「変身」において翻訳の解釈が分かれている箇所(連載の第15回で取り扱われている範囲で)
岡上容士(おかのうえ・ひろし)と申します。高知市在住の、フリーの校正者です。文学紹介者の頭木(かしらぎ)弘樹さんが雑誌『みすず』に連載なさっている「咬んだり刺したりするカフカの『変身』」の校正をさせていただいており、その関係で、「『変身』において翻訳の解釈が分かれている箇所」というコラムも書かせていただいています。これまでは頭木さんのブログをお借りして掲載させていただいていましたが、前回からは私自身のnoteに掲載しています。引き続きお読みいただけましたら幸いです。
なお、以下に※で列挙しています凡例(はんれい)的なものは、初めてお読み下さる方もおられると思いますので、毎回記すようにいたします。
※解釈が分かれている箇所は、詳しく見ていくと、このほかにもまだあるかもしれませんが、私が気がついたものにとどめています。
※多くの箇所で私なりの考えを記していますが、異論もあるかもしれませんし、それ以前に私の考えの誤りもあるかもしれません。ご意見がおありでしたら、コメントの形でお寄せいただけましたら幸いです。
※最初にドイツ語の原文をあげ、次に邦訳(青空文庫の原田義人〔よしと〕訳)をあげ、そのあとに説明を入れています。なお邦訳に関しては、必要と思われる場合には、原田訳以外の訳もあげています。ただし、原田訳以外の訳は、あとの説明に必要な部分だけをあげている場合もあります。
※ほかにも、文の一部分や、個々の単語に対して、邦訳の訳語をあげている場合があります。この場合には、『変身』の邦訳はたくさんありますので、同じ意味の事柄が訳によって違った形で表現されていることが少なくありません(たとえば「ふとん」「布団」「蒲団」)。ですが、説明を簡潔にするため、このような場合には全部の訳語をあげず、1つ(たとえば「ふとん」)か2つくらいで代表させるようにしています。
※邦訳に出ている語の中で読みにくいと思われるものには、ルビを入れています。
※高橋義孝訳と中井正文訳は何度か改訂されていますが、一番新しい訳のみを示しています。
※英訳に関しては、今回は、特に示す必要はないと思われた若干の箇所では省略してあります。
※ドイツ語の文法での専門用語が少し出てきますが、これらを1つ1つ説明していますと長くなりますし、ここのテーマからも外れてきます。ですから、これらに関してはご存知であることを前提とします。ご存知でない方でご興味がおありの方は、お手数ですが、ドイツ語の参考書などをご参照下さい。
※原文や邦訳や英訳など、他書からの引用部分には色をつけてありますが、解説文の文中であげている場合にはつけていません。
まず、ganzen ですが、文字通り「全体の」という意味ですね。これが Vermögensverhältnisse のみにかかっていると解している邦訳と、Aussichten にもかかっていると解している邦訳とがありますが、Aussichten の前には冠詞がありませんので、die ganzen はこれにもかかっていると解するのが妥当かと思われます。
ganzen の訳は、オーソドックスな「すべて」のほかに、「すっかり」「何から何まで」「残らず」という訳もありますし、高本研一訳と三原弟平(おとひら)訳は「洗いざらい」としており、これは上手だなと思いました。
それから、「財産の状況と見通し」という感じで、Vermögens が Aussichten にもかかっているように受け取れる邦訳もありますが、これはそうではないと私は思います。Aussichten は複数形になっていますから、財産に関する見通しもあるでしょうが、自分たちの生活に関する見通しや、グレーゴルの今後に関する見通し(これはほとんど期待していないでしょうが)なども含まれていると思われます。それに、Vermögens が Aussichten にもかかっているのであれば、die ganzen Vermögensverhältnisse und -aussichten と書くのが普通であると思います。
また、Aussichten が複数形になっていることを訳で出したい気もしますが、今のところ私も、これはという訳は思いつきません。邦訳でも山下肇(はじめ)訳が「いろいろな見通し」としている程度です。なお、Verhältnisse は、複数形で慣用的に「状況」とか「状態」を意味しますから、これは問題ありません。
①stand ... vom Tische auf ですが、当然のことながら、邦訳でも英訳でも、「テーブルから立ち上がって」という感じで訳しているものがほとんどです。ただ、個人的な経験なのですが私は、以前に私の(この「変身」とは勿論別の作品で、未発表の)翻訳でなにげなく、「テーブルから立ち上がった」と訳したところ、読んで下さったある方から、「それだとテーブルに座っていて立ち上がったように受け取れる」との指摘をいただいたことがありました。もっとも、このように気にする人は少ないかもしれませんが。
とは言え、やはりこのようなことを意識してか、高橋義孝訳では、はじめは「テーブルから立ち上って」としていたのを、のちに「テーブルのそばを離れて」と直しています。ほかに「テーブルから立ち上がって」と訳していない訳は、「席を立っては」(川崎芳隆訳)、「テーブルをはなれて」(片岡啓治訳)、「テーブルの席から立つと」(川村二郎訳)、「(「テーブルから」はナシで)立ち上がって」(多和田葉子訳)、left the table (Eugene Jolas 訳) 、got out of the table (Mary Fox 訳) くらいです。
②Wertheimkasse に関しては、頭木さんが連載で詳しく説明しておられます(Wertheim は金庫を作っているオーストリアの会社の名前です)。ここでは、ご参考までに、諸訳でどのように訳されているかだけ、以下に示しておきます。
邦訳では、単なる「金庫」のほかに、「手さげ金庫(ですが、三原弟平先生の本での説明によりますと、「手さげ」できるほど小さな金庫でもなかったようです)」「家庭用金庫(ですが、この金庫は家庭でも使われていたようですから間違いではないものの、会社や商店で使われることが多かったようです)」「隠し金庫(ではないような気がしますが)」「ヴェルトハイムの金庫」「「ヴェルトハイム社製の[小型/小さな]金庫」「ヴェルトハイム製の[小さな]金庫」としています。
英訳では、cashbox、cash-box、cash box、homesafe、lockbox、patent safe (patent は、普通は「特許」という意味ですが、「重要な書類」という意味もありますので、ここではそのような書類を入れておく金庫という意味で訳していると思われます)、safe、strongbox、Wertheim safe (こう訳している英訳のうち、Stanley Appelbaum 訳には、次のような注が出ています。An Austrian brand of safe widely used by businessmen at the time.) としています。
③irgendein は ein とは微妙に違い、「何かある...」「何らかの...」というニュアンスがありますね。あえて訳出しなくてもよいかもしれませんが、邦訳によっては「...[だ]とか...[だ]とかを」「...だの...だのを」「...やら...やらを」のようにして、多少感じを出そうとしているものもあります。英訳ではおおむね、単に a としているか、単数形につく some を使っているかです。④Vormerkbuch ですが、財産の話ですから、私もこれまでは「帳簿」かなと思っていましたが、今回改めていろいろな辞書で確かめてみましたところ、この意味を明確に載せている辞書はありませんでした。「注文を記しておくノート」といった感じの意味でしたら、載せている辞書もありますが。
邦訳では、「帳簿」が比較的多いですが、「覚書」「帳面」「備忘録」「メモ帳」としているものもあります。英訳では、4つの訳が account book、1つの訳が ledger としているだけで、あとはほとんど、memorandum か notebook としています。
「帳簿」は、ドイツ語では単に Buch とも言いますが、ほかにも Geschäftsbuch、Kontobuch、Rechnungsbuch といった語もあるようでして、このような語を使っていない以上、ここではやはり帳簿ではないのかもしれませんが、「帳簿」が誤訳であるとまでは言い切れませんね。
①allerdings には、「もちろん」という意味と、「ただし」「もっとも」いう意味とがありますが、ここでは後者に解した方がよいと私は思います。こんなことを尋ねないのが「もちろん」とまでは、ちょっと言い切れないと思われますし。
この意味の allerdings は、私の連載の前回にも出ましたので、ご興味がおありでしたらご覧下さい。
https://note.com/okanoue_kafka/n/n415478a748e7:「○①Nun mußte die Schwester ...」で始まる箇所にあります。
今回も前回の箇所と同じく、邦訳では「もちろん」的な解釈と「ただし」的な解釈に分かれています。
英訳では admittedly や naturally や of course を使っているものがいくつかありますが、「ただし」的な訳は although か though を使っているものが4つあるだけで、少数派です。その代わりなぜか、anyway や at any rate や in any case のように、「いずれにせよ」「ともかく」としている訳が案外多くあります。1つだけ as a matter of fact としていましたが、この慣用句は難しく、allerdings のどちらの意味にも解せますので、ちょっとあいまいですね。
②ドイツ語で「誰かに何々を尋ねる」という場合には、「fragen+人の4格+nach ...」とするのが普通で、「fragen+人の4格+um ...」は「誰かに何々を求める」という意味になると、私はこれまでずっと思っていました。ですが、辞書によっては、後者でも「尋ねる」という意味になるとしているものもありますし、ここではやはり、こう解した方が自然ですね。邦訳にも英訳にも、ここを「求める」と解しているものはありませんでした。
①mit ganz besonderem Feuer の Feuer は、ここでは勿論「火」ではなくて「情熱」という感じの意味ですが、この句はいろいろに訳せますね。ここにあげた邦訳以外ではどのように訳されているか、ご参考までに示しておきます。ただし、網羅的にはあげずに、ほぼ同じことを言っている訳はどれか1つにまとめて示します。
「格別な熱の入れようで」「異常なほどの情熱を燃やして」「特別に情熱をもやして」「度はずれた熱意で」「ひときわの熱意をこめて」「まったく異常な熱意で」「人一倍熱心に」「人なみ以上の熱心さで」「火がついたように熱心に」「まことに異常ともいえる熱心さで」「必死に」「火がついたみたいに必死で」「まるで火の玉のように(Feuer のもとの意味を利用しての訳ですが、上手ですね)」「一心不乱に」「大車輪で」(以上の2つは大胆に短く訳していますが、これらも上手ですね)
②der erstaunten und beglückten Familie は3格です。文字どおりには「驚きそしてうれしく思っている家族に」となり、これでも意味は通りますが、もう少し明確にしたい感じもしますね。実は、この3格の解釈はいろいろに分かれています。
(1)所有の3格(「...の」という意味)で、den Tisch にかかる。:こう解している訳は、邦訳と英訳で1つずつあります(城山訳と Michael Hofmann 訳)。ただ、所有の3格は、(例外もないわけではありませんが)身体の部分や衣服を意味する名詞にかかるのが普通ですし、「驚き喜んでいる家族のテーブル」という感じでつなげるのもちょっと無理があるように感じますが、誤訳とまでは言えないとも思います。
ご参考までに、Hofmann 訳についても該当部分だけを示しておきますと、 ... , which (関係代名詞。先行詞は money) could be laid out on the table of the surprised and delighted family. としています。
(2)利害の3格(「...のために」という意味)で、「驚き喜んでいる家族のために」となる。:3つの英訳が、for his amazed and happy family (Willa & Edwin Muir 訳)、for the astonished and delighted family (Joachim Neugroschel 訳)、for the benefit of his astonished and delighted family (David Wyllie 訳) としています。お金を稼いだのは勿論家族のためにでもありますから、これらも間違いとは言えないと思いますが、まだこの段階ではお金をテーブルに置いて見せているだけですから、このように言ってよいのかなとも思います。
(3)関心の3格(いろいろな意味がありますが、この場合は「...に対して」という意味)で、「驚き喜んでいる家族に対して」となる。:このように訳している訳はないようですが、中井正文先生の対訳書では、注釈でのみ、「家族に(たいして)」と訳しています。ですが、この対訳書の訳文は、「その金を家へもって帰ってテーブルの上へ並べ、家族の者をびっくりさせたり、喜ばせたりしたものだった」と大幅に意訳されています。
ついでに付け加えておきますと、上掲の浅井訳もそうですが、これとほぼ同じように意訳している邦訳や英訳はいくつかあります。
それはともかくとしまして、この「驚き喜んでいる家族に対して」という解釈であれば、あまり不自然ではなしに意味が通ります。ただ、関心の3格の意味として「...に対して」を記している文法書は少なく、一般的な使い方とは言えないように思います。
(4)「驚き喜んでいる家族の[目の]前で」となる。:邦訳、英訳ともに、この解釈が一番多いです。前置詞の vor がないのに「...の前で」という意味になるのはおかしいと思えるかもしれませんが、必ずしもおかしくはありません。文法的にはちょっと崩れた使い方なのですが、ドイツ語の3格はたまに、「gegen+4格」「vor+3格」などの前置詞句の代わりに使われますから。
たとえば、次のような例があります。いずれも、真鍋良一『真鍋ドイツ語の世界』(三修社)によっていますが、訳例は真鍋訳を除き、私が追加しました。
ここではこれと同じく、vor der erstaunten und beglückten Familie の代わりと考えることができますね。
以上、(1)~(4)のどの解釈も間違いとは言えないのですが、(4)が一番無難ではないかと私は思います。
③zu Hause は文字どおりには「家で」という意味ですね。この行動を家でやっていることはわかりきっていますから、なくても構わないように思いますし、訳出していない訳も少なくありません。家に帰ってきてのことであることを強調するためにあえて入れたものと考えられますが、ほかの理由にお心当たりがおありの方がおられましたら、ご教示いただけましたら幸いです。それで、この zu Hause をあえて解釈してみますと、
(1)あとの auf den Tisch と並列させて考えて、「家で、テーブルの上に」(意訳しますと「家のテーブルの上に」)と考える。:ドイツ語では、場所をあげるさいに、はじめに大きな場所をあげておいて、より小さな場所を次にあげることがありますから、これもこのように考えられます。
邦訳では、訳出していないものもありますが、原田訳や城山訳のような感じで意訳している――zu Hause 自体には、「家へ」とか「家に帰って」という意味はないと思います。ちなみに、「家へ」でしたら nach Hause と言います――ものが多いです。浅井訳だけは、私のこの解釈のように訳しています。
英訳では、やはり訳出していないものもありますが、on the table at home として、at home が前の the table にかかっているような感じで訳しているものが多く(1つだけは on the home table としています)、意味としては私のこの解釈と同じように考えているのではないかと思われます。また、J. A. Underwood 訳では ... that (関係代名詞。先行詞は cash) could be taken home and laid on the table before the astonished and delighted eyes of the family. 、C. Wade Naney 訳では ... , which (関係代名詞。先行詞は cash), to the astonishment and delight of his family, he could bring home und lay on the table. 、Christopher Moncrieff 訳では ... that (関係代名詞。先行詞は commissions) enabled him to bring home vast sums that amazed and delighted his family. としており、原田訳と同じような感じで訳しています。(2)前の Familie にかかっていて、「家にいる、[驚きそしてうれしく思っている]家族に」と考える。: zu Hause は副詞句ですから、本来は名詞にはかかりませんが、副詞や副詞句が名詞の直後に置かれると、形容詞または形容詞句のようになって、前の名詞を修飾することもあります――最も簡単な例では、der Mann da (そこにいる男の人)――から、こう考えてもおかしくはありません。もっとも、諸訳の中でこのように解しているものは見当たりませんでしたが、この解釈も間違いではないと思います。
①eben はなかなか難しく、単なる強調のためにも使われますが、「やっとのことで」とか、「...するより仕方がない」といった意味もあります。あとの2つの意味をここに当てはめることも全く不可能ではないようにも思いますが、このような意味で言いたいのでしたら、もう少しそれなりに明確に書くのではないかとも思いますので、ここでは単なる強調と解しておきたいと思います(異論もあるかもしれませんが)。
邦訳で訳出しているものは、「すっかり」「ただ(「ただもう」というニュアンスで言いたいようです)」「なんといっても」「まさしく」「まさに」「まったく」としています。それから、別のニュアンスで解して「いつか」としているものもありますが、eben はこのような意味ではあまり使われないのではないかと、私は思います。
英訳で訳出しているものは、simply(これが一番多いです)、even、indeed、just、quite としています。それから、邦訳の「いつか」と似たニュアンスで解して、soon としているものもあります。
②この wollte → wollen は、傾向を表す用法で、「...しようとする」という意味になるのではないかと、私は思います。否定文になりますと、Die Tür wollte sich nicht öffnen.(ドアはどうしても開こうとしなかった)などのように使われます。この箇所をこのような感じで訳している邦訳もありますが、日本語では人でないものに対して「...しようとする」とするのはちょっと不自然ですので、「...ことはなかった」くらいが無難かなと思います。なお、高本訳は「特に情愛が通い合うといった気配が起こることはもはやなかった」としており、日本語としてはちょっとかたいかもしれませんが、ニュアンスは上手に出していると思いました。
ちなみに英訳では、ヴァリエーションはいろいろあって面白いですが――付録〔1〕で一覧にしましたので、ご興味がおありでしたらご覧下さい――、助動詞やそれに似たような語を使って訳しているものは全くなく、すべて普通の過去形の動詞で書かれており、ちょっと意外でした。唯一 Underwood 訳だけが、... , but no special warmth seemed to be engendered any more. としていますが、seem to はちょっと感じが違うのではないかと思います。
①Nur die Schwester war Gregor doch noch nahe geblieben, はいろいろな訳し方ができますね。邦訳ではヴァリエーションが非常に多いのですが――付録〔2〕で一覧にしましたので、ご興味がおありでしたらご覧下さい――、英訳ではほとんどが、Only the (または his) sisiter remained (または had remained) close to Gregor, (remained か close の前に still を入れているものもあり) となっています。
②und die man schon auf andere Weise hereinbringen würde, は難しいですね。
まず、man となっていて er となっていないのはなぜでしょうか。
英訳の中には主語をはっきり he としているものもありますが、この man は、やはり= Gregor = er = (英語で) he ではないと、私は思います。man は特定の人物を示すことも確かにありますが、グレーゴルだけのことを言いたいのでしたらやはり er となるでしょうし、ここで唐突に man に変える必要性はありませんから。
それで、man となっている理由として、今のところ考えられるのは次の2つです。
(1)ここでお金を工面するのは妹に対してだけですから、自分だけではなく、場合によっては父母にも協力しもらってというニュアンスが入っているのかもしれません。また、schon はこの場合、「きっと」「必ず」という意味かと思われます。ここでは「お金はきっと工面してやろう」という感じのことを言いたいのであり、上掲の高安訳が一番良いのではないかと、私は思いました。英訳でも、私と同じように考えてか、主語を they としているものが1つだけあります(... ; they would recoup that in other ways.〔M. A. Roberts 訳。that はこの前に出ている the significant cost をさしています〕)。
(2)man をより一般的に考えて、「(これと同じ状況に置かれれば)人は皆だれでも、きっと別の方法で[お金を]工面するだろう」という感じで解釈することもできるかと思います。ただ、このような感じを強く出して訳している訳は見当たりませんでしたが。
もっとも、いずれの解釈を採るにしましても、man はもともと、訳出されないことが多いですから、主語を明示しない訳し方でよいかなとも私は思います。実際のところ、邦訳は全部そのように訳していますし、英訳も(by ... で行為者を示したりはせずに)受動態で訳しているものが多いです(たとえば、... and that (関係代名詞。先行詞は the great expense) would certainly be made up for in some other way.〔Neugroschel 訳〕)。
それから、邦訳では原田訳のように「お金は工面できるだろう」という感じで訳しているものが多いのですが、原文は hereinbringen würde となっていて、「できる」というニュアンスは入っていないと私は思います。
ほかの邦訳でも、
のように、「できる」というニュアンスが入っていない訳もあります。
英訳では could (仮定法でしょうね)を使っているものもありますが、多くは would (やはり仮定法)を使っています。もっとも、would のあとが受動態になりますと、グレーゴルの意志が明確に出なくなってしまいますが、... and which (関係代名詞。先行詞は the great expenses) would have to be made up for in some other way. (Appelbaum 訳) のようにして、意志を出そうとしている訳もいくつかあります。
①diese unschuldigen Erwähnungen は、同じテーマの話であるにもかかわらず複数形になっていることが少し気になりますが、diese とありますからほかのテーマの話は意味していないでしょうし、こんな話を何回かしたということで、複数形にしたのではないかと、私は思います。
②feierlich はいろいろに訳せますね。邦訳では、(副詞の形に統一して示しますと)「おごそかに(邦訳ではこれが非常に多いです)」「厳粛に」「公式に」「真剣に」「堂々と権威をもって」「もったいをつけて」「勿体ぶって」となっています。また、「華々(はなばな)しく」「晴れやかに」としている訳もありまして、feierlich にはこのような意味もないわけではありません(ただし、まれのようです)から間違いではありません。ですが、このあたりの雰囲気から考えますと、やはり「おごそかに」という感じではないかと私は思います。ただ、「おごそかに」ですと宗教的な感じもしますので、「きちんと」などと訳すのも一法かもしれませんね。
英訳では、(同じく副詞の形に統一して示しますと)ceremoniously、formally、grandly、officially、seriously、solemnly、with due solemnity、with great ceremony、with some solemnity としています。
①細かいことのようですが、まず dort について考えてみたいと思います。本来の意味は「そこで」ですが、ここでは「彼の部屋で」という意味で言っているのではないかと、私は思います。前にも記しましたが、ドイツ語では、場所をあげるさいに、はじめに大きな場所をあげておいて、より小さな場所を次にあげることがありますから、ここでも、――ここでは間に aufrecht という語が入っていますが――あとの an der Türe と呼応するような感じで、「彼の部屋で、そのドアに」(意訳しますと「彼の部屋のドアに」)という感じになるのではないでしょうか。
邦訳では、上掲の立川訳と山下肇・萬里訳以外では、dort は訳出されていません。山下肇・萬里訳は私と同じ考え方をしていますね。立川訳は「そこで」と訳出していますが、このように言いたいのでしたら、während er aufrecht an der Türe klebte und dort horchte となるはずで、この訳は適切ではないと思います。
英訳では、次の訳が there として訳出しています。
ただ、上の3つの訳ですと、there とあとの to the door との間がコンマで寸断されていますから、「そこ(=彼の部屋)で、そのドアに」とは結びつきにくく、もう一つではないかと思います。
②次に、aufrecht an der Türe klebte ですが、逐語訳的に訳しますと、「まっすぐに(→まっすぐな姿勢で、あるいは、立った姿勢で)ドアにへばりついた」としか言っておらず、「身体を起こした」とか「立ち上がった」とかいった動作までは言っていませんね。もっとも、こうするには当然、身体を起こさなくてはいけませんから、そう訳しても間違いではありませんし、多くの邦訳はそのような感じで訳しています。川島訳のように、そうではない訳もありますが。
しかしながら、英訳ではおおむね、上掲のような感じで訳しており、「身体を起こした」という感じの意味を入れているものはありませんでした。
①nachlässig は原田訳などのような解釈でよいと思いますが、中には「うとうとと頭をだらしなく板へ打ちつけては」「腑甲斐(ふがい)なく頭をドアに打ちつけてしまうこともたびたびだったが」「投げやりに頭をドアに打ちつけることもあった」「だらしなく頭をドアにぶつけることもあったが」「頭を投げやりにドアにぶつけた」のように訳している邦訳もあります。nachlässig のおおもとの意味は確かにこれらのような感じではあるのですが、ここでこのような動作をする必然性は乏しく、ちょっと無理ではないかと私は思います。
ちなみに英訳でも、carelessly が多いですし、ほかには accidentally や inadvertently もあります。negligently もありますが、これはどちらの意味にも解せますね。明らかに「不注意に」と解していないのは、listlessly (Ian Johnston 訳) と wearily (Wyllie 訳) のみです。
②hielt ihn ... fest は「頭を(位置的に)しっかりした状態に保っておいた」ということで、「頭を起こす」とか「頭を立てる」とかいった動作までは言っていませんね。ですがこれも、こうするには結局、頭を起こさなくてはいけませんから、そう訳しても間違いではありませんし、ここでも多くの邦訳はそのような感じで訳しています。山下肇訳や真鍋宏史訳のように、「頭を起こす」とか「頭を立てる」という感じで訳していない訳もありますが。
英訳に関しては、... , but [he] immediately held it(=his head) firm again, ... (Appelbaum 訳) のように訳しているものもある一方で、... , but he lifted it(=his head) again immediately ... (Underwood 訳) とか、... , but he held it(=his head) up again immediately, ... (Karen Reppin 訳) のように、動作として訳しているものもあり、いろいろです。ここの英訳は付録〔3〕で一覧にしましたので、ご興味がおありでしたらご覧下さい。
それから、少ないですが、心理的な意味に解している訳もあります。ですが、私が調べたかぎりでは festhalten にはこのような使い方はなく、誤訳とは言い切れませんが、ちょっと無理かなと思います。
また、上掲の川崎訳は、身体的な意味とも心理的な意味とも解せますね。
①Was er nur wieder treibt ですが、疑問詞で始まる文がこのような語順になりますと、感嘆文か疑問文になりますから――疑問文では勿論、Was treibt er nur wieder とするのが正当ですが、このような語順になることもあります――、ここは感嘆文的なニュアンスを持った疑問文で、「やつはまた何をやってるんだ」という感じの意味になりますね。
ただ、3つの邦訳(「ほら、あれがまた何かやってるぞ」〔中井正文訳〕、「また何かやってるな」〔真鍋宏史訳〕、「懲(こ)りずに何かしてやがるぞ」〔川島訳。お上手に訳していると思います〕)と3つの英訳(“How he keeps carrying on!” [Appelbaum 訳]、“There he goes on again,” [Johnston 訳]、“Whatever he may be doing there again,” [Philipp Strazny 訳])では、疑問文でない形で訳しています。
Appelbaum 訳の keep ... ing は「...し続ける」という意味ですし、carry on も「続ける」という意味ですから、この意味が強調されていますね(なお、carry on には「みっともないふるまいをする」という感じの意味もあるようですから、あるいはこの意味かなとも思いましたが、ここではこのニュアンスは含まれていないようです)。全体を逐語訳しますと「彼はなんと[ひどく]続けていることだろう!」となり、日本語らしくしますと、たとえば「よくもまあ、飽きもせずにやってやがるな!」のようになろうかと思われます。
Johnston 訳の there は間投詞的な意味であり、go on はいろいろな意味がありますが、ここでは――on がありますから、「続ける」というニュアンスも含んでいますが――「行動する」という感じの意味と思われますから、全体では「そら、やつはまた、やってやがるぞ!」という感じの訳になろうかと思われます。
諸訳の細部の解釈はともかくとしまして、「また何をやっているんだろう」は、「また何かやっているな」という感じの意味になるとも全然言えないことはありませんし、翻訳上の工夫ということで、このように訳しても構わないと私は思います。Strazny 訳だけは、「やつがあそこでまた何をやっていても構わない(ただしここではむしろ、「何をやっていようが知ったことじゃない」というニュアンス)」という、ちょっと別の感じで訳していますが。
②offenbar には、「明らかに」という意味も、「どうも...らしい」という意味もありまして、どちらとも解せる場合もあります。ここでも邦訳では解釈が分かれています。断定はできませんが、この状況ではドアの方に向いていると考えるのが自然ですから、「明らかに」でよいのではないかと私は思います。offenbar をどちらに解するかは別として、意味的には何でもない箇所ですが、池内訳は上手に訳していますね。
英訳では obviously としているものが多く、clearly と pointedly もあります。これらは「明らかに」ですが、apparently と evidently と no doubt もあり、これらには両方の意味がありますね。「どうも...らしい」的な意味だけしかない語を使っているものはありませんでした。
①この nun は、原田訳では訳出されていませんが、一番一般的な「今」(もう少しここに合うように言葉を足しますと、「今になって」など)とか、この文は過去形ですのでそれに厳密に合わせますと「このとき[になって]」などと解してよいのではないかと、私は思います。英訳では勿論、now としているものが多いです。
ただ、邦訳や英訳の一部は、「こうして」「そういうわけで」「そこで」「それで」「こうして」「thus」のように、so に近い意味(この意味になる nun は前にも出ましたが)で訳しています。
ですが、この2つの意味は「こういうわけで今は」という感じで紙一重のようなものですし、解釈の大きな違いとまでは言えないと思います。ただ、ここでは「今」のニュアンスが強いのではないかと、私は思いましたけれども。ちなみに山下肇訳は、「そこでいま」と両方の意味を出しています。
②「pflegen+zu 不定詞」で、「...するのがつねである」という意味になりますね。原田訳のように文字通りこう訳している邦訳もありますが、ちょっとかたい感じもしますね。「...する癖(くせ)があった」としている邦訳も多いですが、この場合は一応それなりの理由があったのですから、ちょっと合わないのではないかと私は思います。あえて訳出しないのも一法かもしれませんね。野村廣之訳は「父親が同じ説明を必ず何度も繰り返したからである」としており、一見何でもないようですが上手な訳だなと思いました。
eifrig は訳しにくいですが、邦訳では、文字通り「熱心に」のほかには、「しきりに」が多く、これら以外では「こっくりこっくりと(ただこれは、訳としては上手でも、ここではちょっと感じが違いますね)」「興奮して」「せっかちに」「激しく」があります。私としましては、やはり「熱心に」が一番無難かなと思いますが、よりぴったりした訳語もあるかもしれません。
英訳では eagerly が一番多く、あとは、emphatically、enthusiastically、vigorously、with enthusiasm、また、ちょっと感じが違うようにも思いますが、approvingly と in approval があります。
①Eigentlich から wäre weit näher gewesen までを体験話法と解して、現在形のように訳している邦訳もあります。ただし、3つだけです。直接話法で現在形の接続法が使われている場合には、体験話法になっても過去形にされずに、現在形のままにされることが多いのですが、ときには過去形にされることもあります。ですからここも、現在形の接続法であったものが体験話法で過去形にされたと考えても、間違いとは言えません。ですがここでは、あえて現在のこと(体験話法)と考えなくても、普通の直接話法で過去のこと(と言うよりも、aber jetzt war es ... との対比で、その過去よりさらにもう1つ前の過去のこと)を過去形の接続法で言ったと考えてよいのではないかと、私は思います。
なお、体験話法に関しては、次の題名の頭木さんのブログをご覧下さい。「咬んだり刺したりするカフカの『変身』」6回目!月刊『みすず』8月号が刊行されました
②最後の aber jetzt war es zweifellos besser so, wie es der Vater eingerichtet hatte なのですが、意味は原田訳のような意味としか解せませんし、邦訳ではおおむね、このような感じで訳しています。ですが、文法的には案外難しいですね。私はあとに記す2つの可能性を考えました。その前に、wie のあとの es は何を意味しているかですが、この文の前に es が受けるような中性名詞もありませんから、ここではお金のことも含めた家の諸事を漠然と言っていると考えてよいと思います(「家の諸事」という表現が適切かどうかは微妙ですが、便宜上、これからの解説ではこの表現を使います)。ちなみに英訳では、この es をそのまま it と訳しているものも多い一方で、
のように、things とか、
のように、前に出た things を受ける形で them と訳しているものもあります(この Corngold 訳については後述)。
それで、文法的な解釈ですが、
(1)es は仮の主語で、本当の主語は wie 以下の全体。逐語訳しますと「父がそれ(家の諸事)をどのように整えてくれていたかということは(→父がそれを整えてくれたやり方は)、疑いもなくより良かったのだ」。ただ、besser のあとに so があるのが気になりますが、これは口調を整えるために(あるいは、あとに wie があり、so と wie はよく呼応して使われますから、これに引かれて?)置かれたものであり、無視して考えてもよいと思われます。
(2)はじめの es はこれまでに述べてきたことをさしているとも、あとの es と同じく「家の諸事」を言っているとも解せます。そして、so は wie に呼応させて考えて、やはり逐語訳しますと「それ(前述のこと、あるいは、家の諸事)は、父がそれ(家の諸事)を整えてくれていたとおりであり、[この方が]疑いもなくより良かったのだ」。ちなみに、besser は文中に挿入されて、「...の方が良い」という意味になることがありますね。
どちらが正しいのか断定ではできませんが、ドイツ語に詳しい知人にも意見を伺ったりしたうえで、(1)ではないかということになりました。中井先生の対訳書の注釈も、この見解を採っています。ですが異論もあるかもしれませんので、ご意見がおありでしたら、お寄せいただけましたら幸いです。また、以前にこれとよく似た感じのドイツ語の文を見たことがあるのですが、残念ながら思い出せません。このような感じの文をご存知の方がおられましたら、ご教示いただけましたらうれしく思います。
英訳につきましては、付録〔4〕で一覧にしましたので、ご興味がおありでしたらご覧下さい。ここでは必要と思われることだけを記しておきます。
次の訳は、明らかに(1)と解していますね。
その一方で、かなり多くの英訳は、
ように、(2)のような感じで訳していますが、ちょっとわかりにくいですね。該当する部分だけ逐語訳してみますと、「それ(前述のこと)は、彼の父親がそれ(家の諸事)を整えていたやり方だったのであり、[この方が]より良かったのだ」となります。この訳では、原文でも es を2回使っているのと同じく、it を2回使っていますが、はじめの it を「家の諸事」と解しますと、意味がおかしくなりますね。ちなみに、たとえば Crick 訳では、
としており、原文のはじめの es とあとの es を別の意味と解釈していることが、はっきりわかります。
ただ、ドイツ語の besser には上記のような用法がありますが、英語の better にもこのような用法があるのかどうか、私はよくわかりませんでした。そこで、英語に詳しい先生にお伺いしたところでは、ないわけではないようです。ただ、besser はおおむね任意の位置に入れられますが、better は一般動詞の前か、be 動詞のあとに置かれるのが原則のようです。
You better cut it. または You better cut it out. (やめた方がいい)
You better do it. (そうした方がいい)
上記の文例に関しては、had better を使うのが勿論一般的ですが、上記のようにも言われるようです。
It’s better untouched. または It’s better left untouched. (そのままにしておいた方がいい)
この例から考えますと、上掲のような英訳も、成り立たないわけではありませんね。
次に、お話がややこしくなって恐縮ですが、これらの英訳のような場合には、the way を名詞(was の補語)とは考えずに、この前に in を補って考えることも不可能ではありません。way は、たとえば that way (=in that way) のように、しばしば in を省略して使われますから。この解釈で逐語訳しますと、「それ(前述のこと、あるいは Jolas 訳の場合には、家の諸事とも解せます)は、彼の父がそれ(家の諸事)を整えたやり方で、より良かったのだ」となり、こう解しますと、better は上記の用法ではなく、was の補語ということになってきます。どちらのつもりで訳したのかは、私には勿論わかりません。
カフカの原文に関しては、私は一応、これらとは違う(1)の解釈を採っていますが、(2)と解する場合には、英訳の the way (in を補わずにそのまま名詞と考える) と原文の so[, wie ...] という違いはありますが、やはり the way を名詞と考えた方が、ニュアンスが近いのではないかと思います。
それで、上掲の Corngold 訳は、両方の es を「家の諸事」と解していますが、the way を名詞としますと意味がおかしくなりますので、the way の前に in を補って考えざるをえません。
ついでながら、Hofmann 訳は、 ... , but now it seemed to him better done the way his father had done it. と訳しています。こちらも明らかに the way の前に in を補って考えるべきであり、逐語訳しますと、「それ(前述のこと、あるいは、家の諸事)は、彼の父がそれ(家の諸事)を処理したやり方で、より良く処理されたように、彼には思われた」となりますね。
○最後の段落ですが、ここはかなり難しいですので、まずは「体験話法」という観点から見ていき、そのあとで、個々の箇所に解釈について考えてみることにしたいと思います。
ここの文章は、時制はほとんど過去形になっているにもかかわらず、(a) と (b) では、これらの邦訳のかなりの部分が現在形で訳されています。これはなぜかと言いますと、この部分が体験話法であるからです(ただし三原訳などのように、(a) を体験話法とはみなさずに、過去形で訳している邦訳もあります)。体験話法のことは前項でも少しふれましたが、次の題名の頭木さんのブログをご覧下さい。
「咬んだり刺したりするカフカの『変身』」6回目!月刊『みすず』8月号が刊行されました
ちなみにここに関しては、上記のことをもう一度まとめますと、山下肇・萬里訳や池内訳のように (a) と (b) のすべてを体験話法とみなして訳している邦訳と、三原訳のように (b) だけを体験話法とみなして訳している邦訳とがあります。
ただし、(a) に関しては、原田訳のように、現在形の訳と過去形の訳を混在させている邦訳が実は大部分なのですが、(a) を体験話法と判断したのか否(いな)かということを個々の訳者(故人も多数)にお尋ねするわけにも行きません。ですから、現在形の訳がある程度の数あるものはこの部分を体験話法とみなしており、現在形の訳が少ししかないものは体験話法とはみなしていないと、考えておきます。
ちなみに、山下肇・萬里訳でも、「その労多くして功少なかった生涯の最初の休暇だったわけだが」だけは過去形で訳しています。ですがここは、このあとでも少しふれますが、直接話法でも過去形になるのが自然と考えられる箇所ですから、体験話法としての過去形からいわば変化させている、直接話法としての現在形の訳と混在させているわけではないと、私は思います。「その労多くして功少なかった」は、原文では動詞が使われているわけではありませんが、「休暇だった」に合わせたのでしょうし、明らかに過去のことですから、これで構わないと思います。
池内訳でも、「労多くして実りの少なかったその人生の最初の休暇というべきこの五年間に、ずいぶん脂肪がついて、すっかり鈍重になってしまった」だけは過去形で訳しています。ですが、「労多くして実りの少なかった」については上記と同じようなことが言えるでしょうし(ただしこちらでは、あとのほうは「最初の休暇というべき」と現在形で訳していますが)、ここの原文は er hatte in diesen fünf Jahren, ... , viel Fett angesetzt und war dadurch recht schwerfällig geworden と過去完了形になっていますから、直接話法では現在完了形になります。体験話法での過去完了形は、直接話法では過去形になることもありますが、ここでは五年の間にこのようなことがいわば完了したことを言っていますから、過去形よりも現在完了形にした方がよいと私は思います。それはともかく、現在完了形は、日本語では現在形のように訳されることもありますが、どちらかと言うと過去形のように訳されることが多いですから、ここでも直接話法としての現在形の訳と混在させているわけではないと思います。
またその一方で、三原訳のように解している邦訳はほかにもいくつかありますが、 die man eigentlich nicht angreifen durfte, und die für den Notfall zurückgelegt werden mußte の部分の durfte と mußte だけは、(三原訳もそうですが)現在形で訳しているものがほとんどであり、その理由は、これらまで過去形として訳すと、文がくどい感じになってしまうためではないかと思われます。ですから、これらを現在形で訳しているのは、いわば翻訳上の工夫であり、単純に変化をつけるために(普通の過去形の文章と解しての)過去形の訳と混在させているのとはちょっと違うと、私は思います。
(b) に関しては、ほぼすべての邦訳が体験話法とみなして訳していますが、 und der ihre bisherige Lebensweise so sehr zu gönnen war を、原田訳や山下肇・萬里訳や池内訳のように過去形で訳しているものがかなりあります。ですがこれは、ここの意味の解釈に関係してきますので、あとで詳しく考えてみることにします。
ともあれ、どの文を体験話法とみなすかということに関しては絶対的な基準はありませんし、体験話法であるか否かにかかわらず、文章に変化をつけるために、現在形と過去形を混在させるという考え方もあろうかと思われますので、どのような訳し方をしても構いません。ただ私は、ここの内容――お金のことがかなり深刻に語られている――から考えて、(a) と (b) のすべてを体験話法とみなしてよいのではないかと思います。
ご参考までに、(a) と (b) を直接話法で書いてみますと、次のようになります。
(a) Nun genügt dieses Geld aber ganz und gar nicht, um die Familie etwa von den Zinsen leben zu lassen; es genügt vielleicht, um die Familie ein, höchstens zwei Jahre zu erhalten, mehr ist es nicht. Es ist also bloß eine Summe, die man eigentlich nicht angreifen darf, und die für den Notfall zurückgelegt werden muß (今の正書法では muss); das Geld zum Leben aber muß man verdienen. Nun ist aber der Vater ein zwar gesunder, aber alter Mann, der schon fünf Jahre nichts gearbeitet hat und sich jedenfalls nicht viel zutrauen darf; er hat in diesen fünf Jahren, welche die ersten Ferien seines mühevollen und doch erfolglosen Lebens waren, viel Fett angesetzt und ist dadurch recht schwerfällig geworden. (b) Und die alte Mutter sollte nun vielleicht Geld verdienen, die an Asthma leidet, der eine Wanderung durch die Wohnung schon Anstrengung verursacht, und die jeden zweiten Tag in Atembeschwerden auf dem Sofa beim offenen Fenster verbringt? Und die Schwester sollte Geld verdienen, die noch ein Kind ist mit ihren siebzehn Jahren, und der ihre bisherige Lebensweise so sehr zu gönnen ist (あるいはwarとも考えられますが、詳しいことはこのあとで), die daraus bestanden hat (あるいは bestand), sich nett zu kleiden, lange zu schlafen, in der Wirtschaft mitzuhelfen, an ein paar bescheidenen Vergnügungen sich zu beteiligen und vor allem Violine zu spielen?
※welche die ersten Ferien seines mühevollen und doch erfolglosen Lebens waren の waren は、原文の体験話法でもこうなっていますから、直接話法にしますと現在形の sind となるところですが、ここではやはり waren とした方が意味的に自然であると私は思います。
もともと直接話法でも過去形である動詞は、体験話法になると過去完了形(ここで言いますと gewesen waren)になるのが普通ですが、過去形のままにされることもありますので、ここでもそうではないかと考えられます。
※2箇所で出ている sollte は sollen の接続法第Ⅱ式(現在形)です。現在形の接続法の動詞(や、この場合は話法の助動詞)は、体験話法となっても、地の文(語り手の文)の過去形に合わせて過去形にはされずに、そのままの形になります。例外的に過去形にされる場合もありますが。
「そうではなくて、直接話法では soll であり、これが体験話法となったために、地の文の過去形に合わせて過去形の sollte になった」という考え方もできますが、このような体験話法に出てくる sollte は接続法第Ⅱ式とみなされるのが一般的ですので、ここでもこのように考えておきます。
それでは、個々の箇所の解釈について、順に見ていきましょう。原文と原田訳は、もう一度改めて引用しておきます。また、必要に応じて、山下肇・萬里訳、三原訳も、もう一度引用します。
①ここの冒頭の Nun と、ここの次の箇所(Nun war aber der Vater ein zwar gesunder, aber alter Mann, ...)の冒頭の Nun は、「今は」(この文を過去形で訳すのであれば、「このときは」)とも解せないことはありませんが、「さて」とか「ところで」という意味で話題を転じるのに使われる nun と考えてよいかと思います。訳出してある邦訳も、「さて」「ところで」「それはそうと」などとしています。
②etwa は「たとえば」という意味で、「家族をたとえば利子で生活させるためには」となり、ほかの方法もありうることを言っているのでしょうが、これを訳出しますと、それこそ「ほかにはどんなふうにして?」と考えてしまうかもしれませんね。
ちなみに、邦訳ではこれをはっきり訳出しているものが案外多くありますが、英訳ではほとんどなく、Underwood 訳が for the family to be able, for example, to live off the interest、Michael Hofmamm 訳が for the family to live off the interest, say (この say は「たとえば」という意味) としているくらいです。Pasley 訳は to allow the family to live on the interest, or anything of that kind、Susan Bernofsky 訳は to allow the family to live off the interest or anything of that sort として、このニュアンスを出していますね。
③mehr war es nicht と Es war also bloß eine Summe の es と Es は何を意味しているのでしょうか。これらは前に出た dieses Geld を受けているとも解せますし、文字通り「それ」ということで、ここに出てきているお金の状況を漠然と言っているとも解せます。どちらと解しても意味は通りますから、判断が難しいのですが、ここもドイツ語に詳しい知人とも話し合って、dieses Geld を受けていると解してよいのではないかということになりました(異論もあるかもしれませんが)。
mehr war es nicht に関しては、邦訳では、言葉の微妙な違いはあっても、ほとんどが原田訳か山下肇・萬里訳のように訳しています。高橋訳は「金といってもそれくらいのものにすぎなかった」、高本訳は「その程度の金なのだ」としており、「金」という言葉を出しています。英訳ではほとんどが、 no more、not more、no longer(以上の3つとも、そのあとに than that を足してあるものも)、that was all(このあとに there was を足してあるものも) のいずれかとしています。さらに、not more を除く3つのパターンには、前に接続詞の but を足してあるものもあります。
Es war also bloß eine Summe に関しては、邦訳ではほぼすべてが、Es を訳出していないか、「それは」と訳しているかのいずれかです。浅井訳だけは「このお金は」と訳しています。英訳ではほとんどが、 It was ... としています。ただし、In other words it was ... 、That’s to say, it was ... 、So it was ... などのように、it の前に別の語や語句が置かれている場合もありますが。Aaltonen 訳は、Es war also bloß eine Summe, ... zurückgelegt werden mußte の全体を、That nest egg had to be kept for emergencies. とだけしており、少し手抜き的ではありますが、面白く訳していると思いました。
ついでながら、上記の英訳の紹介からもわかりますように、 also を「つまり」という意味で訳している訳と、「だから」という意味で訳している訳が、邦訳にも英訳にもあります。ですがここでは、 Es war also bloß eine Summe 以下は mehr war es nicht を詳しく言ったものと解した方が、言い換えますと、この also は「つまり」という意味に解した方が適切ではないかと、私は思います。
[der ... und] sich jedenfalls nicht viel zutrauen durfte ですが、直訳しますと、そして、体験話法として現在形で訳しますと、「いずれにしても、自分に対して、あまり多くのことを期待してはいけない」のようになりますね。zutrauen の訳語として「期待する」が出ている辞書は少ないですが、sich (この場合は3格)の意味をはっきりさせるために、あえてこの訳語を使いました。
山下肇・萬里訳のように、「頼りになりそうもない」という感じで訳している邦訳はかなりありますし、英訳でもなぜか、[who ... and] who in any case could not be expected to undertake too much (Corngold 訳) のような感じで訳しているものが多いです。しかし厳密に考えますと、上記の直訳のように、本来は父親の立場から言っているのですから、「頼りになりそうもない」と外からの視点で言っているのではありませんね。とは言え、視点を変えて言っているだけで、意味が大きくずれているわけではありませんから、間違いでは勿論ありません。
原田訳や「あまり自信が持てない」「自信をなくしている」のようにしている訳も多いですが、話法の助動詞の dürfen が否定されると「...してはいけない」という意味になりますから、厳密には「あまり自信を持ってはいけない」ですね。
邦訳では浅井訳が一番正確ですが、直訳的ではありますね。丘沢訳は、大胆ですがここのニュアンスが一応出ており、上手と思いました。英訳では、[who ... , and] who certainly ought not to expect too much of himself (Pasley 訳)、[who ... , and] who in any case ought not to expect too much of himself (Reppin 訳)、[... , who ... , and] who surely shouldn’t expect too much of himself (Hofmann 訳) が正確ですね。なお、jedenfalls の解釈が Pasley 訳・Hofmann 訳と Reppin 訳では微妙に違っていますが、意味は大きくは違わないと思います。
①まず、この nun は、連載の第12回と第13回にも出ましたが、「そんな状況では」という感じの意味ではないかと私は思います。
月刊『みすず』10月号・連載第12回の「「変身」において 翻訳の解釈が分かれている箇所」:「○Im Wohnzimmer war, ...」で始まる箇所にあります。月刊『みすず』12月号・連載第13回の「「変身」において 翻訳の解釈が分かれている箇所」:「○(a)Nun kam gewiß bis zum Morgen ...」で始まる箇所にあります。
訳出してある邦訳は、「となると」などとしています。英訳でほとんどが、訳出していないか、単に now としているだけかですが、Naney 訳は冒頭で And so, ... とし、Moncrieff 訳は冒頭で So とし(ですから、nun ではなく Und の訳のつもりかもしれませんが)、Fox 訳は then としています。
ただ、接続詞の und も「それならば」というニュアンスの意味を持つことがあり、ここでは nun がなくてもこのような意味は伝わるのではないかとも思いますが。ちなみに、多くの辞書では、und がこの意味になるのは条件を表す文か命令文が前にきたときのみのように書かれていますが、必ずしもその必要はありません。
②この sollte は、体験話法の箇所でも記しましたが、接続法第Ⅱ式の現在形と考えておきます。いろいろな訳し方がされていますが、文末に?があるにもかかわらず、普通の文の語順になっていますから、いわゆる「修辞疑問文」で、「...なのだろうか、いや、そうではない」という感じの意味になります。
それで、ここの訳し方ですが、
(1)接続法第Ⅱ式の sollte には、「...なのだろうか」と反問や疑惑を表す意味がありますから、「老母が稼ぐというのだろうか(、いや、稼げるはずがない:この部分は、次の (2) (3) に当てはめても意味は通じますね)」のようにも訳せます。:浅井訳、川島訳など
(2)義務を表す sollen のニュアンスを出して、「老母が稼ぐべきなのだろうか/稼がなくてはいけないのだろうか(、いや、稼ぐなどという義務はない)」のようにも訳せます。:城山訳、川村訳など
(3)話者の意志を表す sollen のニュアンスを出して、「老母に稼がせるというのだろうか(、いや、そんなことはさせられない)」のようにも訳せます。:高安訳、三原訳など
ここはどのような訳し方が正しいとか間違いとかいったことは全然なく、訳者がそれぞれに工夫して自由に訳せばよいのではないかと、私は思います。ただ、しいて言いますと、原田訳ですと反語的な疑問文の感じが出ていませんから、今一つかなと思います。もっとも、このあとの、妹のことを言っている箇所では、原田訳も「どうしてこんな妹がかせぐことができるだろうか」としていますから、ここも疑問文であることは原田先生もおわかりであったものとは思いますが。
なお、英訳ではきっと should を使って訳していると私は予想していましたし、そう訳しているものも勿論ありましたが、意外なことに、was to ...(英語の「be+to 不定詞」は義務や可能などの意味になりますね)と was supposed to ... を使って訳しているものも、案外多くありました。ただ、前者は義務の意味がありますから、それでよいと思いますが、後者はどちらかと言うと仮定や予定の意味になりますから、ちょっと違うかなとも思いますが。
und der ihre bisherige Lebensweise so sehr zu gönnen war ですが、der は die Schwester を先行詞とする3格の関係代名詞であり、「彼女に」という意味になります。ihre bisherige Lebensweise は1格で、この関係代名詞の文の主語になっています。また、「sein+zu 不定詞」は、「...されることができる」とか「...されるべきである」といった意味になります。
実はこの部分は、次のように解釈が分かれています。逐語訳的な訳で示しますと、次のようになります。
(1)彼女のこれまでの生活様式はとても惜しみなく彼女に与えられることができていた。:つまり、彼女のこれまでの生活はとても楽しかった、というニュアンス。
この解釈で、体験話法のこの部分を直接話法に書き換えますと、und der ihre bisherige Lebensweise so sehr zu gönnen war のままとなると私は思います。普通に行きますと、war → ist となるところですが、この意味ですと、やはり過去のことを言っていると考えた方が自然と思われます。このような生活が与えられていたのは過去のことであり、今はグレーゴルがこんなになったためにその世話に追われていて、このような生活は中断していると考えられますから。
ちなみに、もとの直接話法が und der ihre bisherige Lebensweise so sehr zu gönnen war であったのならば、体験話法では過去完了となり、und der ihre bisherige Lebensweise so sehr zu gönnen gewesen war となるのが正当ではありますが、直接話法の過去形の動詞は、体験話法になってもそのままにされることもありますから、und der ihre bisherige Lebensweise so sehr zu gönnen war のままになっていても間違いとは言えません。
(2)彼女のこれまでの生活様式はとても惜しみなく彼女に与えられなくてはならない。:つまり、彼女にはこれまでの生活をずっと続けさせてやりたい、というニュアンス。
この解釈で、体験話法のこの部分を直接話法に書き換えますと、こちらでは und der ihre bisherige Lebensweise so sehr zu gönnen ist として構いませんね。
それで、どちらの解釈が正しいかということになりますと、私は断定できません。ただ私は、最初は(1)と解していましたが、このような意味で言いたいのでしたら、「sein+zu 不定詞」を使うよりも、
「彼女のこれまでの生活様式はとてもたっぷり与えられていた(und der ihre bisherige Lebensweise so reichlich gegeben war:gegeben war は状態受動の過去形。体験話法になりますと、過去完了形の gegeben gewesen war となるのが正当ですが、こうしますと状態の継続を表している意味と完了形がしっくり合いませんので、gegeben war のままにしていた方がよいかと思います。もっともこれは、私自身の勝手な作文の中でのお話ですが)」
などのように、もう少し別の書き方をするのではないかと思いましたし、(2)のように解した方が妹に対するグレーゴルの愛情がうかがえて、いいのではないかなとも思うようになりました。ですが、(1)の解釈も勿論間違いではありません。
ここに関しては、邦訳、英訳ともにいろいろなヴァリエーションがあって面白いですので、付録〔5〕で一覧にしました。ご興味がおありの方はご覧下さい。
今回の連載では、英訳に関したいくつかの点(特に better の用法)につきまして、高知市のエヴァグリーン英会話スクールの菊池春樹先生にご教示をいただきました。記して感謝いたします。ただ、英訳についての説明も、最終的にはすべて私の判断で記しましたので、責任は私にあります。ご意見がおありの方がおられましたら、私宛にお寄せ下さいましたら幸いに存じます。
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