未確認歩行体

 文学フリマ東京38で販売する小説集に収録する、「未確認歩行体」を期間限定で公開します。

 小説集『可能性の熊』はこんなかんじのものが15編入った冊子です。
文学フリマにご参加の方は是非お寄りください。
他に、日記をまとめた『不確定日記』も販売します。
また、同じブースで小説と漫画のリトルプレス『ランバーロール』も販売予定です。

詳細はこちらをご確認ください。 https://c.bunfree.net/c/tokyo38/h1/E/26



 金井は色が白いので制服のブレザーはより黒く見える。背は低く痩せていることもあり、清潔に見えた。図書館の脇の公園にはベンチもあるが、雨上がりなので塗れた枯れ葉がいくつか張り付いている。私たちは駐車場のポールにかかった鉄の鎖に腰掛けた。
「中間どうだった。」中学校に入って初めての定期考査の最終日で部活も休みだった。着替えてなんとなく向かった図書館の前で会った金井は躊躇無く私に「お、佐久田。」と言った。
そもそも金井が私のことを認識していたのが意外だったが、さらに、持っていたパピコを半分差し出したので驚いた。「まだわかんない。」

 授業が始まってまだ二ヶ月ほどで、覚えることはそう多くない。今まで「理科」だった科目の教科書が「科学」とか「生物」になったのがかっこよく思えたが、あとは試験期間と言う名目で早く帰宅できるのが嬉しいだけだった。
「佐久田は頭いいからなあ。」
 驚いて右に座っている金井を横目で見た。顔を前に向けたままなので眼鏡の隙間からしか横を見ることができず、制服の黒とシャツの白、淡い肌色がぼんやり浮いているだけだ。
 金井はクラスで一人だけ私立の小学校出身だから、私たちより難しいことを教わって来たのだろうし、私は授業で発言をするわけでも、先生に質問をするわけでもない。やっぱり眼鏡をかけているからか。
「え、なんでそう思うの。」
「だってなんかいろいろ知ってるじゃん。グリチル…なんとか、とか。」
 それは動画サイトで見た昔の洗顔料CMで覚えたのだったが、リズムが気に入って時々思い出す言葉だった。
「グリチルリチン酸ジカリウム。」
「なんか教室で誰かがニキビの話してたとき、「ニキビの根に聞くグリチルなんたら」て。だれも聞いてなかったけど。」
 無意識にそんなことを口にしていたことも、聞かれていたこと気づかなかった。地面に落ちている塗れたまだ若い葉をつま先でそっとすりつぶす。青い汁とにおいが、雨上がりの湿気をさらに濃くする。
「…てか金井のほうが頭いいでしょ。」
「おれ、早退とかするし。」
 金井は児童劇団に所属して芸能活動をしている。地上波じゃないドラマの「子供たちの一群」のうちの一人、らしかったが、私立の中学校にエスカレーター式で進学しなかったのもその「仕事」のせいらしい、と母が同級生の上沢多久也のお母さんと噂話をしているのを聞いたことがある。
「うらやましいけどな、早退。」
私は早退をしたことがない。ほんのり体調が悪い程度でサボりへの期待を持って保健室に行っても保健室での押しが弱いのでちょっと休んだら励まされて授業に戻されるのが常だ。
「UFOとか信じる?」
金井は突然訊いた。私は見たことがないからよくわからないのでそう言うと、金井は、冷めてるなあ、と言いながらパピコの最期の一口を吸った。飲み物の瓶の形を模したビニール容器はペコ、とへこみ、薄茶色の泡がぐにゃぐにゃの隙間を上ってゆく。
「おじさんが。見たんだって」
「へえ」
「山の上を、ふわふわした光がジグザグに飛んで、いきなり消えたんだって」
「それは宇宙船なの?」
「未確認飛行体」
「え?」
「UFOの意味。なんだかわかんない飛んでるもの。宇宙船かどうかはわかんない。けど、その方がかっこ良くない?宇宙船てなんか、生まれる前に流行ったものってかんじだし」

 私が裸眼で見ている輪郭のはっきりしない金井が、はっきりしないものが好きだというのが面白くて笑ったら、金井も笑った。
 UFOが校庭に飛来したら、さすがに早退できるだろうか。
 吹奏楽部の練習は、金管楽器は第一音楽室、木管楽器とパーカッションは第二音楽室に分かれて行う。新入生は、楽器の吹き口、マウスピースの部分だけを口にくわえ、音を出す練習をする。フルートは頭の部分だけを吹くと、ぼー、と意外に低い音がした。ぼーーーー、ぼーー、ぼーー、ぼ、ぼ、ぼ、ぼ、ぼぼぼぼ、ぼぼぼぼ
 つま先立って腹筋を意識しながら音を区切る練習をする。時折先輩が見に来て私の腹を指で押す。
 担当楽器は、入部の時に希望を書いた紙を提出して、だいたいの希望が受理される。皆仲のよい同士で示し合わせて記入していたと気付いたのはパートが別れたあとのことで、フルートを希望したのは学年で私一人だけだった。梅雨前なのに例年よりも気温は高く、額の生え際沿いに汗が落ちた。眼鏡の内側についた滴は両手がふさがっているので拭えない。

 小学校三年生のとき、眼鏡をかけたほうがいい、と言われて嬉しかった。子供なのに眼鏡をかけているのは特別に思えた。緑内障の治療をしている祖母がついでにと連れて行ってくれた眼科はバスで二十分ほどかかる大きな駅近くの高層ビルの中にある。
 祖母は、先生は前は大学病院にいたのに、ここで開業したから騒がしいところを通って来なきゃいけなくて疲れる、とぼやいたが、私は、ショッピングフロア用、オフィスフロア用、展望台直通、と何台も並んでいるエレベーターにワクワクした。
 帰りには老舗の洋菓子店のビルにある喫茶室に寄る。祖母はなにも聞かず自分用には紅茶、私にはクリームソーダを頼んだ。
 子供の近眼は回復する可能性があるらしく、眼科には針治療をするために定期的に通った。高学年になると祖母抜きでも行けるようになったが喫茶店には一人で入れないので、自動販売機で缶入りのミルクティーを買い、三階の外階段脇にある広場の植え込みのところに座って飲んだ。視力は、右目だけが回復しなかった。

 「ねえ、金井とつきあってんの?」
ふるえ声で同じクラスの亜美が言った。
 トランペットパートの一年生五人が掃除の終わった教室の前のほうに半円を描いて立っている。私は黒板を背にして教壇ぎりぎりに追いつめられる。つき合うって、具体的になにする事だかわからないけれど、そういうことを口にするともっと責められるのだけはわかった。
「つき合ってない」
「じゃあ好き?金井のこと」
好き、というのは恋愛感情のことだろう。
 私はそれを自覚したことがない。みんな、その感情が恋愛だって、わかる能力をいつ手に入れたんだろう。
「え、わかんないけど」
「はっきりしてよ」
「好きじゃない…」
「二人で一緒にいたところを見たって人がいるんですけど。それ聞いて花枝、泣いちゃったんだよ!」
 半円の直径はさっきよりも狭くなり、花枝は泣いている。
「え、たまたま会って」
「好きじゃない人と一緒に居るってのがもうおかしいと思うんですけど。人の好きな人と勝手に仲良くしないでよ」
 花枝が金井と会話をしているところはいままでに一度も見たことがない。その人が誰かに好かれているかどうか、どうやって判断すればいいのだろう。

 眼科に行くのは毎月第三水曜日だ。バスを降りて、広い並木道を歩く。人出は多く、まっすぐ歩くのに苦労する。看板や並木や人の服が滲んで混じり、大きく柔らかい固まりが流動しているように見える。パチンコ店の名前が書かれた大きな看板を持ってスピーカーを肩に掛けた人は驚くほど無表情だ。
 映画館の前を通り過ぎ、高層ビルの入り口に着く。動く歩道の上では止まる。折角自動的に運んでくれるのに、その上さらに歩くなんてばかげている。飲食店街の奥にある小さいエレベーターでオフィス用のロビーに上がる。その奥が大きいエレベーターホールだ。
 七階で降りると、静かだ。小さい音でオルゴール調のポップスが流れる待合室で診察券を出し、いつものように検眼をして、診察室に座る。眼科医は白髪で、ん、ん、というのが口癖だ。
「ん、ん、ちょっと左右の視力に差が出てきちゃってるねー。あんまりほっとくとね、斜視ってわかるかな。左右で見る方がずれるのね。乱視もあるしねえ。んー、ん、コンタクトレンズにしたほうがいいかもねえ。」母と相談します、とだけ言った。

 白地に青い小花模様のついたミルクティーの缶を持ち、植え込みに座って飲みながら前方を見る。まっすぐ前、広場のちょうど対角線上に座っているのは、腕を三角巾で吊った金井だった。

 金井が先輩たちから更衣室でボコられた、という噂を聞いたのは先週の土曜日だった。 教室で誰かが話しているのを聞きかじっただけだけれど。早退とかするし、なんか仕事とか言って鼻にかけてるし、とか、そういうような理由が同級生の間では推測されていた。
 月火水と金井は学校に来なかったが、そういうことは前にもあったので、私は噂が現実かどうか、半信半疑のままだった。人を殴ったことも殴られたことももない。

 ええと、金井としゃべっちゃいけないんだっけ。
 まっすぐ前方だから眼鏡を通して見ることのできる腕を吊った金井の痛々しさは、けれども広場の対角線の長さぶんぼやけて見える。三角巾は、白かった。広場は通路も兼ねているので、私と金井の間を人が通ってゆく。
 こちらに気づいていない金井は左斜めを見上げて何かを目で追っている。視線を辿って見上げてみる。ぱっ。薄曇りの空は思ったよりも眩しく、目が焼き付いた。一旦下を向いて眼鏡を外し、眉間をぎゅっと押してから、かけなおしてもう一度見上げる。

 見えたのは、あまりにもたくさんの小さな影だった。それぞれが太陽よりも少し小さいくらいだろうか。真円に近かったが、一斉に崩れ始める。丸くふわふわと漂い、不安定な姿は綿毛の固まりのようにも、くらげのようにもみえた。視線をずらしてみたり、右目だけ瞑ってみたりしたが、丸いものらは空いっぱいに満ちて、法則性は無く揺れている。音がしない。人の足音やビルのアナウンスも、いつも吹いているビル風の音も。キーン、と微かに耳鳴りだけがした。どうしても視線を下ろすことができない。金井が見ているのが同じものなのかも、まだそこに金井がいるのかどうかもわからない。白と黒の不定形な間が続いた。かしゃん、と音をたてたのは、ミルクティーの缶だった。

 次の日も学校は変わらずあった。金井の三角巾は一ヶ月ほどで取れて、私はその次の月にコンタクトレンズを作った。

そんな奇特な