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日航123便墜落事故(事件)・第58回〜1982年、航空機整備の専門家が飛行機シンポジウムにて発表した「フライト・レコーダー・システムの解説書」。そこから知り得たこと


全日空整備本部(ほか各部署)に所属していた武政嘉治氏が1982年11月におこなった講演──テーマは航空機のフライト・レコーダ(原文ママ)・システム。文書として世に出たのは123便墜落事故の前年の1984年4月──をまとめたものがネットに上がっている。

1984年4月発行の「日本航空宇宙
学界誌」第32巻第363号に収録

123便のデジタル・フライト・レコーダー(DFDR)を検証するうえで非常に参考になる内容。ボーイング747に搭載のそれについて、あらためて認識するにあたり、「全日空機と日本航空機のフライト・レコーダーは違うもの」などと反論する人はさすがにいないだろう。実際、文面を見てみると、「わが国においては」「各航空会社は」と、全日空と日本航空(当時は東亜国内航空もあったが、747は使われていない)の共通事項として、話が展開されている。

当初、航空機の記録装置全体をエイズと呼んでいた由。ちなみに日本初のエイズ患者の報告は1985年。1985年という年は本当に激動の年だったと言える


「1.はじめに」に始まり、全6章。

あの事故を検証するにあたって、最重要なデータを収めるフライト・レコーダーとボイス・レコーダーだが、法律で装備義務化されたのが、事故の10年前、1975年7月10日だったというのは初めて知った事実。

1971年の、「フライト・レコーダーに無線機の送信状態(on-off)を示すデータが追加」というのは、外部と交信がなされた時間、さらには万が一、機のトラブルにより交信が途絶えた際、その時間が記録されるようになったということか。

(3章以降。つづく)

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