共に、耕す。(2024/05/18)
今日は午前は薬剤散布。カルシウム剤という葉っぱにかける肥料的なものを連続して散布する時期に入った。真っ白いやつなのでお気に入りのウェアが粉を吹いたように白くなるのでちょっとげんなりする。最近根っこばかりに気を取られていたけど、当然りんごの木にとって葉っぱから吸収されるものどもも大切な働きをするから駄駄を捏ねても仕方がない。
午後は苗木を植えるために植栽間隔を測りながらスコップで穴を掘る。土壌の表面に生えている芝生のような草にスコップの先がなかなか入っていかないので、えいやと力を込めてスコップを足で押し込む。ぐるっと円を描くようにその作業を繰り返すと、丸い芝生がくりぬける。ひっくり返すと細かい根がびっしりと伸びていて、ふかふかで気持ちよさそうだった。思ったより時間もかからず疲労もなく終えられてほっと一息。
たくましくなったな、おれたち。
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妻と一緒にやっている会社で今、クラウドファンディングに挑戦している。「RINGO JAMな畑」という名前の「コファーム型りんご園」という取り組みを始めるための資金を集めるために、なんというか、慣れないことをしているなぁとも思うけど、ここまでよくがんばってきたと思う。特には妻は、ほとんど毎日活動報告を書いていて、本当にえらいと思う。
クラファンという華々しいシステムのイメージに引きずられ、目標設定額になかなか近づいていかないことにジリジリしていたけど、考えてみると自分たちでもこのプロジェクトがこの先どう展開していくのかよくわかっていないし、それでも、支援してくださる方が少しずつ、ひとり、またひとり、と増えていくことの方が、目標額が集まるかどうかよりもずっと嬉しいことだった。
不安で、自信を失いそうになっていたけど、自分たちがこのプロジェクトに感じていた底の知れない可能性の存在は、きっとあるんだと、思えるようになってきた。
このプロジェクトのキーワードとしている「共に耕し、拓く」は妻が考えた。どう思う?と相談も受けたし、うんうんうなって考えて彼女が決めたこのコピーが好きで、個人的にとても気に入っている。
「耕す」というのはもともとうちの会社の理念的なところに置いている「りんごとカルチベートする」から来ていて、これももともとは太宰治の「正義と微笑」という作品から妻が「カルチベート」という言葉を見つけてきたのが始まりだった(彼女のそういう嗅覚の鋭さにはいつも感心してしまう)。
この作品の中で太宰は主人公が通う学校の英語教師にこんなことを言わせている。
まだ全部をちゃんと読めていないので、全体を読むとまた印象が変わってくるかもしれないけど、太宰のこの「カルチベート」という言葉に、りんごを始めたばかりの数年前の僕たちは、何か大切なことにふれたような感覚を覚えたのだと思う。その時からずっと、耕すということ、耕されるということを、ぼんやり考え続け、数年の時間を経てぽっと出てきた、共に耕す、という言葉は、僕たちが少しずつ前に時間を進めてきたことの証でもあり、その一方で、まだ見ぬその先を指し示すような道標でもあって、なんだか不思議な響きを帯びている。
耕す、ということ自体がもう、共に、を含んでいるような気がするし、それを言ってしまうと、共に、ということ自体にすら、耕す、がよぎっているような気もする。
何なのだろうな、と思う。
共に、耕す、ということ。
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