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あの日。(2024/03/13)

わからない、わからない。
ずっとわからないままだった。
今でもわからないし、あの日がこれからも訪れ続ける限り、このわからないはたぶんずっとあるし、すぐそこにいる。

でも、13回目の3月11日を迎えた時に感じたのは、13年経ってようやく自分は、あの日に釘打ちされた、ということだったと思う。


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先週、包丁で指を切った。

妻といっしょに津軽あかつきの会に行って、ゼンマイを切っていたら左手の親指の先を包丁で切ってしまった。なんで猫の手にしてなかったんだろう、完全に油断してた。けっこう血が出てきてあたふたしていたら、会員の方が絆創膏と軟膏で応急処理をしてくれた。これも勉強だいね、と言われて、ほんとだなぁと思いながらも、左手の親指の先はジンジンしていた。

妻にちょっと外で空気吸ってきたらと言われたので、外に出てぼーっとする。一息ついて、とりあえず洗い物とか自分ができることをする。

リョウコさんが途中顔を見せてくださって、妻といっしょに居間にお邪魔し、お茶とお菓子をいただきながら三人でお話する。校正の段階で目は通していただいていたけど、完成したインタビューの原稿を渡しそびれていたので、お渡しする。大変だったでしょと笑いかけてくださって、それだけで報われた気持ちになる。リョウコさんからも、ある方が書き残していた石川地区の歴史の冊子をいただいた。南部藩と津軽藩に引き裂かれた土地、石川の歴史。滅ぼされた側の南部藩の記録はほとんどなにも残っていないという。歴史ってそういうもんだいね、という言葉がずっと自分の中に残っている。

あかつきのご飯はいつもおいしい。今回のお昼のまかないもたくさん食べてしまう。ごはんもおかわりしてしまう。とてもおいしかったし、おかあさんたちの会話を聞いていると心地いい。

午後用事があったので、お昼ご飯を食い逃げするかたちでお暇する。

その前に病院に寄って、切った左手の親指の処置をしてもらう。新しい皮膚の生成を促すパッドを貼られて包帯でぐるぐる巻きにされて、1週間後にまた来るように、と言われる。

ORANDOで打ち合わせをして、そのまま仕事をする。でも左手の親指がうずいて、キーボード打てるだろうか、満足に打てなかったら仕事できないしおれっている意味あるのか、なんてまた血迷ったことを考える。でも意外とキーボードは打てたし、偶然居合わせた友達に指を切った話をおもしろおかしく話していたら、なんとなく気が晴れる。不思議。


先週、WORKSHOP VO!!の悼む日に行った。

会場のGALLERY DENEGAに行くのも数年ぶりくらいで、あれ、こんな作りだったっけ、と不思議な気持ちになる。

白いレゴブロックを積んだり、ノートに書いたり、ストーブの近くで会場全体をぼーっと眺めていた。ぼーっとして、自分をからにしたかった。

見ている間は、じりじりとした時間だった。わいてきそうになるいろんな考えや思いを抑え込んだ。映像や音声にすべてを預けたかった。

預けた先で、この作品が自分の奥に刻み込む何か、その何かが刻み込まれる瞬間、感触を、見届けたかった。

急に町内会の会議が同じ日に入ってしまって、上映後泣く泣く会場をあとにする。来年は同じ日にぜったいほかの予定を入れない、入れられそうになってもぜったい逃げてやると固く誓う。


先週から今週にかけて、包丁で指を切ってから、ちょっと先の方を切っただけなのに、生活がままならなくなった自分が情けないという感じが、ぜんぜん抜けなかった。

患部を濡らしてはいけない、手袋して無理になんかしようとしても逆に蒸れて良くないですよ、と病院で言われたので、いつもやっていた家事のほとんどができなくなった。妻にも、ちょっと休めばいいよ、いつもとちがう感じで見えてくることとかもあるんじゃない?、と言われ、たしかにこんな機会そうそうないし、と自分でも思ったので、家事をひとりでこなす妻の背中を見たり見なかったりしながら、台所でぼーっとしてみた。

でも、ぜんぜん落ち着かなかった。掃除ができない洗濯もできない、皿洗いもできない、ごはんはもちろん作れない。おれ、いる意味あるのか、と思った。冗談8割、本気2割ぐらいでそう思った。あたまでは、できるできないとかでなく、いること、ただそこにいることの方が大事なんだ、と散々思っているのに、実生活で、したいのにできない、したいのにできないのにいる、いることしかできない自分を感じたら、途端に後ろめたくなって、何なんだおれは、となる。

毎週楽しみにしているアニメや大河ドラマを見ても、たのしいけれど、気が散って見れていない感じがあった。

この1週間、たくさんため息をついた。

でも、そういうことばかりでも当然なくて、いまこの状態にあるからできることやれることも、けっこうがんばってやった。会社の経理やら溜まっていた書類の整理分類やら、今月の予定をひととおり整理してスケジュールを考えてみるとか、サボっていたストレッチとか瞑想の習慣とか、英語の勉強をしてみるとか。いろんなひとにたくさんありがとうと言うとか。

明日で一週間経つので、患部を見てもらいに病院に行く。もうあまりジンジンしないので、たぶん、新しい皮膚ができていると思う。そこから伝わってくる感触もちゃんとある。1週間、患部を濡らさないようにがんばった。おれ、えらい。恐る恐る包帯を嗅ぐと、なんとも言えない匂いがする。あぁこれこれ、と変に癖になって、折にふれて包帯の匂いを嗅いでいる。

「え、嗅いでる」と妻が怪訝そうに言うが、気にしないこととする。


***


昨夜、先日の悼む日の感想シェア会で。

言葉にするのが難しくて、終始考え込んでしまう。

促してもらいながら、なんとか言葉にしてみるものの、なにも言えていないような、そんな感覚を覚える。

なにも言わないわけにはいかないし、むしろ、みなさんの言葉を聞きながら、作品のことを思い出しながら、なにか言いたい、言わなきゃいけない、と気持ちはけっこう前のめりで、でも、言葉になりかけたものをいざ口にすると、ちがう、そうじゃない、この言葉じゃない、でも、では、どんな、どんな言葉がある?、となって、終わるまで延々と、そういうめぐりの中にいた。

前回書いた対話の森のために最初に書いた原稿、結局ボツにした原稿の中で、人間にとっての生と死はいったい何なんだろうと考えた。

普段りんごの木と付き合っていると、植物にとって生と死は分離していなくてそれらが循環しているからこそ、生と死はそれぞれに色付けができると感じる。植物の生態的に、生と死を二分して把握しそれぞれを別個の一つのものとして考えることは極端な話、無意味であるように思う。

世界や歴史という視点に立つと、人間の生き死にについても、同じように考えることはできないことではない。人が生きたり死んだりして今日の今日まで連綿と続いてきた世界、あるいは歴史。

でもどうして我々は人間なのか。

人間と呼ばれるのか、呼ぶのか。この世界にあって人間を特権的な地位に縛り付けているもの、人間は特権的であると思い込みたい我々が無様にしがみついているところのものは、いったい何なのか。

そういう問いの中で、ハンナ・アレントの二つの本が出てきた。
『人間の条件』と『全体主義の起源』。

『条件』で彼女は、人間は世界に始まりを持ち込む存在だと言う。それまでの世界になかったものが、あるひとりの人間が生まれることで、そこに真新しい可能性が付け加えられるのだと言う。どうしてかというと、人間として生まれることは、現にここにおいてもう既にだれかである、ということだからだ。そしてその「だれか」、わたしは何者であるのか、は、他者やそして私にとっても、完全な言語化は不可能なのだと彼女は言い切る。だからこそ「だれか」である我々は、世界にとって未知のもの、「始まり」を、世界に持ち込み得る存在なのだ、と彼女は言う。

人間の生は、だれかである、ということ。

『起源』で彼女は、アウシュヴィッツも含めた強制収容所という施設、その中心にあった忘却の穴について話す。その深く底の見えない大きな穴に、多くの人々が投げ込まれたのだと話す。投げ込まれた人々は忘れられ、それが忘れられたということすら忘れられ、そこには何も残らなかった、唯一残ったのは、そこにはなにも残らない、ということだったのだと、彼女は話す。なにもない、が残ったのだと、話す。

人間の死は、忘却である、ということ。

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この二つの本の出版順は、今ここで取り上げた順番と逆だ。

彼女は『条件』から『起源』に行ったのではなく、『起源』から『条件』に向かった、「死」についての思考を煮詰めてから、「生」についての思考を掴み取ろうともがきにもがいた、という流れが、個人的にけっこうグッとくる。

一度、人間性を忘却の彼方に押しやりすり潰す全体主義やその極地といえる強制収容所と真正面から取っ組み合い、打ちのめされた彼女が、「人間は、現にここにおいてもう既にだれかであり、それゆえに始まりを世界に持ち込む存在である」、に至るまでの、彼女の長い長い道のりに、励まされる。

人間性、だれかであること、は、そう簡単になくならないし、なくせないし、奪い得ない、ということへの確信、強い信念が、彼女の言葉に見え隠れしているような気がする。

でも、りんごの木を経由し、アレントという人の言葉の力を借りて、ふらふらたどり着いた、人間にとって生とは、死とは、という問いへの、現時点で一応落ち着いていた答えも、東日本大震災のことを前にすると、とたんに揺らぎ、崩れ始める。

ちがう、そうじゃない、この言葉じゃない、でも、では、どんな、どんな言葉がある?

どんな言葉が、おれのなかに、残っている?

また、迷い込む。

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13回目の3月11日14:46の黙祷、いつもと違う感じが、からだを覆った。

その時、あぁ、おれの中にも、あの日が釘打ちされた、と思えた。

昨年、関西圏の企業と仕事をした。あるイベントに寄せつつ、青森のことを書くという仕事だった。その中でおれはコロナのことを書いた。冬、深く冷たい雪に閉ざされ安易に外出できない状況が、コロナ禍の状況と重なって、おれには感じられていた。それを書いた。コロナ禍の非日常は、ある意味では青森の日常だと、書いた。でも編集者は、コロナ禍は終わっている、と言った。そのことを書くのは今の時流ではもう遅い、と言った。そうか、とおれは思った。その部分は全部消して、書きたいと思ってもいないことを書いた。これが仕事か、と思った。

でも、たぶん、きっと、東日本大震災のことになると、おれの中には、その編集者と同じ態度のおれがいた。

岩手にいたおれは、2011年3月11日において、被災者だった。実家の壁にも亀裂が入り、物が散乱していた。明かりのない中で、その日の夜を、みんなで身を寄せ合って、過ごした。

でも、テレビで、三陸に押し寄せた巨大な津波を見た時、おれの中から、被災者は、消えた。

大学に入って、出身地が岩手だと言うと、大丈夫だった、と聞かれた。その度に、家は内陸の方だったので大したことなかったです、と答えた。答えながら、後ろめたさがあった。この問答は、いつまで続くのだろうと思った。たぶんそんなに長くは続かなかった。気づくとそう聞かれることもなくなり、自分でも被災地の岩手の出身だという意識は薄まっていた。あの日が来れば、黙祷をした。かたちばかりの黙祷だった。その時間が終われば、おれはその時々の生活に戻っていった。そういう特集を見たり、本を読んだりすれば、それなりに心は痛んだ。でも、痛むままにしておくばかりで、それ以上のこと、具体的な支援に関わる、みたいな方には、進まなかった。

10年近く、そうしてきた。

妻と出会ってから、折にふれて、震災のことを話すようになった。だれかと、あの日のことを、時間をかけてじっくり話したのは、それが初めてだった。妻から、震災のことにずっと心を砕いてきた方が青森にいる、ということを教えてもらい、なんだかとても、力が抜けた。そういう関わり方もあり得たのかと、震災に関してずっと閉じていたおれの中の扉が、開け放たれたような、そんな気持ちになった。

NHKの東北地区の番組審議委員をやっている妻といっしょに、震災関連の番組を見ることが増えた。見る度、見る度に、揺すぶられた。おれは今まで何をしてきたんだろうと、思った。励まされながらも怒りがあった。何なんだこれは、と思った。何なんだよおれは、と思った。

なんだよ、なにも、終わってないじゃないか、と、思った。


大学院にいた時、しんどくてもうやめてしまいたくて、でもやめられない状況にあって、ある人に相談した時「今のあなたは、大きな海に、しがみつくものもなにもなく、漂っているようなものだと思います」と言われた。大学院に三年近くもいてなにも残せなかった、と言うと、「その三年で、自分が向いていない、ということがわかったんだから、それで、それだけでいいんですよ」と言われた。そうか、と思った。力が抜けて、涙が出た。

あの日は、おれにとって今の今まで、大きな海だった。それは変わらない。ずっとそれは大きな海であり続けるのだろうと思う。その海で、波が寄せては返すのを、おれはずっと、ただ見ていた。

でも、目の前に、ひとつ、石が置かれた。いやもしかすると、ずっと、そこに、それは、ひとつの石は、あったのかもしれなかった。

あぁ、石がある、とおれは思った。

おれは、おそるおそる、その石に、足を、置く。



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