お金とゴミと気持ちの行方
行楽シーズンとして一年で最も気候がよいゴールデンウィークも本日で最終日。
楽しい思い出が増えた人もいれば、人生の無常を感じた人もおいでの事だろう。
ひどい円安の影響で国外旅行に行く人がかなり減ったらしいが、そのぶん国内の移動は相当増えたのではなかろうかと感じた。
各地の道路も驚くほど混み合っていて、果てしない渋滞に巻き込まれた方も多いのではないだろうか。
国内に関しては海外からの旅行者が激増している影響から、宿代は軒並み高止まりしており一般的なビジネスホテルでも数年前の1.5倍程度に値上がりしてるように思う。
それでも海外からの旅行者にとっては激安ホテルであるため、経営側としては更に価格を上げたいところだろう。
ただ国内の平均賃金が全然上がっていないスタグフレーションの状態なので、無闇に宿泊費を上げられないというジレンマもあるはずだ。
日銀の金融政策を変えれば円安には歯止めがかかるだろうが、当然のことながら同時に各銀行の金利も連動する。
企業は借り入れをしなくなり設備投資もしなくなる。
住宅金利(変動金利)は上がっていき、恐らくは返済できなくなる債務者が続出するだろう。
そうなると当然景気は悪化する。
はっきり言うと、もはや「詰み」ではないかと私は思っている。
お金に対する理解
私もまだまだ勉強の途上なので理解が十分ではないことを前置きさせていただきたい。
まずお金とは、それ自体は「ケツを拭く紙」にすらならないものというのは間違いない。
何もないコンクリの部屋に監禁されて、目の前に1億円積まれても、何もできないまま数日で人は死に至る。
お金自体は何の役にも立たないという事を理解すべきだろう。
通貨(物々交換チケット)として存在するのがお金なのだが、これは「国が価値を保証しますよ」という大前提で成り立っている。
恐ろしい話だが国が滅べば価値はゼロになる。
何億何十億持っていても、国が滅べばゼロ。
世界中で何故米ドルが取引に使われるのか?というと
「一番滅びない国」「最も武力の高い国」「制海権を持っている国」という信頼感を得ているからだ。
それが危うくなればドルですらゴミになる可能性はある。
美味しいパンはどんな状況でも美味しいパンで有るのに対して、お金は場合によってはゴミになり得る不安定なものだと理解したい。
お金の総量は一定
給与が増えた、資産が増えた、株価が上がった…そういう嬉しい事も皆様にはお有りだろう。
反して流通しているお金の量はほぼ一定である。
流通する総額が青天井に増えれば貨幣価値が下がるから、政府が当然コントロールしている。
という事は「誰かのお金が増えれば誰かのお金は減る」という当たり前のことが日々起こっているのだ。
ホテルの料金が上がりホテル側のお金が増えれば旅行者のお金は減るのと同じ理屈だ。
経済とはお金の移動に過ぎない。
税金というものの本質もそこだ。市場に出回ったお金をコントロールするために税金が徴収されるというのが税の本質だ。
出回りすぎたら増税する。出回らなすぎたら緩和する。
何か目的が最初にあって、そのために税金を徴収します!というのはあくまで建前と言うか「そういう建て付け」になっているだけであって、本質は「バランサー」である。
そうやってお金の総量はコントロールされていると知り、自分のお金が増えた時はどこかで減っているという事を常に覚えていたい。
そして願わくば、足りない人や困っているところへ少しでも還元して欲しい。
ゴミの総量
まず見てほしい。
連休中のとある高速SAのゴミ箱(早朝)。
ほとんどはこのSAで購入されたものではない、別の場所で買ってきたもののゴミだ。
モラル云々の話は抜きにするとして、ゴミも総量が決まっている。
買った店舗でそのゴミを捨てるなら1:1で釣り合いは取れるのだが、買っていない店舗で別の店舗のゴミを捨てられては釣り合いは取れない。
処理費用が嵩んでマイナスだ。
うるさく言うつもりはないが、ゴミを捨てる時はなるべく1:1になるように配慮するのは大人の嗜みだと私は思っている。
よくコンビニでトイレだけ借りて何も買わない人を見かける。トイレ利用もある意味ゴミの廃棄だ。
そしてトイレの利用権は「客」に付与されるものだ。
客とは、そのお店で買い物をする人を指し示すものであり、非購入の場合はトイレの利用権はない。
それは不法投棄と大差ない行為だと知っておくべきだと思う。
気持ちの総量
お金やゴミと違うのは「人の気持ち」だ。
そこには総量という上限はない。
怒りや妬みは幾らでも人を荒ませていくし、優しさや思いやりは人を幾らでも幸せにする。
市場経済やゴミの処理問題は自分ではコントロールできないが、気持ちはコントロールできるはずだ。
完全には無理だろうが少なくとも今よりマシにはできる。
「何したらいいの?」
そういう疑問はあるだろう。目の前に困ってる人がいれば優しさを発揮する機会はあるだろうが、実際目の前でそういう人が存在する機会はそうそう無い。
私はそのことに気がついてから、コンビニのお釣りの端数を毎回レジ横の募金箱に入れている。
かといって数百円とかではなく数十円とかのレベルだ。
なんの募金なのかすら見てないが、何年か続けているから少しは何処かの誰かの役には立てているかも知れない。
それがあるからいまだに私は電子マネーに移行していない。便利なのは百も承知だが、募金できなくなるからだ。
あくまで自己満足でしかないが、必ずいつか人は死ぬ。
その時に「ちょっとは誰かの役に立てたよな」と思っていたいのだ。
人の生き方がどうであれ、私は良くも悪くも思わない。
ただ自分の生き方はやっぱり少しでも良くしたいと思うのである。
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