番外編〈2〉:カフカの「通りに面した窓」において、翻訳の解釈が分かれている箇所
文学紹介者の頭木(かしらぎ)弘樹さんが雑誌『みすず』に連載なさっていた「咬んだり刺したりするカフカの『変身』」の第16回に、「通りに面した窓」という小品が出てきました。この小品は、カフカの短編集『観察』に収録されています。ごく短いですがかなり難しく、訳によって解釈が分かれている箇所がかなりあります。
「変身」とは勿論全く別の作品ではありますが、せっかく頭木さんの連載に出てきましたから、今回はこれの全文を取り上げて、何箇所に関して、訳による解釈の違いを見ておいてから、私なりの分析をしてみたいと思います。
ただし、この作品の文学的な視点からの解説等は、私はカフカの専門家ではなく、また文学者でもありませんので、差し控えさせていただきますが、ご容赦下さい。
今回参照した訳は、邦訳は高安国世訳、本野亨一(もとの・こういち)訳、円子修平訳、吉田仙太郎訳、池内紀(おさむ)訳、平野嘉彦(よしひこ)訳、英訳は Willa & Edwin Muir 訳、J. A. Underwood 訳、Malcolm Pasley 訳、Joachim Neugroschel 訳、Michael Hofmann 訳、Joyce Crick 訳、Christopher Moncrieff 訳、Katja Pelzer 訳です。なお、煩瑣(はんさ)を少しでも避けたいですし、また、本稿は個々の訳を批判することが目的ではありませんので、訳語を示すさいに訳者名をあげるのは、特に必要と思われた場合だけに限ります。また、既訳をすべて列挙している場合には、全く同じ訳語は1つにまとめていますし、その語句を訳出していない訳は除外していますので、上記と数が合っていないこともあります。
それでまずは、各訳が題名をどのように訳しているかを、見ておきましょう。ドイツ語の原題は Das Gassenfenster です。
「通りに向う窓(高安訳)」「街にむいた窓(本野訳)」「通りに面した窓(円子訳、吉田訳)」「通りの窓(池内訳)」「路地の窓(平野訳)」
The Street Window (Muir 訳)、The Window on the Street (Pasley 訳、Underwood 訳〔ただし、The 以外の語頭はすべて小文字〕)、The Window Facing the Street (Neugroschel 訳)、The Window on to the Street (Hofmann 訳、Crick 訳)、A Window onto the Street (Moncrieff 訳)、The Window to the Street (Pelzer 訳)
どれが良くてどれが良くないということはないと、私は思います。ただ1つだけ、私の好みで言いますと、前置詞の on には単独でも「...に面した」という意味になることもあるようですから、Pasley 訳や Underwood 訳でも全く構わないのですが、やはり on to や onto や to とした方がわかりやすいかなと感じました。
①この2つの wer は関係代名詞ですが、先行詞はなしで用いられ、「...する人は」という意味になります。ここでは、2つの wer 以下全体がそれぞれ、「…する人は、...する人は」となり、この文の主語になっています。述語の部分はこのあとで取り上げます。
なお、2つ目の wer の前に oder を補って考えて、 or を入れている英訳と、 und を補って考えて、 and を入れている英訳が1つずつあります。
前者でも間違いではありませんが、ドイツ語ではコンマを und の代用で使うことがよくありますので、補って考えるとすれば後者と考えた方がよいかと思われます。
②この irgendwo を訳出するとしましたら、「[ときおり]どこかに、どこかで」となりますが、「どこかに、どこかで」ということはある意味ではわかりきっていることですから、どうしても訳出する必要まではないかもしれませんね。訳出しているのは、邦訳では2つ、英訳では3つだけです。
③この [der] Tageszeit を「一日のスケジュール」としている邦訳がありますが、これはちょっと飛躍しすぎですね。ここは「一日の時間[の変化、移り変わり]」ということですから、このような直訳でもよいと思いますし、吉田訳のような訳でもよいと思います。
④この [der] Berufsverhältnisse は、直訳をしますと「仕事の諸事情」となりますが、いろいろに訳せますね。既訳がどのように訳しているかを示しておきます。
邦訳では、「仕事の内幕」「仕事の事情」「仕事の都合」「職業」「職業の状態」、英訳では、business affairs、the state of his business、the circumstances of his job、the job circumstances、conditions at work、working conditions、the demands of his or her job、his work schedule としています。
⑤ohne weiteres はいろいろなニュアンスがあって訳しにくいですが、ここでは「(我慢をしたりせず)いともあっさりと」という意味合いと考えられます。ですがこれも、いろいろに訳せますね。これも既訳を示しておきます。
邦訳では、「あっさり」「急に」「ただわけもなく」「とにかく」「とにもかくにも」、英訳では、all at once、just、merely、simply、suddenly としています。
⑥この irgend einen beliebigen Arm sehen will を、「腕がほしい」という感じで訳している訳がいくつかありますが、原文では sehen が使われています。「ほしい」と言いたいのでしたら、haben とか、(「得る」という意味で)erlangen などが使われそうですので、ここではこのような腕に「出会いたい」という感じで言っているのではないかと、私は思います。ただ、腕に「出会う」と言うのは、日本語としてちょっととも思われますね。
邦訳では、本野訳と池内訳は「ほしい」としています。また、平野訳は、私と同じように考えたのではないかと思いますが、「だれであれ頼りになる友に会いにいきたいものだと思う」と変えてしまっています。けれども、翻訳上の一つの工夫ということで、これでも構わないのではないかと思います。高安訳と円子訳は文字どおり「見たいと望む」「見たくなる」、吉田訳は「探したくなる」としています。
英訳では、will の訳は除外して動詞だけをあげますと、「ほしい」という感じで have としているものが2つ、文字どおり see としているものが4つ、あとは find と seek としています。
sehen のもとの意味から考えますと、find でしたらまだ、「見つける→出会う」とも言えないことはありませんが、「探す」とするのは、間違いではありませんがちょっとニュアンスが違うかなと思います。
また、beliebig[en] は「任意の、随意の」がもとの意味ですが、たとえば ein beliebiger で「だれでもよいある人」(小学館『独和大辞典』;ここでは名詞化されていますから、ドイツ語の原則では Beliebiger となりますが、beliebig が名詞化された場合には、b は小文字のままでも構いません)のような使い方もありますので、ここでは「なんでもいい→誰のでもいい」という感じの意味ではないかと思われます。これも既訳を示しておきますが、便宜上、Arm も含めた形で示します。
邦訳では、「何らかの腕」「なんでもいいから、[自分を支えてくれるような] 腕」「誰のでもいい [一本の] 腕」「誰でもいいから [取りすがれる] 腕」「だれであれ [頼りになる] 友」、英訳では、an arm, any arm、any arm at all、some arm, any arm、some arm or other、an arm―it can be any old arm― (これはちょっと作りすぎかなと思いますが) としています。
結論的には、ここをどのように訳すかは、訳者や読者の好みでよいのではないかと思います。
①ここの述語部分の訳は、吉田訳のとおりでよいと思いますが、邦訳では、未来形の wird (推測の意味) や lange をなぜか訳出していない訳が少なくありません。この程度のことで誤訳と決めつけるつもりはありませんが、難しいことでは全然ないのに、なぜかなとは思いました。
ちなみに、英訳ではすべてが、will not (あるいは won’t) や for [very] long (あるいは単に long) として、両方を訳出しています。
②treiben には、非人称の es を目的語とする慣用的な使い方があります。意味は状況によって変わってきますが、ここでは「続く」とか「もつ」とかいった感じの意味になります。これも既訳を示しておきますが、邦訳では終止形で、英訳では不定形(原形)で示し、wird と nicht lange は考慮に入れません。①で私が記したことと反対のような感じですが、ここではこうした方がすっきりしますので。
邦訳では、「辛抱し切れる」「やっていく」「やって行く」、また、意訳して「...窓が、どうしても必要であろう」、英訳では、4つが get by としており、あとは、carry on、last(動詞)、manage、survive としています。邦訳ではさほど多様ではありませんが、英訳で使われている動詞のヴァリエーションは面白いですね。
①und は並列の接続詞ですから、このあとの文の語順(普通の文でしたら「主語」+「動詞」)は変わりませんが、ここでは動詞の steht が Und の直後にきていますから、これは wenn が省略された文と解することができます*。ですが、文字どおり「...すると」という感じで解している訳と、「...しても」と解している訳とがあります。後者に解しているのは、邦訳では本野訳だけですが、英訳では8つのうちの6つがこう解しています。
*例:Kommt Zeit (=Wenn Zeit kommt), kommt Rat. (時が来ると知恵が浮かぶ)
wenn や英語の if は本当に微妙で、普通は「…すると、…するならば」という意味になりますが、「…しても」という意味になる場合もあり、どちらに解しても意味が通る場合も少なくありませんね。wenn の場合には auch が wenn 以下の副文のどこかにあれば、if の場合には even if となっていれば、「…しても」という意味であることが明確になり、誤解の余地はなくなるのですが。
それでここの場合も、どちらに解しても意味は通りますが、私の個人的な感覚では、普通の wenn の意味(「...すると」)に解した方が自然のように感じます。「...としても」と解しても、勿論間違いでは決してありませんが。
それから、ここの意味は、逐語訳しますと、「彼に関して daß 以下の事情であるとすると(あるいは、...であるとしても)」となりますね。ですが、持って回ったような言い方であり、こう言わなくても意味は完全に通じますから、あえて訳出しなくてもよいと思いますし、多くの邦訳では訳出していません。ですが、本野訳は「... 、という状態であるとしても」としていますし、平野訳は「彼はこんな具合ではなかろうか、...」と丁寧に訳出しています。
その一方で英訳では、やはり英語は日本語よりもドイツ語に近いことの影響かと思われますが、ほとんどの訳で次のように訳出されています。
②この die Augen auf und ab zwischen Publikum und Himmel という句に関しては、私はだいぶ悩みました。邦訳と英訳の大部分は、「目を上下に、つまり、群衆と空と間で行き来させて」という感じで訳していますし、感覚的にはこう解したい気もしますね。
ですが、平野訳は「窓の外の通行人と空とのはざまにときおり眼をやりながら」としていますし、Moncrieff 訳は ... , and let their gaze stray back and forth between the crowds in the street and the sky above, ... としており、back and forth をどう解するかにもよりますが、平野訳のような感じともとれる訳し方をしています。
それでここは、カフカが本当にこの意味で書きたかったとは断言できませんが、ドイツ語の語法上から言いますと、この平野訳が正解と言えるのではないかと思います。このような用法は、文法的に「絶対4格」と言われており、現在分詞の haltend (「…を~に保ちながら」などの意味) を補って考えるのが原則ですから、die Augen auf und ab zwischen Publikum und Himmel haltend と考えますと、「目を群衆と空との間で上下に動かしている」とはなりませんね。auf und ab には「ときどき」という意味はありませんが、一部の辞書に「行きつ戻りつ(Moncrieff 訳の back and forth にも対応していますね)」といった訳語もありますから、群衆と空の間に目を向けたり、――「後ろへ戻す」は厳密にはおかしいかもしれませんが――そこを見ないようにしたりした(という状態を保っていた)ことを言っているものと思われます。
ですが、これが悩ましいのですが、私も「ここは絶対にこの意味です」とは断言できません。カフカはもしかしたら、これでない意味(つまりは大部分の既訳が訳している意味)で言いたかったのかもしれませんし、普通の語法には反しますが、haltend ではなくて bewegend (「動かしながら」) などを補って考えてほしかったのかもしれません。最初にも記したように、この状況での動作としては、感覚的にはこの方が自然ではないかとも思われますから。
ここはどっちつかずの結論になってしまいましたが、ご意見がおありでしたら、お寄せいただけましたら幸いです。
③Fensterbrüstung は窓の下の壁のことを言っていますが、「腰壁(こしかべ)」などと言ってもわかりにくいですし、「窓下の壁」と言ってもここでは実質的に窓のことを言っていますから、単純に「窓」としてしまってもよいと思います。これも既訳を示しておきます。
邦訳では、「窓の手摺(てすり)」「窓枠」(この2つは Fensterbrüstung のもとの意味とはかなりずれていますね)「窓ぎわ」「窓のところ」「腰壁」としています。
英訳では、あっさり window だけか、window sill か、windowsill か、window-ledge としています。英訳での window(だけ) 以外の3つは、いずれも「窓の敷居」のことですが、ごく限られた辞書だけながら Fenster-brüstung にはこの語義も出ています。
④この will nicht は、will nicht ein wenig den Kopf zurückneigen (…したいわけではないが、つい〔あるいは、なんとなく〕…) と解している訳と、「何の欲望もなく」「なにひとつ意欲を抱くこともなく」「なにも願わずに」のように解している訳とがあります。私としましては、後者のように言いたいのでしたら、will nichts と言うのではないかと思いますので、この解釈は無理ではないかと思います。
英訳では、apathetically とか、lose interest とか、unwillingly としているものもありますが、いずれもちょっとニュアンスが違うように思います。残りのうちの4つは「[外を]見たくなくて」という感じで訳しています。なるほどとも思いますが、will nicht のあとに勝手に sehen や hinaussehen などを補って考えるのはちょっとどうかとも思います。あとの1つは書き方が不分明で、どのような意味で言いたいのか判断できませんので、除外します。
というわけで、私としましてはここはやはり、「つい」「なんとなく」という感じの意味に解したいと思います。
⑤この hat ein wenig den Kopf zurückgeneigt ですが、見たところは現在完了形のように見えますが、ここでは現在形ではないかと私は思います。この作品は、1箇所だけが未来形で書かれている以外は、すべて現在形で書かれており、ここだけ現在完了形になるのは唐突な感じがしますので。
「haben+4格の名詞・代名詞 (A)+過去分詞 (B)」で、「(A) を (B) の状態にしている」という意味になることがありますから、ここでは、逐語訳しますと「頭(あるいは、この場合は「首」としても可)を少しだけ、後ろに傾けた状態にしている」となりますね。
邦訳では、1つだけが「すこしばかり頭をそらせたときに」としており、現在完了形とみなして訳したようにも思われますが、あとはおおむね、「頭を少しそらせると」という感じで現在形に訳しています。
英訳では、次のように多様に訳されています。
①この unten die Pferde を、平野訳では「下で待ちかまえる馬が」と訳しており、他の訳では「下を通る馬[たち]が」「下の馬が」「眼下では馬たちが」と訳しています。
これも、考え出しますと迷ってきますね。平野訳でも間違いではありませんが、「待ちかまえる」とは明記されていませんから、他のような訳でよいのではないかと私は思います。
英訳では、the horses below としているか、 the horses down below としているかです。Moncrieff 訳では、[the sound of] the horses and carriages outside としています。
②この Gefolge はちょっと難しいですが、ここでは「お供の者」という感じで、自分の車や、自分たちが出す騒音を、自分の供の者にたとえているのではないかと思われます。
「下を通る馬たちが、その後にしたがえている車や騒音の中へ(高安訳)」や「下を通る馬が、そのあとにつき従う車のほうへ、そして、騒音のなかに(本野訳)」という訳は、この感じをよく出していますね。これら以外の訳(吉田訳は上で引用した訳文をご参照下さい)では、「下を通る馬が、曳(ひ)いて行く車と騒音のなかに彼を捲(まき)込み(円子訳)」「下の馬が車と騒音もろともに巻きこんで(池内訳)」「下で待ちかまえる馬が、車馬と騒音がともなう巷(ちまた)へ(平野訳)」としています。
英訳では次のようにしています。
③この der menschlichen Eintracht zu(副詞) は、zu(前置詞) der menschlichen Eintracht とする方が普通でしょうが、副詞の zu にはこのような用法があるようです。邦訳でも英訳でも、「...の中へ」とか、 into としているものもありますが、zu には基本的には「...の中へ」という意味はありませんから、「...へ」か「...へと」とするのが正確です。もっともここでは、あまり厳密に考えなくてもよいかもしれませんが。
ここも訳し方のヴァリエーションがいろいろありますので、既訳を一覧的に示しておきます。
最後になりましたが、本稿でも、英訳に関した2、3の点につきまして、高知市のエヴァグリーン英会話スクールの菊池春樹先生にご教示をいただきました。記して感謝いたします。ただ、英訳についての説明も、最終的にはすべて私の判断で記しましたので、責任は私にあります。ご意見がおありの方がおられましたら、私宛にお寄せ下さいましたら幸いに存じます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?