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トラウマの本質とは何か:自己の物体化と基本的価値観の変化

数々の文献に記されたトラウマの定義に共通する要素を分析すると、自己の物体化と基本的価値観の歪曲に要約できます。自己の物体化とは自由、意思、価値観、尊厳といった人間性の剥奪であり、非力感に打ちのめされた状態です。この状態が持続すると個人の自己概念、他人への信頼、世界観などそれまで疑うことのなかった基本的な価値観が歪みます。これが定着してPTSDとなるのです。ジュディス・ハーマンは、トラウマ体験には孤立と非力感が付きまとうと述べていますが、これは自己物体化と基本的価値観の変化についての的を射た指摘です。

大谷彰. マインドフルネス実践講義:マインドフルネス段階的トラウマセラピーより

上の引用は、大谷彰先生による『マインドフルネス実践講義:マインドフルネス段階的トラウマセラピー(MB-POTT)』の中でトラウマの定義として述べられた部分である。非常に端的に、トラウマ体験が人の心にもたらす影響を表している。

多くの専門家が指摘しており、そしてこのnoteでもたびたび述べてきたように、記述的精神医学をベースとした操作的診断基準はトラウマ概念と極めて相性が悪い。そのため何がトラウマ体験となるかは主観的側面に大きく左右されるにもかかわらず、トラウマの定義をDSMにおけるPTSDに準拠するのであれば、その客観的側面によってそれは決定されることになる。引用箇所の前段で大谷先生が述べているように、DSM式の事実の列挙というものではトラウマ体験の本質が曖昧になってしまう恐れがある。

大谷先生がここで示した自己の物体化、そしてそれに続く基本的価値観の歪曲という定義は、クライアントの主観としてのトラウマ体験を非常にうまく捉えている。DSMとはまた違う角度からのトラウマを見るための手がかりとして、これについて考えていきたい。主に最近、臨床場面で心理教育にて話題にする事柄なので、エビデンスに基づいた学術的議論ということではないのでその辺りは了承してほしい。

ヒト/人間という二重の存在

われわれは皆、ヒトという動物の一種である。以前の記事で述べたように、動物たるヒトとしてのわれわれは、遺伝子の運び手でしかないし、この点においては単なる物体でしかない。しかしわれわれは動物以上の、つまり遺伝子の運び手を超えた、単なる物体ではない特別な存在としての人間なのである。つまりわれわれは、物体としてのヒトと、特別な存在としての人間、二重の存在として生きているのである。

さて、物体としてのヒトと、特別な存在としての人間、この両者の間には一種の緊張関係と順序が存在していると言える。われわれが物体としてのヒトであるということは客観的な事実(自然科学的な事柄)であるのに対して、われわれが特別な存在としての人間であるいうことはむしろ共同主観的な見方(社会科学的な事柄)である。いわば共同体を通じて、ヒトという物体は人間という存在に移行されるとも理解できるだろう。

この移行は、公的(あるいは社会的)領域と私的領域、この両方で生じると考えることができる。

基本的人権と基本的信頼感

まずは公的領域である。歴史を通じて人間の範囲は拡大されていき、現在ではすべてのヒトは人間であるということが共有された社会の中で、われわれは生きている。そのことが宣言されているのが世界人権宣言であり、それが保証するところの基本的人権によって、われわれは単なる物体から人間へと移行されたのである。

次に私的領域である。いきなり私事になるが最近筆者の周りで相次いで姪と甥が生まれたのであるが、たまたまそれらと二人きりになる機会があったのでそれはとてもとても可愛がった。「○○ちゃんかわいいね〜、世界で一番かわいいね〜」という感じである。筆者との関係において、甥と明は単なる動物や物体ではなく、特別な存在として扱われたが、もちろん家族との間でもそのように扱われているようである。こうした幼児期の特別な体験によって生じるのが基本的信頼感である。これによって、ヒトは自らがその存在においてこの世界で特別な地位を占めると確信し、それによって人間へと移行することができるのである。

単なる物体としてのヒトは、公的な領域においては基本的人権が、私的な領域においては基本的信頼感がベースとなって生じるプロセスを経て、特別な存在である人間として移行していく。この移行によって自分は自由、意思、価値観、尊厳を持っており、またこの世界に向けて積極的に働きかける力を持つという確信を持つのである。

この確信は客観的な(あるいは自然科学的な)事実ではなく、一種のフィクションというべきものを土台としている。しかしこうしたフィクションを元にした確信こそが、われわれが人間としてこの世界で主観的幸福を保って生きていく上で決定的に重要なのであり、幸福追求権として公的に認められ、あるいは一般的に親から向けられる愛情への反応として子供に自然に生じるものなのである。

人格の全体性

もう一つ重要な点としては、この感覚はその人の人格の全体性に宿る、ということである。人格の全体性とは、身体・感情・思考といった機能、そしてさまざまな属性や社会的役割といった要素が統合され、一つの固有な存在としてまとめ上げられたものとしてのわれわれを指すものである。基本的人権や基本的信頼感をベースとした、自分が単なる物体を超えた特別な存在であるという感覚は、そうした人格の全体性を解体し、特定のパーツへと還元していくことを拒否するものである。

次に述べるように、われわれは生きていく上でさまざまな要素的なものへと還元されていくような、つまりパーツ化ともいうべき圧力に晒されることになる。それに抗って、自らが代替不可能な存在であるという感覚を維持し続けるために、こうした感覚が必要とされるのである。

物体化への圧力

こうした一方で、われわれはこの社会で生きる中で、どうしても属性や役割といったもので捉えられる場面を避けることができない。例えば筆者も、以前から組織の中で労働者として働いているが、ここでは労働力として切り取られ、それを金銭として交換しているという側面がある。これはヒトを人間へと移行させたパーツを全体性へと統合していくものとは反対の、つまり全体性をパーツへと還元していく力学を帯びている。

だからといって、こうした力学があるからすぐに人格の全体性が崩れていくかといえば、そうではない。少なくとも筆者の現在の職場では、確かに安価な労働力という側面はどうかと思うものの、それでも労働環境としては、人間としての側面が脅かされるものではない。反対に給料が高くとも、物体化への圧力が強く、人間としての側面を脅かされるような職場を、筆者も以前には経験したことがある。「社畜」なる言葉で表されるような状態とは、この物体化の圧力が強い労働環境の中で、人間としての側面が強く脅かされている状態をうまく表していると言えるだろう。

経済活動自体が人間を単なる労働力というパーツへと還元しがちな力学が働きやすいために、そこに一定の歯止めをかけることが求められる。そこで公的領域においては労働基準法などによってそれが定められている。これは資本家や経営者によって人間が労働力としてパーツ化され物体化されることを食い止めようとするものである。しかし、現代においてもしばしば公的領域の干渉が緩められ、その度に労働者がパーツとして切り取られ物体化されるということは起きる。現代の日本において「規制緩和」などの言葉によって押し進められるのは、公的領域の制限を取り払うようなことであり、その度に労働者への物体化の圧力が強まることが起きている。

産業革命、あるいは現代日本において規制緩和によって拡大した人材派遣業への風刺画

生活の中での物体化への圧力

こうした物体化の圧力は、なにも労働環境だけでなく、生活のありとあらゆるところに偏在している。むしろ、ほとんどの場合でそうであるかもしれない。家族における役割、ミニマムな対人関係、あるいは親密な関係においても、われわれは単なる物体としての側面がクローズアップされることは珍しくない。

夫や子供のケアをするためだけの存在となってしまう妻、いわゆるATMとしか扱われない夫、両親の期待に応えるために振る舞う子ども、人気者の引き立て役となるためだけの友人関係、性的対象として金銭化される関係などがその例である。

これらにおいては、その人の人格の全体性は問題とされない。有益となるパーツこそが重要なのであり、その他の属性は切り離されて、そうしたパーツこそがその人全体をあたかも表象するものであるかのように扱われる。パーツが求めらることは、われわれのナルシシズムを満たすものかもしれないのであるが、それが行き過ぎた時には危険なものとなることは以前言及した通りである。

また、一時期報道を騒がせたように「生む機械」という発言や、票田を得るためにヘイトを煽る政治家の声にあるように、公的領域においてもそれらを煽ることさえある。

こうした物体化に抗して、われわれが精神的健康を保つためには、人間性を守らなくてはならない。いうならば、パーツ化する圧力に対して、人格の全体性を保持しなくてはならないのである。ある人間関係や社会的関係が自分をパーツ化して扱ってくるようであれば、そこから離れたり、あるいは自分の全体性をつなぐ人間関係を別に持つなどしなくてはならない。

しかしながら、人間性が徹底的に剥奪された時、この物体化・パーツ化の圧力に抗することが不可能となる。そうした体験が、トラウマなのである。

トラウマによる自己の物体化

トラウマ体験の本質的特徴とは、その人を圧倒するものである、ということである。その体験の質は日常的な経験を遥かに凌駕する。それは日常によって覆い隠されているものを暴き、自らの存在が有限でいつか死ぬものなのであり、不安定で偶然的なものであることを晒すものである。

以前の記事で述べたように、これは事実の開示であると捉えられる。ここまでの文脈でこれを表現するなら、トラウマとはわれわれが特別な存在な人間であるというフィクションを破壊し、単なる物体としてのヒトであるという事実を暴くものである、と言うことができる。

同時にこれは、基盤となる基本的人権と基本的信頼感を破壊するとも表現が可能になる。トラウマは自由、意思、価値観、尊厳といった基本的人権の剥奪であり、この世界が自らが働きかけることが可能だと認知していくための土台の基本的信頼感を打ち壊すのである。

そしてまたトラウマは、人格の全体性を崩壊させ、その人を特定のパーツとしてしまう。この強制的で侵襲的なパーツ化によって、PTSDや複雑性PTSDとして概念化された症状が生じる。つまり、トラウマを受けたパーツが活性化した時、それはフラッシュバックなどの症状を発生させ、抑うつや不安などの陰性症状の継続的な発生源となり、解離症状として記憶や思考の断絶を生み、そしてそれに基づいた断片化された自己認識や対人関係のパターンを形成するのである。

いわば、トラウマによってわれわれは人間であることをやめ、単なる物体としてパーツとなった存在とされてしまうのである。

トラウマによる基本的価値観の変化

基本的人権と基本的信頼感がある人間であるならば、一切の理由なく、それだけで他者から尊重され生きることを肯定する根拠を持つことができる。しかし人間であることをやめてしまったのであれば、そのように考えることは不可能となる。物体として生きる方法を模索するために、基本的価値観を変化させなくてはならないのである。

物体として生きるためには、どうしたら良いか?ここにはいくつか典型的なパターンが存在すると考えられるが、その中の一つとして「物体化した自己の価値を最大化させること」を挙げることができる。すなわち、他者にとって自分が有益なモノとなることによって、生き残ろうとする試みである。つまり、自己の物体化を自ら推し進めることになるのである。

つまり、人間である時はそれを脅かす力学であった自己の物体化は、トラウマによって人間であることをやめてしまった人にとっては、正反対に自らを生存させる方向を指し示すものとなってしまうのである。

トラウマ体験によって人間としての基盤が喪失され、そしてそこで十分のケアを受けられなかった場合、生き残るために自己の物体化の力学に積極的に自ら参与してしまうということは珍しくない。これを最も顕著に指し示す例が、虐待や性被害のサバイバーがその後に性売買の当事者となってしまうことであろう。

また、こうした物体化した自己の価値を最大化していくということは、性的価値や労働力といった、自らを特定のパーツに同一化していくことでもあるのである。そうしたパーツが、例え搾取だとしても、金銭や賞賛という価値を当てられることにおいてある種の満足が生じたとしても不思議なことではない。なぜなら、それによって生存の可能性が上がるからである。しかしそれは、人間としての、人格の全体性を毀損するということにもまた繋がってしまう。短期的には生命維持的な面があるとしても、それは人間として生きることには反するものとなってしまう。そのため人間であることを求める願いは苦痛として表現されるし、本当に命を断つことにすらつながる。

これらはトラウマ臨床における再演という現象をも、少なくとも部分的に説明するものであろう。なぜ再演が周囲の人にとって謎めいたものであるかといえば、それはそこで生じる自己の物体化という現象を十分に理解できないからである。フロイトが初期に破棄したトラウマ論に回帰した際に述べた死の衝動としてのタナトス、あるいは以前の記事で取り上げた心理的逆転という現象は、この正反対のベクトルへの転回の表現として理解することが可能であるかもしれない。

虐待と発達性トラウマ、そして人権

トラウマ体験の中でも、とりわけ児童虐待が深刻となることも、この自己の物体化と基本的価値観の変化という観点から理解できる。児童虐待とは、つまり私的領域においてヒトから人間への移行が起こらず、むしろ徹底的に自己の物体化が推し進められるということが生じる環境であるということができる。そのため上記したような事柄が最も進行し、パーツ化の果てに人格の断片化の極地として、解離性同一性障害の発症に至ることすらある。

また明確な虐待とは言えなくとも、不適切養育やマルトリートメントといったものでトラウマ関連疾患に類似した症状や対人関係のパターンが生じることもこの観点から理解できるだろう。つまり発達性トラウマ障害とは、私的領域において十分にヒトから人間への移行が起こらなかったものであると理解できる。それにより、自己の物体化の力学に対して十分に抗うことができなかったり、あるいはトラウマ後のように積極的にそれに参与してしまうということが生じてしまうことがあるのである。

さらにはハーマンも指摘するように、基本的人権がしっかりと尊重されない社会や領域においては、自己の物体化への力学に対して十分に抵抗することができず、個人の自己の物体化が進行してしまうということも言えるであろう。このことは、女性・性的マイノリティ・障害者・子ども・外国籍といった人たちにおいて生じることが考えられる。

治療と回復について

こうした観点からトラウマを見るとき、治療や回復についてどのようなことが言えるのか。このことについて十分に議論するためには、まだまだ筆者の理解は足りていないと思う。しかしここで終えるよりもマシだと思い、いくつかの予備的な考察について述べておきたいと思う。

まず、トラウマからの回復するためには、その人の人間性の回復が必須であると言うことになる。フラッシュバックなどの症状を除去する物としてのトラウマ治療とは、あくまで不随意のパーツ化を食い止めるものでしかない。本当の回復とはその先にある、人間性の回復においてなされるものである。

これはある種逆説的にではあるが、回復には個人を超えたものが関わることを指し示す。この記事でも言及したが、中井久夫が言うように、症状を手放すためには「安心して治れる」環境が必要なのである。すなわち、私的領域においても公的領域においても、人間を物体化していくような力学が強く存在するような環境は「安心して治れる」ような場所ではないということである。この点において、われわれの社会は全ての人たちにそのような場所を用意することは出来ていない。トラウマとは決して個人の病理として完結するものではなく、われわれ社会全体の問題と切り離せないのである。

また人間性というものが客観的な事実ではないという理解は、その回復の困難さを同時にもたらすものである。われわれが人間であるという認識は、一切の安定性を持った特定のパーツや属性ではなく、不確かで脆弱でしかない人間的かかわりという土台の上に構築されるものでしかない。それは客観的で冷静だと自称するような視点からは、現実的でない楽観主義だと蔑まれるようなものであるかもしれない。こうした視点は社会にも、そしてそれを内的に取り込んだトラウマサバイバーの中にも、強力に存在している。

だからこそ人間性の回復とは、論理的な帰結の末にもたらされるものではなく、一種の飛躍が必要となるのである。この飛躍は、基本的人権と基本的信頼感の概念が、共に超越的な次元を含むことと関係する。それは全ての土台となるがものであるが故に、自身を超えたものに根拠づけられなくてはならないのである。その根拠となる一つの可能性があるのが、治療的な「つながり」であるということは、以前の記事で述べたところである。

最後に、パーツ化されたトラウマサバイバーとかかわるとき、治療者もまた特定の一つの属性や役割という物体化の力学に晒されるかもしれない、ということである。すでに述べたように、パーツ化への力学はトラウマサバイバーだけではなく、全ての人に働いている。しかしトラウマサバイバーとかかわるとき、その力学は強力に治療者に働いていく。これは治療者の人格の全体性を脅かし、それをパーツへと還元させていくのである。

このことは投影同一化や外傷性逆転移として以前から語られていたものを新しく理解することを可能にする。つまりそれは誰もが持つトラウマへの普遍的な脆弱性の活性化なのである。そしてそうしたパーツ化に抗って、治療者が人格の全体性を保つことができるのであれば、それを足がかりにトラウマサバイバーの生命維持に向かうパーツ化という逆転した力学(タナトス)に対抗することができるのではないか。そしてそれにより、人格の全体性の回復という本来の生命の維持の力学(エロス)を取り戻すことが可能になるのではないか。

繰り返すが、このことについての筆者の理解はまだまだ足りていない。今後も支援の中で考えていきたい事柄ではあるものの、誰かの何かしらの助けになるかもしれないと思い、とりあえず現時点で思うことを書き留めておくこととする。

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