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【関西グルメ考】 #4 〜 お好み焼きの歴史編(後編) 

「お好み焼き」はいつからあるのか?


関西グルメの筆頭といえば
「お好み焼き」!

前回に続き、「お好み焼き」の歴史を
書いていきます。
前編の戦前までの話は、いわば
お好み焼きの前日譚プリクエル

後編が、ホンマの「お好み焼きの話」となります😅


▶ 戦後


(1)洋食焼き


日本をドン底に突き落とした「第二次世界大戦」。
昭和20年(1945年)から本格的に開始された
日本本土空襲では、アメリカ軍による
無差別爆撃攻撃に日本各地が見舞われ、
空襲の死者数は、民間人だけで41万人にも
及んだとされています。

原爆が投下された広島の14万人を筆頭に、
東京10万人、長崎7万人、大阪でも1万人以上の
人々が犠牲になりました。

終戦後、焼け野原となった各地で、
焼け出された人々は、生きるために動き始めます。

食糧や物資が不足する中、
焼け跡には「闇市」が出現。
農村や漁村で仕入れた食糧やアメリカ軍から
横流しされた物資など、
様々なものが闇値で売られ、
人々の生活を根底で支えたとされます。

しかしながら、食糧不足は深刻であり、
人々の関心は常に「食べること」に
向けられていました。

昭和21年(1946年)、
アメリカ軍(GHQ)が保有する米や小麦粉が放出、
また小麦や小麦粉などがアメリカから輸入され始めます。

このアメリカから放出された
小麦粉を使って作られたのが、
昭和の初めに子どものおやつだった
一銭洋食」。

小麦粉を水で溶き、鉄板で焼きます。
鉄板は焼け跡の工場跡地にあったものを
使いました。
具材は、比較的安価で、年中手に入りやすい、
キャベツやクズ野菜が使われました。
細かく刻んだキャベツで量を増して、
空腹感を満たしたのです。

こうして
主食の米が不足していた代わりに、
粉モン」が広まっていきます。

おやつの「一銭洋食」ではなく、
米の代用食の「洋食焼き」となり、
これが、大阪でのお好み焼き文化の幕開け
となります。

因みに、
お好み焼きは、コテを使って
鉄板から直接食べるのが
“通”だと言われますが、
これも元々は、戦後の何もない時代に
皿や箸を使わなくても済むように生まれた
習慣だそうです。


(2)メリケン粉の話


戦後、アメリカから日本に対して行われた
食糧支援は大きく分けて二種類あるようです。

一つが
アメリカ在住の日系人・浅野七之助氏の尽力で実現した「ララ物資」。

アメリカの『ララ(Licensed Agencies for Relief in Asia)/アジア救援公認団体』という団体から、1946年〜1952年まで、当時の価格で400億円もの物資(食料品、衣料品、医薬品、学用品など)が届けられました。

当時の日本人には知らされていませんでしたが、
実はこの「ララ物資」は、
アメリカに移民した日系人たちが、
戦後の貧しい生活の中、寄付を集めて、
祖国日本のために送ったものでした。

戦後の給食も、この「ララ物資」のおかげで始まったとされます。

一方、日本国内の食糧不足は逼迫していて
「一千万人餓死説」が囁かれていました。

当時の食糧事情の悪化は、日本だけではなく
ヨーロッパは小麦が不作で、
中国やインドでは飢餓が発生する地域があるなど
世界的に深刻な問題になっていました。

食糧不足に伴う日本国内の治安の悪化は、
GHQとしても見過ごせない問題でもありました。
GHQはデモを禁止する一方で、
大坂を中心に、重点的に小麦などの輸入食糧の
緊急放出を行います。

治安悪化に危機感を抱いていたGHQは
円滑な占領行政を進めるため、
アメリカ本国に対し食糧の輸入を要請。
世界的な食糧不足を背景に、当初は渋っていた
本国政府も、GHQの要請を認め
こうして、大量の小麦が日本に送られます

元々、明治時代にアメリカから輸入された
小麦粉は、
アメリカンの粉、ァメリケンの粉、メリケン粉と
呼ばれる風習はありましたが、
関西では、戦後、
大量に輸入された小麦粉と粉モン文化が結びつき、
メリケン粉」が定着していったのです。

なお、
昔から、うどんや素麺で使われていた
国産の小麦粉は、
うどん粉」と呼ばれていました。

国産のうどん粉は、
昔は石臼を使って挽いていたため、
小麦の表皮や胚芽、
いわゆる小麦のぬかが混じっていて、
少し茶色い色をしていたそう。

これに比べて、アメリカ産の小麦粉は
機械で挽いて、真っ白でしたので、
「うどん粉」と区別する意味で
「メリケン粉」と呼ばれたとされています。

因みに、国産の「うどん粉」に混じっていた表皮や胚芽のことを
「ふすま」と呼びます。

この「ふすま」を、漢字で書くと、
』。

あの、ラーメンの具材などでもよく使われる「麩」と同じです。

そして、千利休が好んだお菓子が
麩の焼き」。

何だか、別々の話に見えた「お好み焼き」の歴史のパーツが、どんどん、一つの線で繋がっていきますねw


(3)関西風の「混ぜ焼き」と広島風の「重ね焼き」


戦後、「洋食焼き」として広まっていった「お好み焼き」のルーツ。

現在のお好み焼きは
関西風」のお好み焼きと
広島風」のお好み焼きに
大きく分かれていますが、
道民のオジロワシには、その違いがあまりよく分かっておりません💦

中には、焼きそばが入っているのが広島風で、
入っていないのが関西風だと思っている人もいます。

関西風と広島風の大きな違いは「焼き方」。

関西風は、
生地と具材を最初に混ぜてから焼く
混ぜ焼き」が主流。

また、生地は水分が少なめでドロっとしています。
キャベツはザク切り。
ソースは辛口が主流です。

大坂風お好み焼き


広島風
最初に鉄板の上に、生地を薄くクレープ上に伸ばして焼き、その上に具材を重ねて焼く
重ね焼き」が主流です。

また、生地は水分が多めでサラっとしています。
キャベツは千切り。
ソースは甘口が主流です。

広島風お好み焼き

なお、広島風には
焼きそばも一緒に焼くのが定番ですが、
関西風で
焼きそば入りのお好み焼きは
モダン焼き
と呼んでいます。

「モダン焼き」については、以前の記事も参考にしてください 
  ↓
お好み焼きの種類について


(4)お好み焼きの登場

戦後、大阪では
お好み焼き屋が次々と開業していきます。

メリケン粉など、食材が手に入れやすかったことや
鉄板一枚で調理ができる
徴兵されて男性が不在の中、
女性が一人でも店を切り盛りしやすい
などが要因だったそう。

但し、この頃の「洋食焼き」は
メリケン粉とキャベツ、余った食材をまとめて焼く、細々としたもの。
やはり
主食の「米」に敵うものではありませんでした。

大阪の人が『お好み焼きをご飯のおかずとして食べる』というのも、
案外、この辺りが源流なのかもしれませんねね。

さて、
復興も年々進み、食糧事情が何とか改善していくと
「洋食焼き」の具材もどんどんバージョンアップしていきます。

出汁を入れた生地に、
キャベツに加え、イカやタコなどの海鮮、
豚肉、牛すじ肉、天かす、卵など
豊富な具材を入れて焼いていきます。

これらの具材をあらかじめ混ぜ合わせる
「混ぜ焼き」のスタイルが一般化したのも
昭和30年(1955年)以降だったらしい。
それまでは「洋食焼き」に代表される重ねて焼くスタイルだったのが
「混ぜ焼き」に変わっていったそうです。

こうして、
昭和30年(1955年)以降
我々がよく知る「お好み焼き」が世に広まっていき
圧倒的な支持を得ることになります。

また、
大阪人ではないので、聞き伝えになりますが
自分で焼きたいというお客さんの手を汚さないように、具材と生地を最初から混ぜて提供するようになったというのが、「混ぜ焼き」の発祥のようです。

このスタイルが定着して、お好み焼きを家庭でも食べるようになり
「混ぜ焼き」が広がっていったと思われます。

「混ぜ焼き」は、焼きやすいので
お店や家庭でも自分で焼くのに、適してますね。

しかしながら、
関西ではお店でお好み焼きを食べる場合、
お店の人に焼いてもらうのがスタンダードらしい。

お好み焼きをひっくり返すとき、いつも失敗しがちで、手先が不器用なオジロワシは、いつも遠慮がちにお店の人に「焼いてもらってもいいですか?」なんて聞いていたのですが、焼いてもらうのが当然とは実に嬉しい情報です😅


(5)お好み焼きの名称はいつからあるのか?


「お好み焼き」という名称は
諸説あるものの
どうやら戦前の東京が発祥らしい。
関西や広島が発祥ではないようです。

元々は東京の花街で、旦那衆などが
座敷の奥にある鉄板で、
子どものおやつであった「どんどん焼き」を
風流な遊びとして、自分たちで焼いて食べる
“大人の料理”に格上げさせたのが
お好み焼き」だったそう。

自分の「好み」で自由に焼く
ことから誕生したらしいのですが
詳しくはわかりません。

また、昭和の初めには
銀座の裏通りにあるお好み焼き屋さんが
男女の密会場所として使われていたという
艶っぽい話も残っています。

この頃から
「お好み焼き」という名称が誕生したのではないか
と、推測されます。

好きな女性と2人でしっとり、酒を飲みながら、
好きな具材を焼きながら食べる…🍶
そんな大人の情景がすぐに思い浮かんでしまいます
(//∇//)。
うん、
「お好み焼き」って、実に好ましい名前かもしれないな😽

なお
現存する最も古いお好み焼き屋さんは
神戸にある「みずはら」で、
昭和8年(1933年)創業。
東京浅草の「風流お好み焼 染太郎」は
昭和13年(1938年)創業ですが
Wikipediaではこちらが日本最古と紹介されています
(昭和12年説もあり)。

昭和12年(1937年)ごろ、
東京で流行した「お好み焼き」スタイルを取り入れたのが、
大阪の北新地の近くで開業した
以登屋」。
戦前、船場の旦那衆や花柳界の粋人、芸者を対象とした高級店で、こちらも、大人の遊び場として活用されたと言います。

この頃には、お客さんが焼きやすいように
生地と具材を混ぜて提供していたそうですが
いつの間にか、これが大阪で定着したことから
混ぜ焼きが「関西風」として定着したという話も見つかりました。

となると、
戦争を挟んで一度は無くなったこの
「お好み焼き」と「混ぜ焼き」が
終戦後に、庶民の味として復活した
ということなのかもしれません。


(5)やっぱり大阪は「粉モン文化」の街でした


「粉モン」「粉モン文化」というワードは、
昔から関西に根差していたという印象でしたが、
実は意外に新しいということがわかりました。

元々は、1980年代に吉本の芸人さんが
大阪は粉モンでっせ
とテレビで言ったことが最初だったそう。

粉モンを調べてみると、下記の様にありました。

「粉モン」は
粉物・たこ焼きやお好み焼きなど、小麦粉を主原料とした料理の総称。
小麦粉を水でといた生地を焼いたものを主に指すが、
広義には、うどんやそば、団子や餅、餃子、ケーキなども含まれる。

(引用:weblio辞書)

大阪には
2003年に、「日本コナモン協会」も設立され、
粉モン文化の普及と継承を目的とした活動をされているそう。

公式HP ⬇️


協会設立から今年(2023年)でちょうど20年。
以来、メディアでも「粉モン」「粉モン文化」というワードが使われるようになり
この20年で、大阪が粉モン文化の中心地と言う印象が一気に広まっていったそうです。

「粉モン」は元々、「粉もの」、「ねもの」から来ていて、「粉モン」は、愛称みたいなモノのようです(クマモンみたいな?)

ねるといえば、手捏てごねハンバーグやつくね(つくね)など、我々の身の周りには様々なねる食べ物がありますが、小麦粉に水を加えて、手でねることで、「グルテン」が発生して、食べ物に旨味を加えてくれます。
うどんにしろ、パンにしろ、ピザやパスタにしろ。
粉をねるから、ねモノ、転じて「なモン」になっていったのかもしれません。

なるほど。知りませんでした🤓
「お好み焼き」は
意外に新しい食べ物だったんですね💦

こうして、
奈良時代の「煎餅(センビン)」に始まった
「お好み焼き」は
安土桃山時代の「の焼き
江戸時代の「助惣すけそう焼き」を経て
明治以降の
もんじゃ焼き
どんどん焼き
一銭洋食
と変化していき、
戦後になって、
洋食焼き」、
お好み焼き
へと進化していった訳です。


簡単に書くつもりが随分と長くなりました。
でも、奥が深いですね🤔

あ~、書いているだけで「お好み焼き」が食べたくなってきました🤤
やはり、大阪の「お好み焼き」は旨かった😋

最後までお読みいただきありがとうございました
m(_ _)m


■次回予告

次回は、大阪の「粉モン文化」第2弾
「たこ焼き」の話をお送りします😺

それでは、また 🦅

つづきはコチラ
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