殺をしないというその一点において、他の人を励ましているのである。
孤立は自殺のリスクを高める。その孤立の末に自死を迎えてしまうことで、その最後のつながりによってそれが共同体にダメージを与えることになってしまう。何より必要なのは、つながりである。これは何も、家族や恋人といいった親密なものに限らない。SNSでのちょっとしたやりとりでも十分な繋がりなのだろう。今まで引用してきたジェシー・ベリングは、彼自身が自らのセクシャリティへの悩みから長年の自殺念慮に苦しんできた人である。彼の著作の最後に紹介されたのは、以下のエピソードである。
あるいは、徹底的な自己否定というものも共同体の問題へと辿り着くことがあるのかもしれない。自分が存在しているにも関わらず、自分の中にその存在の根拠がないとしたら、それはどこにあるのか?それは自分の外、すなわち他者の中に見つけることができるものになるだろう。
哲学者である田邊元は親鸞の思想から、徹底的な自己否定(懴悔道)によって自力救済の願望を廃棄し、絶対他力という他者からの救済に至ると述べている。つまり自身の生きる意味は、自分の中にあるのではなく、他者の中にあるのである。この他者との繋がり(縁)によって、自身が生じる(起)ということが「縁起」である。そしてこれはまた同時に、自己救済ができなくとも、他の誰かを起こすことの可能性が自身の中にあることに開かれることでもある。
こうした縁起による円環的なつながりの中で、わたしたちは相互依存しながら生きている。自分の中に自身の生きる意味や目的が見つからなくても、広大に開かれた世界/他者の中にそれを見つけることができるかもしれない。誰もが、誰かの生きる意味や目的になる可能性に開かれた存在であると捉えるのであれば、その視点から自殺に対しては反対することができる。
自分自身の視点
わたしたちは、ヒトとしては単なる遺伝子の運び手として以上の意味を持たない。しかしながら、わたしたちの社会は、わたしたちが単なるヒトという生物ではなく、誰からも侵害されることない固有の権利、すなわち基本的人権を持った人間であると定めるという、ヒューマン・プロジェクトを基盤とする。わたしたちは、存在するだけでそのプロジェクトに貢献している。
しかしそれが故に、わたしたちは他の誰でもない自分自身で、自分固有の生きる意味や価値を見つけなくてはならない。ティリッヒは『生きる勇気』で、サルトルについて論じる中で以下のように述べている。
自分の中に、生きる意味や目的を探したところで、見つからないのはある意味で当然である。それはわたしたちが、わたしたち自身で創造していく必要があるものであるからである。
先の記事に述べたように、手段としての自殺の弱点は、それが取り返しがつかないことである。それは未来の自分の可能性を奪うことになってしまう。それが故に、自殺に対して反対することができるのである。
結論なき結論
以上、最後に自殺に反対する立場について述べた。しかしながら、このいずれも最終的な結論、ということはない。最初の記事で述べたようなプロセスが進行していくと、こうした反対論はどんどん耳に届くことは無くなってしまうだろうし、それは精神的な病に苦しむ人や、社会的に苦しい状態にある人たちにとってもそうである。
だからこそ、わたしたちは考えていかなくてはならない。べリングは次のように述べている。
対人支援職の立場としては、被支援者には「自殺をしない」という答えに辿り着いてほしいと願う。しかしその答えは、数学の問題のように決まった解法で導くことができるものではない。被支援者自身が見つけてもらう必要がある。しかしながら、それは被支援者自身が一人で考える、ということではない。私たち支援者は、彼ら・彼女らを決して孤独にすることなく、一緒にそのことについて考えていく必要がある。
優雅に一緒に、頭を掻きむしろう。
参考文献
ジェシー・べリング、鈴木幸太郎訳(2021)ヒトはなぜ自殺するのか:死に向かう心の科学 化学同人
ジェニファー・マイケル・ヘクト、月沢李歌子(2022)自殺の思想史:抗って生きるために みすず書房
パウル・ティリッヒ、大木英夫訳(1995)生きる勇気 平凡社
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