対談 池田大作は語る:後へ続くひとのために(昭和44年)(2)小林正巳(毎日新聞記者)

<崇高な目的と信念>
小林 環境に勝つ以上に、自分に勝っていくことは、大変なことだと思うんです。私なんかもなかなか勝てませんね。楽をしたいという気持に引きずられてしまいます。そういう自分に勝つことが「人間革命」になるのですか 。
池田 そうですね。人生のほんとうの戦いは,せんじつめていけば、自分との戦いですね。ある人の言葉に「見えざる敵を恐れよ」という名言がありますが、この「見えざる敵」とは
 結局、自分の内にある、弱い自己をさしていると思います。
人間の心の中には、この弱い自己と向上しなくてはならないという自己との葛藤があるものです。
 朝、目がさめた。「 起きなくちゃならない。いや 、もう五分」というように自問自答するのも、そうした葛藤の一例でしょう。だが「よし、起きるんだ!」と決めて、起きあがって活動を開始したときの自分は、布団のなかで眠っている自分とは、もう違う。これは、一日の生活のなかで経験する些細な例ですが、やはり、広い意味での人間革命です。
それと同じで、まず決意すること、そして、その決意を実践することが、人間革命です。あとは、どういう目的観、理念をもって実践したかによって、その価値が決まってくるのですが、これは千差万別です。
「よし起きよう!」そして起きてパチンコをしに行った( 笑い)というのと、起きて会社へ行った、あるいは、社会のため、崇高な目的のもとに行動したというのとでは、まるで意味が違う 。
 結局、自分に勝つといっても、なんのために勝たねばならないか、という根本的な目的観が大事になってくるわけです。目的が高ければ高いほど、崇高であればあるほど、偉大な人間革命といえる。だが、目的はどんなに広大であろうとも、具体的な実践は、日々の些細な一つ一つの行動、振舞いにならざるを得ない。
 有名なシーザーが、「賽は投げられた」という言葉とともに、政敵ポンペイウスを倒すべくルビコン川を渡ってローマヘ進繋したという事件にしても、いかにも、英雄的な壮大な感を与えますが、行動それ自体は小さな川を渡ったか、渡らなかったかというだけのことに 過ぎないし,現実の行動は、すべて、そうした些細なことになってしまう。だが、ふり返ってみると、その些細な問題が壮大な意義をもち、勝利の人生を決定づけていくものだ。

<真の勇気と自分の弱さ>
小林 会長自身の入信動機については「人間革命」やその他の著作で明らかにされていますが、一般的には、どういう動機で入信する人が多いのでしょうか。
池田 人はそれぞれで、千差万別です。ただ 、全般的な傾向として、学会の  草創期のころは、終戦後の世相を映して、病気や経済的な悩みからの入信が多かったのですが、最近は、現在の社会に対してあき足りない、もう一歩深い、力強い支えを求めたいといった動機で入信する人が増えていますね。
いつでもそうですが入信してくる人々の姿は、社会のありのままの実態を正直に反映しています。いまの社会では解決できない、ギリギリの線がそこに如実に浮きあがってきているといえます。
 人間誰しも、冷静に人生を見つめるならば、なんらの信念もなく、なんの拠りどころもなくして、生きていけるものでないことに気がつくでしょう。よく、信仰は弱い人が拠りどころとするものだなどといいますが、そういう自分にどれほどの強さがあるというのでしょうか。いくら強いといっても、大自然の運行、社会の力、そして、不可思議な生命の働きから見れば、まったく取るに足りないものではないでしょうか 。
 パスカルが「人間は考える葦だ」といったのも、この弱さを知っていたための言薬といえます。信仰する人が弱いのでなくて、人間それ自体が弱い存在なのですね。この弱さを知らない人こそ、最も弱い存在です。ただの葦にすぎない。みずからの弱さを知り、信仰をもった人は汝自身を知った人であり、パスカルのいった考える葦となります 。
 孫子の兵法に「己を知り、敵を知らば、百戦危うからず」という有名な言葉があります。自分を知らない人は、結局、敗れていくわけです。第二次大戦の日本がそうだった。事実を正しく認識せず、偽りの戦局報告で国民をだまし、悲惨な敗北へ落ちこんでいった。

<信仰と人間革命>
小林 私の知る限りでも、一見不自由なさそうで、病身でもない人の入信が多いですね。うるおいのない現代社会の疎外感からといったものも感じるし、芸術家などの場合、個人の能力とか努力の限界を乗り越えるために、信仰によって創造力を発揮しようとするケースも多いように思えますが..。
池田 前にもいったように、たしかに、人によって、いろんな入信の動機がありますが、つきつめていけば、自分を知り、自分の弱さにうち勝っていこうと決意したところに帰着すると思います。
 また、もう一歩すすめていえば、正しいことを正しいと認め、みずから正義を持して貫いていくということは、ほんとうの勇気がなくてはできない。宇宙に挑むとか、太平洋横断に挑むなどといっても、浅い勇気ともいえる。最も偉大な勇気とは、みずからの生命と対決し、人間革命をしていくことにこそある、と私はいいたいのです。
 このように、自分に勝とうとして仏法を信仰したときから、人間には新しい、広大な世界が開けてくるといえる。真の信仰をもたない人生が、いかに狭いカラに閉じこもった、臆病な人生であったかに気づくはずです。

<新しい宗教の模索>
小林 一般に哲学というと 、西洋哲学を連想するせいか、なにか高尚な学問のように じ、日本の宗教というと、いわしの頭も信心のようなイメージがつきまといがちですね。いわゆる新興宗教のなかには、事実、それに類するようなのもあるんでしょうが、本来宗教はそんなものではないのでしょう。
池田 共産圏は別とし 、ヨーロッパでも、アメリカでも、宗教家は、非常に高い社会的地位を占めている。いわゆる聖職者として、尊敬もされています 哲学との関係でいえば、宗教は哲学よりもう一段高いところに位置しているといえます。最近はこうした宗教の権威も、とくに青年たちの間では認められなくなっているようですが、それでもなお、風俗、習慣に残っているだけでなく、一般民衆の意識の根底に、強く残っているものです。
 もっと厳密にいうと、崩壊しているのは、キリスト教自体であって、それに代わる何ものかを人々はいま模索しているのだといえるでしょう 。つまり、宗教という最高の権威の座があって、そこに、これまではキリスト教がすわっていたのです。ところが、そのキリスト教が、この座から引きおろされようとしているのです。空いた席に、こんどはなにがすわるか。それだけの問題であって,座席そのものがなくなったわけではないと思う。

<真理探究と価値創造の実践>
小林 そうなると、哲学と宗教の関連、あるは差異はどこにあると考えたらよいのですか。
池田 先ほど哲学は宗教より一段低いところに位置しているといいましたが、むしろ、この宗教の一部分を究明したものが本来哲学なのですね。わが国では、哲学書というと、非常に 難解な言葉をわざと使って、一般の人には理解しにくいものになっていますが、ヨーロッパなどは、もっと一般人の手のとどくところに存在しているのです。というよりそれが本来あるべき姿だと思うのです 。
 このような関係にある宗教と哲学とを比較してみますと、最も根本的な意味では、哲学は、人生、世界、宇宙の究極を探求したものであり、宗教はこの究極の原理を実践化したものだといえます。したがって、哲学が単なる真理の認識にとどまるのに対し、宗教は価値創造の実践が主体となるのです。だから、哲学と宗教とは、本来一体のものです。私たちは、日蓮大聖人の仏法を「色心不二の生命哲学と呼んでいますが,この仏法には深い哲学性があります。それでいて、誰れでも実践できる普逼性をもっている。哲学をもたない宗教は、迷信とか、妄信とかいわれてもやむを得ない。
 日本の仏教が、民衆から見放され、形骸ばかり残すようになったのは、長い間、僧侶が、仏教の哲学的探求を忘れ、檀信徒を相手に形式を飾ることのみに、汲々としてきたからだと私は思う。結局、僧侶の堕落です。
他方、哲学もまた、宗教を根底にもたなければ、単なる観念論になってしまうものなのです。哲学はなんのために思索し、真理を探求するのかといえば、結局わが生命の救済であり、悩める民衆の救済のためではないかということになるのです。この根本的課題から出発するとともに、終着点もここにあるのでなければ、哲学がどんなに高遠な真理を思索し、解明したとしても、夢のなかの話と変わりなくなってしまいます。
 結論していえば、宗教は根であり、哲学は枝や菜になる。宗教は全体であり、哲学は部分部分になります。宗教は価値であり、哲学は真理であるといえる。だが、その究極は一体不二でなくてはならないものです。