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白紙のノートとイソップ 童話

最近どうも自己啓発みたいな胡散臭い内容ばかりになっていて、自分でも「こんなはずでは…」と反省している。

人に「こうあるべきだ!」なんて、まるで思わないし、そもそも自分自身全く成功者でもない。

人に自慢できる事と言えば、手の指の関節が異様に柔らかい事ぐらいだ。ごめん。

だけど今日もなんか啓発くさい内容になりそう。

明日は心霊の話を書くから許して欲しい。


さて。イソップ 童話って誰しもが一つや二つ知ってると思う。「ウサギと亀」とか「アリとキリギリス」「北風と太陽」などなど。

たまにウサギとカメの後日談みたいな話も見聞きするが、それらは近代作られた後付けの話。

そもそもイソップ 童話は2600年以上前に作られた話なので、後から後日談などが出てくるはずも無い。
当のイソップ 氏自体、何処の生まれなのかすらわからないのだから。

ただ恐らく事実としてイソップ 氏は奴隷だったみたいで、そこから寓話の面白さや話術の巧みさを買われて奴隷身分から解放され、各地を転々として寓話を読み聞かせる事を生業としたようだ。

また生業の一つとして弁論師や講和師に「深イイ話」として寓話を提供していたともあった。

それらがイエズス会の宣教師たちと共に日本に持ち込まれて書籍化されたのが1624年。「伊曽保物語」として広まる事となる。

ここで考えたいのが、なぜイエズス会はイソップ 童話を持ち込んだのか?という事。

もっと言うとなぜ徳川幕府がそれをヨシ!としたのか。

私がイエズス会の宣教師なら、幕府にこう提案する。

「宣教を赦していただけるのなら、民衆に向けて"コツコツ働き真面目に納税する事"を美化した話を一緒に広めるつもりです。」

その後、江戸幕府260年で最も読まれた書籍が伊曽保物語と言われているのだから、いかにイソップ 物語がシビリアンコントロールとして機能したのかは想像に難く無い。

奴隷だったイソップ は、どうすれば従順で真面目な奴隷を作れるのかを熟知していたと言う事だ。

イソップ 童話の本質はそこにあると思う。

今回の話は、イソップ の話がしたいわけではない。

「物事の本質は何処にあるのか必死に見極めたい」

と言う事だ。

誰しもが人生で必ず一度くらいは「自分は何のために生まれてきたのか?」と考えたことがあるだろう。

自分の本質とはなにか?生きる意味とは?と。

私がジリジリと何十年もかけて導き出した人間の本質(生きる意味)とは「何も無い」だ。

生まれてきた理由などない

精子と卵子が結合し、誕生した生命であり、本能が子孫を残そうとして行動させる生き物でしかない。

人生とは白紙のノートだ。

ただ人間には思考力が与えられた。なぜなのか?

日々苦しんだり、悲しんだり、忘れられない記憶を持たざるを得なかったり。何だこの機能は。

これは「白紙のノートに書き込むための能力」だ。

ただ生まれてきただけの白紙のノートに、書き込んで物語を作る能力と哺乳類の中でトップクラスの余命が与えられてる理由はそれしかない。

生まれてきた意味はないが、死ぬまでの期間に物語を書く猶予と能力を与えられてるという事だ。

「私は何のために生きてるの?」

「なんのためなのか」は自分が創作するしかない。

生まれてきた意味は、全て後付けで自分が作るものなのだ。

自己啓発くさくて本当ごめんだけど、私はガチでそう思ってる。

生まれてきた意味はないが、生きた意味を作れるのは自分自身なのだと思う。

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