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【関西グルメ考】 #10 〜 関西の出汁文化編

改めて、「出汁」について考える。


 久しぶりに大阪観光に行って以来
「大阪グルメ」に興味津々のオジロワシ 🦅です。

大坂の「お好み焼き」「たこ焼き」「うどん」が旨いのはなぜか???
そう考えた時、
全てに共通するのは「出汁」なのではないかと気付きました。

うどんはもちろんですが、
旨いお好み焼きやたこ焼きにも、
生地には「ダシ」が使われています。
これが隠し味になっているみたいです🤫

【関西グルメ考】#1〜#9はコチラのマガジンをお読みください😋
 ↓


「人をダシにする」

という言葉があります。

「自分の利益のために他人を利用する」という意味ですが
これは、出汁というものが
調理される食材の味を引き立たせ、
しかも自分自身は姿を見せない
という
性質を見事に表しているものではないでしょか…。

オジロワシの関西グルメ考・第10弾は
そんな「出汁」について考えてみます。



(1)そもそも「出汁」はいつからあるのか?


出汁の起源をさかのぼると、
なんと「縄文時代」に辿り着きます。

ご存知、縄文式土器は、
外側の縄目模様にだけ注目されますが、
この土器本来の目的は、火を使って食べ物を煮炊きするもの。

縄文時代の縄文人たちは、この土器を使って、
木の実や果物、きのこや魚、貝や肉などを煮ることで、柔らかくて美味しくなることを知っていました。

更に貝塚からは、食べ終わった貝ガラが大量に見つかっております。
これは貝を食べていただけでなく、おそらく、今で言う「貝出汁」を取っていた名残だと考えられます。

貝だけではなく、様々な食材を煮ることで出る
「煮出し汁」が、
食べ物を美味しくすることを、縄文人は既に知っていた
訳です。

この煮出し汁が、今の和食に欠かせない「出汁」につながっていきます。

これは確かに目ウロコでした😳

その後、弥生時代の後、古墳時代、飛鳥時代を経て、
奈良時代になると
出汁の二本柱「鰹」と「昆布」が既に食べられていたという記録が、当時の文献に残っています。

」は「堅魚かたうお」や「煮堅魚にかたうお」、「煮堅煎汁かつおのいろり」といった名で登場。

また、「昆布」についても、やはり朝廷への献上品としての記述が見つかっています。
最も古いのは、1,200年以上も前に作られた『続日本紀』の中で、
現在の岩手県三陸海岸沿岸の蝦夷えみしの酋長である
須賀すがの 君古きみこ 麻比留まひるが、先祖代々、朝廷に対して、昆布を献上し続けていると記されています。

かなり古くから、鰹や昆布は日本人の食生活に欠かせない存在であったことが分かります。


(2)肉食禁止と出汁の関係


今をさかのぼること約1500年前、
西暦522年、日本に仏教が伝来しました。
奈良時代、欽明天皇の時代です。
それ以来、歴代の天皇は仏教に深く帰依していきました。

そして、仏教が伝来してから150年後、
天武天皇が675年に、殺生を禁じる仏教戒律を守るために、
「殺生、肉食を禁じる詔」が公布されます。

以来、日本人の間には、肉食を忌むべきもの、穢れたものと考える風潮が次第に広がり、
ほとんど牛や豚などの肉を食べませんでした。
「肉食の忌避」の時代では、米を中心とした穀物と魚介類、野菜を食べることが、日本の伝統的な食事となりました。

ところが、どうしてもこれらは、肉の旨みに比べると味が劣ってしまう。
そこで、この旨味を補うために、日本では「出汁」という文化が独自に発展していくことになります。


(3)出汁の旨味を鎌倉武士は知っていた


出汁だし」という言葉が初めて出てくるのは
鎌倉時代
日本最古の公家の料理書の一つとされる
厨事類記ちゅうじるいき』の中に「タシ汁」という言葉が見られます。
この「タシ汁」は、鯉を食べるための調味料ではないかと考えられています。

一方、鰹や昆布はこの頃、高級品ではあったものの、既に食べられておりました。

鎌倉武士は戦に勝って、帰陣すると
勝利の酒肴に、搗栗かちぐりと、鰹節と、昆布が出たとされます。

ってよろこぶ勝男武士かつおぶし
=かって よろこぶ かつおぶし
=搗って よろ昆布 鰹節」。

鰹節のイノシン酸 × 昆布のグルタミン酸 × 栗の甘味。
鰹と昆布、栗を一緒に食べると抜群に旨い
ということは、この頃から既に知られていたのですね。

昨年放送されていた大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で出てくる鎌倉武士の面々は、鰹と昆布、栗を食べながら勝利の美酒に酔いしれていたということなのでしょう。

(引用:鎌倉市観光協会

(4)合わせ出汁の話


「だし」という言葉が使用されるようになるのは、室町時代からです。

本来は「精進料理」から使われた言葉で、
「昆布」や「干し椎茸」など、植物系の食材を使った「精進だし」が考案されます。

禅宗に伝わる精進料理は、肉や魚を使わず、汁物や野菜が中心だったことから、
焼く、蒸す、ゆでる、という調理法に
旨味を加えるため「出汁を使って煮る」とか、
その前にあく抜きをする、水煮という「下ごしらえ」などの技術が加わります。

一方、刺身など、包丁を使う武家の料理は、この精進料理と融合し、武家がお客をもてなすための「本膳料理」という料理法が確立します。

こうして室町時代、和食の文化が成立して、
これが
飯と汁、刺身、焼き物、煮物、和え物という
「日本料理」の起源
となります。

江戸時代に入ると、かつおと昆布を使った「合わせ出汁」が、料理書でも紹介されるようになります。

これは精進の出汁と武家の出汁が一体になったことの表われとも言えますが、
「昆布」に含まれるグルタミン酸と
「鰹節」に含まれるイノシン酸を合わせることで
その旨味が二重三重に増す
ということが理解されるようになっていきます。
こうして、日本料理には、かつおと昆布を混合した「合わせ出汁/かつお昆布だし」が、広く使われるようになっていくのです。

この合わせ出汁によって、日本独自の「出汁」の文化は更に広がっていきます。



(5)昆布ロードの確立


中国の「シルクロード」は聞いたことがありますが、日本には「昆布ロード」なる道があるそう。

古くから食されていた昆布ですが、
宮城県より北、北海道を中心に寒い地域でしか獲れないため、貴重な食材とされていました。

日本海側は古くから海路が発達して、
鎌倉中期以降には、昆布の交易船が
蝦夷地の松前から、日本海を渡って、北陸まで盛んに行き交うようになります。
(太平洋側は波が高く、江戸時代まで航路は開かれていませんでした)。
北陸からは、陸路で京・大阪まで運ばれてました。
この頃から庶民の間でも、昆布が食べられるようになります。

江戸時代になると、
蝦夷地の開発も進み、数多くの昆布が獲れるようになります。
一方、大型化した北前船も登場。
蝦夷地(北海道)松前から日本海の山陰沖を通り、下関をグルっと廻って、直接大阪まで行くという、航路も伸びていきます。
こうして、『天下の台所』と呼ばれる、大阪が
昆布の集積地となり、
昆布の加工業が本格的に発展します。

昆布ロードの航路

この頃、江戸の豪商・河村瑞賢によって、大阪を経由して江戸へ向かう「西廻り航路」が確立されると、昆布をはじめとする海産物が、江戸へも運ばれるようになります。
更に、九州、琉球にまで昆布の流通網は広がっていきます。

これらの総称が現在
昆布ロード」と呼ばれています。

昆布ロードの確立によって、昆布の流通も拡大、消費地も広がっていき、日本の出汁文化の発展に一役買うことになるのです。


(6)関西はなぜ薄味なのか?


「出汁」が普及していくと共に、
関西では「昆布出汁」が、
関東では「鰹出汁」
使われていくようになります。

昆布ロードの完成で、
まず蝦夷地で獲れた上質の昆布は、大阪で売れていき、売れ残った昆布が江戸に運ばれることになります。

上質で高級な昆布が大量に大阪にあったのですが、江戸には少なかった。

また、
関西の水は硬度が低く、昆布から出汁を取るのに適しているのですが、
関東の水は硬度が高く、関西に比べて、昆布の出汁が出にくいとされます。
この水の性質のため、関東では、濃い出汁を取るために、昆布からではなく、鰹節から取った出汁を使うようになったそう。

この、水の硬度(硬水・軟水)の違いが、食べ物の味と食文化にかなり大きな影響を及ぼします。
(この水の話はまたいずれ💧)

そして、じっくり時間をかけて出汁を引く昆布よりも、沸騰した鍋の湯で煮立ててサっと出汁が取れる鰹節の方が、せっかちな江戸っ子の気質にあっていた
という話もあります。

更にこんな話もあります。

その昔、栄華を誇った京都の公家は、
武家社会が進むにつれ次第に有名無実化し、
江戸時代には幕府から保護を受けるようになり
細々と暮らすようになります。
収入もほとんど無く、日々の食糧にも事欠く
貧乏公家』と呼ばれるようになっていったのです。
しかし、お公家さんは気位が高かったため、
地元の産物をわずかな調味料で、豪華に見せて美味しく食べる方法を考案。
また食器や盛り付けにこだわり、薄味で素材の旨さを引き出した
京料理を生み出したのです。

素材の旨味を引き出すのに「昆布出汁」は欠かせない存在でした。

特に、昨今話題の「昆布水」でも良く知られるように昆布は水に浸けておくだけでも十分な旨味が溶け出します。

こうして、出汁の旨味を食材に活かした、薄味の京料理は、関西の食文化に大きな影響を与えます。
商人の町・大阪では、京料理の気品を活かした味を継承し、更に昆布とかつお節の「合わせだし」を使った薄味の文化を楽しむようになります。

京都の公家のプライド ✕ 昆布出汁。
どうやらこれが、関西が薄味になっていった真相ではないかと思われます。

一方、大阪商人が、使用人の大勢の丁稚に食べさせるお米を節約するために、わざと塩分を薄くしてお代わりできないようにした、という話も、もっともらしく伝わっています。

まぁこの話は俗説のようです(;^ω^)

関西の料理は、薄味と言っても、別に塩分が低い訳ではなく、食材の色味や見た目を大切にすることから、「淡い」という意味で「薄い」という言葉を使っているとのことです。



なかなか奥が深い「出汁」の世界。

関西の飯が旨い理由には、こうした理由が隠されていた訳ですね🤔

面白いなあ😽

関西のグルメを食べる際に、頭の片隅にちょっとだけ思い出してもらえると幸いです。

今回も長くなり恐縮です。
最後までお付き合いいただき
ありがとうございました
m(_ _)m

それでは、また😉

(2023年8月8日投稿)

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