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五所川原。(2024/05/16)

昨日は午前は畑で剪定、午後は電車で五所川原に行った。五能線に乗るのは久しぶりで、川部駅での方向転換した後、あれ今どこ走ってるんだっけ、といつも戸惑う。それもまたおもしろいし、車窓から流れていく景色はそれがどこを走っている電車から見たものだとしても好きだ。1週間くらい休みが取れることがあったら、ずっと電車に乗って移動したい。

久しぶりの五所川原駅はなんだかとても懐かしかった。五所川原の街自体、まとまった時間をとって歩いたこともないから、弘前との違いが町並みの所々から匂い立ってくるようで新鮮だったけど、でもやっぱり懐かしいなぁという思いもどこかにあって、5月とは思えない強い日差しから逃れて建物の影を妻といっしょにくぐるように歩いていると、4月から続いていた忙しなさが少しずつ溶けていくようだった。

1時間ばかり散策した後、法永寺に行って、藤田まり先生の精進料理のお話を拝聴した。とてもおもしろく聴いて、言葉にしたいと思ってでもできずにいたことがむくむくと動き出すような、そんな時間だった。楽しそうに妻が「ぜったい来るよ(笑)」と言っていて心の準備はしていたので、質疑応答の時間に小山田さんからふられた時もちゃんとしゃべれてよかった。先生もりんごの精進料理での使い方を教えてくださって、りんごの世界がまたひとつ広がった。いやしかし、無花果の田楽、気になるなぁ。

講演後にぎんなん文庫の絵本を見ていたら、小山田さんがささっと別な絵本を持ってきてくれて、あぁ、小山田さんだなぁ、と妻といっしょにくすくす笑った。いろいろな方がいらしていて、でも少しずつみなさんはお帰りになって、お寺は段々静かになっていった。シーンと静まっている広間に、妻と二人でいて、大きな窓から見える白い藤の花や、その枝に留まりに来ては花を揺らして飛び去っていく名前も知らない鳥の姿を見ていた。そういう時間の過ごし方を久しぶりにした。思い出しながら書いていたら、なんだか泣きそうになる。

その後、小山田さんに五所川原の居酒屋さんに連れて行ってもらい、おいしいものをたくさん食べて、たくさん飲んで、たくさん話して、笑って、うーんとうなった。こういう時間も本当に久しぶりだった。4月はいろいろなことがあって、会社も畑のことも当面は二人でやっていくと決めて、毎日毎日、汗を流して頭を絞って働いた。自分の中の卑しい自分とも、膝を突き合わせてずいぶん話し合った。しんどい状況はすぐには変わらないし、もしかするとずっと変わらない、なんてこともあり得るかもしれないけど、それでもその日その日をちゃんとやろう、今は本当にそれしかない、と思ってこの1ヶ月やってきた。辛いばかりじゃなくて、今まで感じたことのなかった達成感充実感もあった。いろいろな人たちが何気なくかけてくれた一言一言が、いちいち沁みた。生きてるなぁ、おれ、と思った。

あぁでも、なんだかんだ言っておれも人で、寂しかったんだと思う。理解されない、わかってもらえない、伝わっていない伝わらない、そういうことが寂しくて、そういうことを感じてしまう自分が寂しかった。おれの言葉はいったい誰に、何に、届くのだろうと、思って、ずっと寂しかった。自分のやっていることに意味はあるのか、それを意味として受け取ってくれる人はいるのか、いなかったらやる意味はないのか、自分だけわかっていればいいという意味はあるのか。そんなことをずっとぐるぐるぐるぐる、考えていた。

昨日の時間で、そういうのは全部、どこかに溶けてしまったみたいだった。

またぶり返すかもしれないけど、その時はその時でその時に。

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