どうして絵とか音楽とか本とか映画とか好きなんだろう。今更だけどふと思う。
朝からぼーっと、そういうことを考えるでもなしに考えてみた。
魚やお猿さんから私達が出来上がってきたとしよう。
食べるためにという意識もなく、お腹が空くからというはっきりした理由でもなく、本能で餓えを満たす行動をとっていた頃。
多分その頃にだって、朝日に照らされた草原や、昨日まで水の中から見あげていた揺らめく緑や空の青、漆黒の闇に浮かぶ輝く無数の星々や、逃げていくインパラの後ろ足の筋肉の動きを、当たり前に存在するものとしてではなく、なんだかよくわからないのだけれど「綺麗だなあ」と感じるでもなしに心に響いた事があるんじゃないかと想像すると、その瞬間から私達に「何かの素敵な余分」が誕生したんじゃないかと思う。
なんだか必要ないようで、ちょっとあったらいいなと思うような余分な部分。
絵を描く、詩を書く、意味もないのに綺麗な落ち葉を拾う。
例えば、木を組んだ上に平らな葉っぱなり板なりをのっけたり、山の麓の洞窟を見つけて「あー昨日より雨とか風とか寒さだとか暑さだとかが、なんだか和らいだ感じだ」と、住居の用な物を発見して心地よく感じているだけでも良かったのに「おっと、なんだか洞窟の入り口から差し込む光がとても綺麗」とか「この壁にインパラの姿を写し取ってみよう」とか「眠りにつく時、ふと見上げた位置に夜空が見えたらなんて素敵」とか。
生きるという基本的な事イガイの余白に、ポッカリと満たされない穴があいていて、どうやったら、いやどうやっても余分なナニカを感じとってしまうという現象に、その頃の人もなんだか変な感じねと驚いたのかもしれない。
文明だとか芸術だとか後から人間がつけた言葉が重要なわけじゃなくて、そのポッカリと空いた部分にすっと入り込んできた何か。
多分、今もその頃と何も変わっていない気がする。
「余分な何か」を欲する時、その「余分な何か」の種類が違ったり、満たされない穴の大きさが人それぞれ違うだけで、やっぱり望んでしまうんだと思う。
油断したら後ろから猛獣に襲われたりする世界に住んでいないから、その部分は弱くなってるかもしれないけど、だからこそ生きるという基本的な事イガイの部分が満たされるように過ごしていくんだと思うし、いつも、キョロキョロと何かを見つけていけたらなと思う。
ウルサイくらいに探し続けて、探し続けて。
だから余分なものが好きなんじゃないかなと改めて思った。
絵も音楽も映画も本も。
生きる上で本当に必要なのかと真面目に聞かれたら、きちんと答えられないかもしれない。
「だって、ないと困るんだもの」程度の答えしか言えないかも。
なくてもいいものだけど、なくてはならないもの。そんな余分。
こんな呑気なことを言ってる自分と同じ時間に生きてても、生きることに精一杯でそんな余分なんて考えることも出来ない状況のなか過ごしてる人がいると思うと、ただの偶然だけで生まれた場所に感謝したらいいのか、それともそれはただの奢りで、そんな環境に生きてる人達も「今、心地よい風が吹いたねっ」って笑い会える瞬間があるんだから、心の中の素敵な部分ではむしろお前よりよっぽど心に響いてるんだよって言われるのか、どっちだろう。
音楽や絵や本や映画がなかったら、地球上の半分以上の人達は生きていけないんじゃないんだろうかと勝手に思う。
むっちゃお腹が空いてる時、目の前にあんぱんと本があって、どっちかだけだよって言われたらたらどうしたらいいんだろう。
あんぱんは食べたら「即」なくなっちゃうけど、本は何回でも繰り返し読める。
おまけに下手したらページ破ってちょっとずつ食べれるかも。
「子供の日」かあ、響きがいいよね。
「母の日」も「父の日」もある。
「どれにも当てはまらない人の日」も作って欲しいな。
ちょっと響きがあれか。
楽しいお休みをお過ごしください。
それも「きゃっほう!」って言えるくらいの。
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