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可愛さへの表現技巧:夏目漱石『文鳥』

最近、よく猫町倶楽部のオンライン読書会に参加していて、その中でも特に短編読書会は気に入っている。先日も「【30分で読める短編読書会】夏目漱石『文鳥」』に参加した。

猫町倶楽部に参加するようになってまもなく丸2年になるが、最初の年の5月の連休に連続で行われた短編読書会に参加したときに「ああ、読書会って面白いなぁ」と心から思った。それ以来、機会があえば短編読書会に参加するようにしている。

夏目漱石の『文鳥』は、新潮文庫の短篇集でも角川文庫の短篇集でも「夢十夜」や「永日小品」とともに収録されているので、ずっと以前にたぶん読んでいるはずなのだけれど読んだ記憶がない。そのときはきっと読み飛ばしてしまったのだろう。

短編読書会に参加したときはいつも思うのだけれど、長い作品よりも作品自体を丁寧にみんなで話すことができる気がする。夏目漱石の『文鳥』のような作品は特にそういうことに合っているような気がする。実際とても楽しい読書会だった。


読書会で同じグループになった人が、「主人公は文鳥のことをとても可愛いと思っているのに、あえてそう言わないところが面白い」とおっしゃっていた。それはとても面白い見方だなと思う。

《可愛い》と意地でも言わない縛りだなんて、自分だけで読んでいるときには全く思わなかった。しかし、言われてみると確かにその通りだ。

何を《可愛い》と思うかは人それぞれだが、私は《可愛い》という気持ちには丁寧に《見る》ことが含まれているように思う。その意味で主人公は無茶苦茶見ている。

文鳥の目は真黒である。瞼の周囲に細い淡紅色の絹糸を縫い付けたような筋が入っている。目をぱちつかせるたびに絹糸が急に寄って一本になる。と思うとまた丸くなる。籠を箱から出すやいなや、文鳥は白い首をちょっと傾けながらこの黒い目を移してはじめて自分の顔を見た。そうしてちちと鳴いた。

夏目漱石『文鳥』

私は、鳥の目をこんなに真剣に見たことがない。文章の中には《見る》という動作自体は描かれていない。けれど実際には主人公は無茶苦茶見ている。

文鳥はすでに留まり木の上で方向を換えていた。しきりに首を左右に傾ける。傾けかけた首をふともち直して、こころもち前へ伸したかと思ったら、白い羽根がまたちらりと動いた。文鳥の足は向こうの留まり木の真中あたりに具合よく落ちた。ちちと鳴く。そうして遠くから自分の顔を覗き込んだ。

夏目漱石『文鳥』

"文鳥も自分をみている・・・うーーん、なんだか、可愛い。。。" そんな気持ちを《可愛い》という言葉を使わずに表現するなんて。いまどきであればLINEかtwitterに「無っ茶、カワイイよ」って書いてしまうかもしれない。そんなことをうっかり書けば"キモっ!"といわれて終了だ。世知辛いとはこういうことをいうのだろう。


可愛さの表記はやがて詩的な空想へと羽を広げていく。

小指を掛けてもすぐ引っ繰り返りそうな餌壺は釣鐘のように静かである。さすがに文鳥は軽いものだ。なんだか淡雪の精のような気がした。

夏目漱石『文鳥』

文鳥は嘴を上げた。咽喉のところで微かな音がする。また嘴を粟の真中に落とす。また微かな音がする。その音が面白い。静かに聴いていると、まるくて細やかで、しかも非常に速やかである。菫ほどな小さい人が、黄金の槌で瑪瑙の碁石でもつづけざまに敲いているような気がする。

夏目漱石『文鳥』

心の声が聞こえてくる。「文鳥の《可愛さ》は"淡雪の精"、"スミレほどの小さな人が黄金の槌でメノウの碁石を敲いている"。世間に馬鹿にされようと私もいいたい。無っ茶、カワイイ!」と・・・


一方で主人公は少し孤独だ。伽藍のような書斎 に ただ 一人。三重吉が「鳥をお飼いなさい」という気持ちもわかる。三重吉のキャラは愉快に描かれているが、なかなかにいい奴だ。三重吉もまた主人公を少しだけ暖めている。

文鳥は主人公の淋しさの中に現れた儚く美しい象徴。伽藍のような書斎の外では木枯らしが吹いている。

嘴の色を見ると紫を薄く混ぜた紅のようである。その紅がしだいに流れて、粟をつつく口尖の辺は白い。象牙を半透明にした白さである。

夏目漱石『文鳥』

自分はそっと書斎へ帰って淋しくペンを紙の上に走らしていた。縁側では文鳥がちちと鳴く。おりおりは千代千代とも鳴く。外では木枯らしが吹いていた。

夏目漱石『文鳥』

《可愛さ》の表記は音への注意に変換されていく。"そういえば三重吉の書く小説でも文鳥は千代千代と鳴いていた。あるいは千代という女にでも惚れていたのだろうか"。小説の前半で主人公はそんなことを思っていた。

文鳥を見ているうちに、主人公はふとこんなことを思い出す。

昔美しい女を知っていた。この女が机に凭れてなにか考えているところを、後ろから、そっと行って、紫の帯上げの房になった先を、長く垂らして、頸筋の細いあたりを、上から撫で回したら、女はものう気に後ろを向いた。その時女の眉はこころもち八の字に寄っていた。それで目尻と口元には笑いが萌していた。同時に恰好の好い頸を肩まですくめていた。文鳥が自分を見た時、自分はふとこの女のことを思い出した。

夏目漱石『文鳥』

私はこの女性のことを主人公と年が近いか少し年下ぐらいと思って読んでいたが、別の人は「子どもの頃に見た女性では?」と話されていた。

なるほど、確かにその方が自然だ。少年だった彼にとって身近でもありどこか遠いようでもあるその女性は"文鳥"のようだ。そう思って読むと、"自分が紫の帯上げでいたずらをしたのは縁談の極った二、三日あとである"と続く文も自然な気がする。


私はそんな風には読んではいなかったが、同じグループになったみなさんは、この小説がとても映像的だともおっしゃっていた。確かにその通りだ。

自分は冬の日に色づいた朱の台を眺めた。空になった餌壺を眺めた。空しく橋を渡している二本の留り木を眺めた。そうしてその下に横わる硬い文鳥を眺めた。 自分はこごんで両手に鳥籠を抱えた。そうして、書斎へ持って這入った。十畳の真中へ鳥籠を卸して、その前へかしこまって、籠の戸を開いて、大きな手を入れて、文鳥を握って見た。柔かい羽根は冷きっている。 拳を籠から引き出して、握った手を開けると、文鳥は静に掌の上にある。自分は手を開けたまま、しばらく死んだ鳥を見つめていた。

夏目漱石『文鳥』

風景と主人公の一連の行為と見ることとが美しく描かれている。


そう、そう。そういえば、"文鳥"に名前はつけないのだろうかという話もした。この小説の中で、名前を持っているのは、三重吉、豊隆、そして娘の筆子だけだ。

"文鳥"に名前があったのかどうかは結論がでなかったが、3人だけが名前を持っていることが、この小説をとても際立たせているようにも私には思える。

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