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【目印を見つけるノート】1266. 武蔵なのは白いキジのおかげ

きのう書いた『現代思想』の座談会のコピーは読みました。コミュニケーション方法の提示としても興味深かったです。参考になりました😆

春分と秋分はEquinox Dayと英語でいいますが、昼と夜がイコール(equal)になるからなのですね。初めて知ったとき「等分の日かあ、うまいなあ」と感心した記憶があります。確かに夜は長くなったように感じますし、暑さも引いています。
ひとつの切り替え時ですね。
服か👀‼️

さて、今日はおそらく書くほうにかかりきりになるかなと思うのですが、お出かけしたい気分も……今かかっているのが終わったら、ちょっとだけ遠くに行きましょう。
今月は無理なもよう😅
ライブもね、スマホの都合などでチケットが取れなくて、泣いていたのです。何か足止め(出入り禁止😭?)をくらったようにも思えてしまって。
でもね、そこではくじけません☀️
スマホに振り回されるなんて、イヤだよ~って。まっぴらごめん。
うーんと🤔もし、何かしら足止めをくらっているのだとすれば、それは「自分がするべきことをしなさい」ということかなと思いました。
なので、広いフィールドをゆっくり見渡して、自分のできることをどんどんしていこうかなって、そんな感じの秋の初めです。
また、ライブに行くぞお😆✨

久々のホットコーヒー、呪術廻戦のコラボでした。

さて、
武蔵野ばなしも少し間が空いてしまいました。
え、何の話?

ある日、
夕暮れの二子玉川(正確には世田谷区鎌田)辺りをフラフラしていたら野川に出くわしたのです。
「え、野川? 野川って調布とかあっちの方の川じゃなかったっけ。ここまで来ているんだ」と驚いたのです。

調べると確かに、野川は国分寺から発して私がいたちょっと先で多摩川と合流するのです。

私にとって野川のイメージは「武蔵野」でした。そこでふと、「武蔵野ってどこからどこまでなのだろう」と思ったのです。そこからいくつか実地見聞(検分ではない)をしてnoteに起こしました。
夕暮れ野川は武蔵野の果て?|尾方佐羽 #note

「多摩川だって、源流の水干(みずひ)は山梨の山中でしょ」と言ってしまえばそうなのですが、野川が武蔵野の川だとするなら、世田谷は武蔵野の果てなのかなと思ったのです。
調べてみると、武蔵野の範囲ってとても広い。たぶん、私たちがそうだと思っているより広い。
そんなことを、水と自然を見ながら考えようと思ったのです。
まだまだ続きそうです😊

広域に江戸一帯を紹介している有名な書物に『江戸名所図会』がありますが、その始めには「武蔵」という項目が来ます。続いて「江戸」、そこを前提としてはっきり定義しているのです。
それは見なきゃね😉
(写さなきゃね😭)

武蔵
東海道に属す。『和名類聚抄』[源順、一〇世紀]に曰く、「牟佐之の国府、多磨郡にあり」と云々(武蔵国、上古は東山道のうちに入る。光仁天皇の宝亀二年辛亥[七七一]冬十月己卯、太政官奏して東海道に属せしむるよし、『続日本紀』[七九七]に見えたり)。久良・都筑・多磨・橘樹・荏原・豊島・足立・新座・入間・高麗・比企・横見・埼玉・大里・男衾・幡羅・榛沢・那珂・児玉・賀美・秩父・葛飾等、以上二十二郡なり(『拾芥抄』[洞院公賢、一三四一]に、大県・東海・那珂等の三郡を加え、葛飾を除きて二十四郡とすれども詳らかならず。貞享三年丙寅[一六八六]三月、利根川の西を割りて、武蔵国に属せしむ。昔は本所・葛西の辺、浅草の川を国界として、川より東の地は、一円に下総の国なりしを、右にいうごとく、いまは葛飾郡の半ばを割りて、利根川のもって西を武蔵国の葛飾郡とす。『和名抄』[『和名類聚抄』]に武蔵国管二十一とありて、葛飾郡なし。いま、これを加えて二十二郡とす。『和名抄』葛飾を加止志加と訓ず。同書に多磨も、多波と訓じたり)。
『古事記』牟邪志に作る。『旧事記』、胸刺に作る(『万葉集』に牟射志に作る)。同じく、むさしと称す。その義は、『風土記抄』にいう、「武蔵の国、秩父の嵩は、その勢い勇者の怒り立てるがごとし。日本武尊、この山に東夷征伐の祈願をこめたまひ、その後東夷ことごとく平治せしかば、その武器を秩父岩倉山に納めたまう。よりて、この国をむさしと称せしとなり。その後、称徳天皇の神護景雲二年[七六八]、武蔵の国より白雉を献じけるが、公卿の奏せし言に、『武をおさめ文を崇ぶの祥なり』という。よりて、この国を、武蔵の字をもって、嘉名となしたまう」という(『続日本紀』「称徳紀」にいわく、「神護景雲二年六月癸巳云々、武蔵国橘樹郡の人飛鳥部吉志五百国、同国久良郡にて白雉を獲て献ず。すなわち郡郷に下し、これを議せしむ。奏していわく、雉はこれ良臣一心忠貞の応。白色はすなわち聖朝重光照臨の符。国武蔵と号することは、すでに武をおさめ文を崇ぶの祥を呈す」とあるは、もと牟邪志の三字を、好き字に改め、二字に定め、武蔵と書きて、志の文字を略かれしより、この白雉の瑞につきて、武蔵の二字を祝して奏したる詞より、いまの名になれるとなり)。
 東照宮様[徳川家康、一五四二―一六一六]当国に大城をしめ、鴻業の基を闢きたまいしより、四海ついに干戈[戦争]の労を忘れ、万人長えに太平の浴するは、すなわちこれ天意のしからしむるところにして、国の号もおのずから昇平の御代に応じたるなるべし。
『家集』(『人磨集』)
 物名 むさし
枝折りせむさして尋ねよあし引の山の遠にてあとはとどめつ
          柿本人丸
『新訂 江戸名所図会Ⅰ』市古夏生・鈴木建一校訂 ちくま学芸文庫より引用
※旧かな遣いを直しました。
※読み仮名は入れませんでした
※一部漢字をひらがなにしています

うわあああ😱😱😱枝ではなくて骨が、骨が折れるう😭写すのたいへん。
カキノモトノヒトマロさんですよね、ヒトマルさん、この話の流れで川柳には行かないでしょう😔(通称でした)
こちらを見ると、いくつかの発見があります。多少ね、大きく書いている傾向はありますが、「武蔵」という名前の始まりが分かります。初めはちょっと、「えー😨」という宛て字だったのが、白い雉のおかげでいい漢字になったことも。キジのおかげだ👀‼️

白いキジは吉兆と呼ばれ、いまでも少ないながら見られます。
朝日新聞の雉、じゃなくて記事😆

東京都の鳥、キジにしたらよかったのに……とも。ああ、秩父からですので、武蔵の鳥の方がいいですね😉

葛飾の区切りが縷々変わっているのも興味深いですね。私も市川真間とか国府台とか、武蔵野の香りを感じます。

ということで、白いキジに敬意を表して今回はまとめつつ、またマガジンに足しておきます。

さて、近々のことですが、
私のnoteに通しでビューが入っていました。通しと一言でいえば簡単ですが、1200なんぼあるものの3分の2ほどにお越しいただいているようです。スワイプ、タップ、クリックするだけでもたいへんな労力です。書いた本人も今さらする気には到底なれません。
秋の夜長もまだですのに、
それだけのお手間を取って下さって、本当にありがとうございます。
この場を借りてお礼申し上げます。

それでは今日の曲です。
へこんだときはこれで。

Bob Marley and The Weilers『No Woman No Cry』

頑張れ、頑張れという曲もいいなと思うのですが、この曲はとても素敵で、聞いているうちにガチガチになっていたものが、心から剥がれおちていくようです。
「だめ、泣かないで」(意訳)と女性に呼びかける人は、とても辛いことがあったのを分かっていて、それを自分も分かち合っていて、その上で「すべてよくなるさ」と歌います。ゆっくりしたリズムで効果倍増。
それが、泣けちゃうんですよね😢
好きです。この曲。

それでは、お読み下さってありがとうございます。

尾方佐羽

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