脚本家問題でのモヤモヤ

2023年末の悲しい話から「脚本家」と言われている人たちが炎上の油を注ぎ続けている。

特定の職業が叩かれていいわけでは断じてないんだけど、どうもそういう綺麗事を言いきれない自分がいて、なんとも言えない気分ではある。

コンテンツ的に言えば原作者様が絶対的に偉いので上下関係としてはそうなんだけど、職業的にはどっちが偉いとかいっちゃいかん、という信念がある。あるんだけど、脚本家の人たちの擁護やら説明やらを見れば見るほど「大変失礼ながら黙ってたら?」としか思えないことばかり。

というわけで、悶々とした日々ではあったものの、先日の里中満智子さんのコメントで腑に落ちた。

手塚治虫に憧れ、認められたってだけで十分に歴史上の人物であり、作品以外でも漫画家の権利向上のために様々な活動を長きに渡り続けてきている人。ドカベンの里中くんの名前の由来でもあるってだけで、キャリアと影響力も想像つくんじゃないだろうか。

その人が今回の騒動に関して「脚本家の方はご自身の好きな原作を見つけて二次創作をすればいいんです」と言っている。

この視点。

原作者からしたら映像化であろうがなんであろうが「二次創作」でしかないので、映像制作の人間であろうと同人誌をコミケに出すサークルと同じでしかない。いくら金になるとか認知度が上がるとか言われても「二次創作が原作者様に大して上から物を申す」なんてことがあっていいわけがないという、当たり前のところにこのコメントで気がついた。

大昔のテレビってのは番組が原作そのものだったので、脚本も脚色もとても大事な仕事であり、その人たちはクリエイティビティを絞り出してコンテンツを明確に「生み出していた」と言える。小説などが原作の頃の演出さんとかも、想像力の塊としか言えない。
ある種の映像化という作業に対する技術職の極みみたいな感じ。

今の時代は原作ありき。それも大体が漫画でそこそこあたったものという時代。絵コンテのベースまで存在するものを映像化。つまり、もの素獄乱暴な極論で言うと誰がやっても同じ。ある程度同じじゃないと困るんだけどね、原作あるんだから。

脚本家の人たちの言う「創造性」とか言う単語って、二次創作者が原作を無視して口にする同じ単語と同じ意味でしかないので、そら世間的には「他人の褌で金稼ぐだけが目的なんだったら黙ってろよ」としかならない
コミケの同人系は原作リスペクトとか過剰な愛情だったりするから、たまには好意的にみられる。それすらない二次創作が世間からどうみられるかってのが、なんとなく炎上の理由なんだろうし自分が抱えてしまった嫌悪感の正体なんだろう。

ここから派生して権利関係で収益も確保していて、利用者も便利な音楽関係との比較まで考えたものの、それはまた別の話でいいかな、と思った

にしても、アニメとかゲームって原作者や出版社のチェック結構な割合で入るんだけど、実写ドラマは違うのか?とは思ったんだけどね。過去やってきた仕事は作者チェック必須だったものばかりなので。

教える立場なのでできる限りはワークショップなどで教えた内容を説明していこうかなと。地方の人やワークショップに事情があって参加できない人たちへのサポートが今後もやっていければと思っています。