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看護の仕事の見える化               在宅医療偏 第2回           看護師がよかったと思う患者の死は

1.私S-TASHIROの役割


 唐突なタイトル「看護師がよかったと思う患者の死は」を挙げることになったのは、在宅医療偏第1回に引き続き、訪問看護師さんのインタビューをしたことからでした。在宅で亡くなる方は、ある意味とても幸せな方だと思います。患者が自分で望み、支える家族や場所などの環境がそろっているからです。家で最期を迎えたいと思っても、家族に迷惑をかけるからなどの理由で断念する方も少なくありません。
 インタビューで訪問看護師さんは、「患者さんや家族は本当に満足されたのだろうか?デスカンファもしたんです」と話されました。
私たち看護師は、「よかった」と思える事例ばかりではなく、答えがわからない事例に出会うこともたびたびあります。しかし、私の役割は「看護師さんを悦びで満たす」ことです。一緒に振り返りをしながら、私は心からよかったと思えましたし、多くの看護師さんにも共感をいただきたいと思い投稿することにしました。

2.事例の紹介


 患者さんは、がんの末期の状態ではありましたが、2年間、比較的元気に過ごされました。その後、他の臓器にも転移があり、余命3ヶ月の状態でしたが、患者さんは、生きたいという気持ちが強く、再発後の病状説明を拒んでいましたので、専らその説明を聴くのは娘さんでした。治療している病院から在宅医療を勧められ、娘さんよりお母さまに伝えられました。患者さんは、「それならぜひHさんに看てもらいたい」と言われたそうです。以前も「Hさんに看取ってもらいたい」と話されていたこともあり、そんな縁で訪問看護師のHさんに訪問の依頼がありました。Hさんと患者さんは、お互いをよく知る仲でした。
 患者さんは、夫の仕事や、社会的活動を支える強くて何でも人に任せることが嫌いなしっかりした方でした。訪問看護と訪問診療、訪問リハビリのサービスを自宅で受けていましたが、よくなりたいという気持ちが強いので訪問リハビリをもっと入れてほしいという希望がありました。最初は夫と過ごしている自宅での療養でしたが、夜間の不安が強くなり、療養の場を娘さん宅に変更しました。徐々に痛みが強くなりましたが、鎮痛剤を快く思われなかった患者さんを配慮し、訪問看護師さんはマッサージや精神的なアプローチで緩和を図りました。特に夜間になると不安が強くなり、夜10時頃に緊急訪問の依頼が毎日あり、訪問看護師さんは1時間ほど患者さんと時間を共にするという状況が続きました。
 ある日、鎮痛剤への拒否が強かったものの、訪問看護師さんから、状態報告を受けた訪問診療医より、1時間という長い時間をかけて必要性の説明がされました。患者さんは「私は決められない。先生が決めて」とおっしゃり、持続的に鎮痛剤を使うことになり、患者さんや家族は、痛みのない穏やかな時間を過ごされ、遠くにいらっしゃる家族の皆様との時間も共有されました。患者さんの希望通りに、病状の説明を直接することはありませんでしたが、状況を一番わかっていたのは患者さんだったのかもしれません。
 訪問看護師はよく心残りややり残したことを聴くために「気になることはないですか?」という問いかけをします。患者さんは「モヤモヤがいっぱいある」と言われたそうです。また、亡くなる2日前に、患者さんは、訪問看護師のHさんに声にならない声で何かを告げます。Hさんの心残りは、病状を聴きたくないHさんの気持ちに寄り添い、わかちあう必要があったのではないか?鎮痛剤をもっと早く導入できなかったか?夜間の不安にもっと何かできなかったか?私に伝えたかったことは何だったのか?と


3.看護師さんへのエール


 私たち看護師は、人が生まれる前から死ぬまでそのあらゆるステージに関わります。対象も患者さん本人だけでなく、家族や地域社会と様々で、人や社会の幸せに寄与する素晴らしい仕事で、私はこの仕事を誇らしく思います。ただ、人の幸せは一人一人違うので、感謝の言葉のようにわかりやすく伝えられる形があればわかりやすいですが、状況から読み取るだけでは、本当によかったのだろうか?もっとできることがあったのではと思ってしまいます。人生や看護師の経験を積めば積むほど思うことかもしれません。特に、誰もが経験する死は、迎える人にとっては最後で最大の経験であり、看取る人にとってもストーリーを描けるものではありません。

 野の花診療所を営む徳永進先生の言葉です。

https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/212/

「命というのは、根本的に生きようとする。夕顔の種をまくとつるがいろんな障害物を越えて上へ行きます。光に向かっていくので向光性というんですけど、最後、そのつるはどうなっていくかというと、最終的には地に落ちるんですけど、私は、みんなが1粒の夕顔の種を持っているというようなのがわかりやすいと思って。その種は生きようとするのが根本的な姿勢です。でも、最終的には地に向かう能力も持っていると思っていて。真反対こそ臨床の真実味があって、いろんな真反対がいろんな形である、そこが現場というか臨床というか人生というか、ああいうものの値打ちだろうな。私たちはどっちか1つにしたがるんですが、そんなことがあるわけはない」

  インタビューを終えて、私が思ったことは、徳永進先生の言葉にあるように、「死を受容するか否かどっちか一つ」でなくてもいい。「色々な真反対」があっていい。死という未知の世界は恐怖を抱きやすいものです。患者さんもそうだったと思います。どんな時もどんな状況においても、私たち看護師はそんな患者さんを受け止め支える存在であればよいのかなと思います。
 また、「モヤモヤ」が何だったのかは、これまでの家族と共に歩んできた患者さんしかわからないものがあります。看護として介入できることではないこともあります。確か、「中居正広の金曜日のスマイルたち」の番組で、石原慎太郎さんの亡くなる前の状況を息子である石原良純さんが話されていたことが思い出されましたが、何か伝えたいと思った良純さんが、お父さんの手を握ったら振り払われたというではないですか。石原慎太郎さんらしいなと思いましたが、この患者さんも患者さんらしかったのかもしれません。あらゆる情報をシャットダウンし生きようとされていたのかもしれないし、死を受け入れずに希望を持とうとされていたのかもしれません。訪問看護師さんは、最期が近づいていることを知ればもっと患者にとって有益だと思うことがあったのかもしれませんが、その時々の患者さんの思いをすべて受け入れ支えてくれたことが患者さんにとってどんなに救いだったでしょう。そして、人に頼らないしっかりした人だった方が、夜間の不安が強くなった時に家族でもなく、訪問看護師さんを頼ったこと、どんなに求められていたことでしょう。患者さんが言った「モヤモヤ」がつきとめられなくても、Hさんに声なき声で伝えたことが解明できなくても、伝えた、伝えたいと思った訪問看護師さんがそばに居たことが患者さんにとっては家族同様、大切な存在だったのだと思いました。
 私は、訪問看護師さんにエールを送るとともに、日々の仕事の中で置き去りにされている「心残り」を解消し、力にしていただきたいと思いこれからも発信していきます。また、今回のことを機に私の「もしばなゲーム」での最も優先する項目が変化しました。「もしばなゲーム」はカードを使い、人生においての価値観などの気づきを得るゲームです。余命半年と宣告を受けたことを想定して、最も重要な価値のカードを最終3枚選びます。もちろん第一は「死ぬ前にいい人生だったと言える」ことですが第二のカードは「信頼できる医師を選ぶ」で、看護師なのに看護師を選ぶという選択はありませんでした。看護師をしていて、最期はこの先生に診てもらいたいと思える先生がいることは幸せです。医師もですが、信頼できる看護師を選ぶことも重要です。そんな看護師さんに選ばれたHさん、それだけですごいことです。選ばれる訪問看護師さんが増えるように私も仕事を通して貢献したいです。






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