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【怖くない T地区】福井市 東郷地区を、タンケンカ目線で紹介

越美北線って知っていますか?
越美北線というのは、JRの路線です。福井県福井市の越前花堂駅から、九頭竜湖までを走っています。

さて、タンケンカとして活動している私は「新幹線開業に向けて越美北線を考える会」に所属しています。この会が2024年3月3日に、イベントを開催します。

(車両は福井駅から出発するのですが、路線でいうと越前花堂からだそうです。JRさんは愛称の「九頭竜線」で推していますが正式名称は越美北線です)

このイベント用に来場特典となる冊子を制作したのですが、書ききれなかった部分はnoteで公開ということに。せっかくなので、この機会に東郷地区のノーマルな解説も制作することにしました。
ただし、あくまで私個人の目線での憶測も混じった解説なので、それを前提に読んでくださいね!

特典冊子

それでは、タンケンカの個人目線で!
東郷地区について、語ります!


① 東郷地区の地理と古代

まずは、Googleマップを地形モード(航空写真)で見てみてください。東に山があり、足羽川が谷から平野部へ流れてきているのが分かると思います。この流れ出てきた足羽川の南側に東郷地区はあります。

(データ・地区の正確な位置に関しては下の福井市の情報も参考になります。)

福井市役所 東郷地区 わがまちトリセツ
https://www.city.fukui.lg.jp/kurasi/mati/tiiki/chiikitantou_d/fil/47.pdf

福井市役所 まちづくり組織一覧 (ブロックと地区の区分について)
https://www.city.fukui.lg.jp/kurasi/mati/tiiki/index3.html


この地形、「学校で習ったやつだ!」と思いませんでしたか? とても綺麗な扇状地ですよね。足羽川は治水が進むまでよく暴れたそうです。

「うちの地面の下は砂利が出てくるから、足羽川はこの辺りを流れていた時期もある」と地元の方々は自分の家の下の事情を知りがち。私も大学時代に調べたから他の人のこと言えないのですが。私は九頭竜川がもってきた砂利の上で生まれ育ちし者。

足羽川が運んできた砂利や砂が堆積しているエリアは、水はけがよくて稲作にはもってこい。地下水も豊富、山からの風で寒暖差がある、と他にも好条件が重なって、美味しい米を作りやすい土地です。

そんな土地、利用しない手はない!
ということで、福井市立郷土歴史博物館のこちらのページをご覧ください。
注目してほしいのは「御茸山古墳群」と「天神山古墳群」「酒生古墳群」です。

「御茸山古墳群」は東郷地区です。川を挟んで向かいにある「天神山古墳群」「酒生古墳群」は酒生地区。
古墳があるということは、人が住んでいたということ。昔は洪水の際に被害が少ない山際などに住んでいたと考えられます。この古墳群、けっこうすごい規模です。

篠尾廃寺の礎石。当時、五重塔のインパクトは凄かったでしょうね。京の都ならともかく福井ですし。田んぼの真ん中に東京タワーが建ったのと同じくらいではないでしょうか?

酒生地区には7世紀〜9世紀にあった寺の礎石が見つかっています。篠尾廃寺という名称で、その痕跡が今も、ローソンの裏にありまして。立派な五重塔のものだと推察される礎石なので、大昔はここに巨大建造物が聳えていたということですね。

いや〜でも本当に笑っちゃうぐらい、ローソンのすぐ裏なので、礎石はぜひ見に行ってみてほしいですね!


② 中世の東郷地区

東郷地区の水田は、一条家をはじめとする貴族や寺社の荘園となっていきます。
そして室町時代、東郷地区を含めた一帯の管轄権をもらって、越前朝倉氏がこの辺りにやってきます。
「越前朝倉氏といえば一乗谷なのでは?」と思われた方もいるでしょう。
ですがこの一帯の最初の拠点は東郷地区の槇山に作られたのです。

これもGoogleマップを地形モード(航空写真)で見てみてください。
広域で見てみると、一乗谷は見通しが良くないと分かるでしょう。槇山は見通しがきき、福井平野を見渡せます。天気が良いと三国の方の海まで見え、防衛や遠方との連絡に便利なのです。

槇山に拠点となる砦を作り、その後で越前朝倉氏は一乗谷に一大拠点となる人口1万人規模の街を作りました。

一乗谷に拠点が移っても、槇山は出城、または家臣の拠点で利用されていたと考えられます。見張りが常駐していたのは確かでしょう。そして異変や合図をキャッチすると、伝令が山の中を一乗谷まで走りました。

山には現在のように木が茂っていなかったでしょう。街のために木材は大量に必要ですし、防衛のために見通しをよくしなければなりません。また、現在でも山道は残っていますが、当時は馬に乗って駆け抜けられるほどの道がしっかり整備してあったようです。

一乗谷の街は信長によって焼かれ、越前朝倉氏は滅亡します。
ですが東郷地区には、甚大な被害はなかったようです。穀倉地帯(=収入源)だったからでしょうか?
その後、このエリアは長谷川秀一という武将が治めることになります。

冬の槇山。標高122mで車で登れる道があります。その車道や公園整備で遺構が損なわれた部分も。ですが一方で登りやすく公園として利用もできるようになり、こういうところは難しいよね〜〜と個人的には思っています。

さて、長谷川秀一は槇山に城を作りなおし、城下町も整備していきます。
遺構などから、その城は丸岡城のような規模の立派なものだったのではないかと考えられます。

③ 美濃街道

さて、東郷地区を語る上で重要な要素の一つが「美濃街道」です。
福井の人が言う美濃街道は福井市の中心部から、美濃国(岐阜県)までを繋ぐ道。福井市の中心部から、山の中を通って福井市美山地区、大野市、そして岐阜へと向かいます。

美山地区へ入るまでは複数のルートがあるのですが、美山地区に入る前、東郷地区のあたりで一つになります。美山地区の歩きやすい道といったら山の中の谷筋になるため、皆んな基本的にそこを通ったのでしょう。
東郷地区には人や物が行き交い、賑やかに発展していきます。
(下のリンクの『福井県史』にも書かれています。)

長谷川秀一が亡くなり1600年には槇山城が廃城になります。
ですが、東郷の町はその後も賑やかに発展したようです。

④ 機織産業とモータリゼーション

戦後、東郷地区は機織産業で栄えました。「ガチャマン景気」の時代、機屋さんは羽振りがよかったようです。
当時、東郷地区には映画館があったそうです。文化会館と呼ばれ、地元の商売をしている人たちが中心に出資しあって経営していたとのこと。
繊維産業の好景気とそれに伴う人の増加が地区を賑やかにしていったことが伺えます。最盛期には商店街に200店以上の店が並び、銭湯や旅館、パチンコ屋となんでもあったそうです。

一昔前は足羽郡(ざっくり言って現在の13地区が一緒になった行政区)の中心地として栄えていたのです。まちあるきの際に聞いた近隣地区の方の話からも、東郷地区は「繁華な街」と認識されていた事が伺えました。

さてそんな東郷地区に、大きな転換点がやってきます。
モータリゼーションです。
車での移動がさかんになるにつれ、東郷地区は中心市街地からベッドタウンへと徐々に変化していきます。
そして同時期の変化として、1971年、足羽村そして足羽町へと区分が変わっていた東郷地区は、福井市に編入されます。

⑤ 平成を迎える東郷地区

綺麗な鯉が放されていて、鯉のえさやりが子どもたちには人気。同時に、鯉は外来種だし綺麗な川の象徴ではないよね、という意見も、そうだよねと思います。このあたりも難しいですよね。

現在、多くの人が「東郷といったらこの光景」と言う、川が真ん中を流れているこの親水ゾーンは、平成10年にできあがりました。農業用水は下に埋められたパイプラインを流れているので、見えている川は親水のために、あえて作ったものなのです。

さて、平成に何が起こったのか。
事情を聞いていくと、「ふるさと創生事業」が大きな影響を与えたようです。

各市区町村に1億円を交付したこの事業。
使い方が自由な1億円。福井市は「福井市ふるさと42事業」として各地区に300万円ずつ交付しました。

「かつての活気は失われていくばかりだ」
「子どもが挨拶してくれない、住民どうしの関係が希薄な地区になっていっている……」
など、東郷地区のことを憂いて動き始めていた人々がいた中、この資金は変化の後押しになったように、私には思います。

具体的にこの資金で何をしたかというと、まず「東郷ふるさとおこし協議会」という団体が発足し、調査研究・アンケート・シンポジウムなどを行って、時間をかけて一冊の冊子を作りました。

もう入手困難で、私も持っていません。手放したい方はぜひ私にください!
どうしても見たい方は、東郷公民館で閲覧できます。

この冊子は地区の未来について考え、ビジョンをまとめたものです。
まだ“まちづくり”が今ほど研究されていない時期に、この規模の地区でまずビジョンをまとめるというのは、けっこう先進的だったのではないかと思います。

そして、平成6年から「おつくね祭」が始まりました。

(※おつくね祭は、東郷ふるさとおこし協議会主体の事業ではありません。)
コロナで休止していましたが、2023年から本格的に再開。
2023年の初日は、屋台の品物が売り切れ続出するほどの賑わいでしたね。

東郷地区では町内ごとにお祭りをしていましたが、地区全体がまとまるお祭りもやろうという事で始まったようです。


東郷ふるさとおこし協議会での活動のいくつかを紹介します。
・地図の制作
・「ふれあいカレンダー」制作(毎年、各世帯に1部ずつ配布。地区の方のイラストや写真などが使われています)
・「こんにちは東郷」(広報誌)制作
・せせらぎコンサート

他にも自治体連合会、おつくね祭実行員会、ふくいPR隊@東郷研究会、槇山を育てる会、PTAの仲良しチーム、公民館の自主グループなどなど……いろいろなチームがそれぞれ動いて、地区は変化してきました。

そして次第に、東郷地区は「まちづくり活動がさかんな地区」と地区外から認識もされるようになります。

私の目では、さまざまな人間が東郷地区という地域で動き、変化を起こしているように見えます。それを良いとか悪いとか分析ができるような能力はありませんが、リアルに、そしてこのエリアに、干渉して変化させているキャラクターがいるのは確かです。


ちなみに私はこの『青花魚』という本がきっかけで東郷地区と関わり始め、微住という形態での滞在に関わっています。

さて、現在、みなさんの目に、東郷地区はどのように写るでしょうか?

東郷ふるさとおこし協議会が常任理事の定年を60歳にしたり、宅地開発で新しい自治会ができたり、今なお刻々と変化していっていると私は感じています。
今回の記事を「長くない?」と思った方もいるでしょうが、私としては、必要部分だけにしようとかなり削ぎ落としています。歴史に寺社仏閣や名所など本気で紹介し始めたら100倍以上の分量になるでしょうし……。
あくまでこの記事は“さわり”の部分なので、皆さん気になった部分に関しては、それぞれで深掘りしてみてください。

私はべつに、まちづくりがしたい人間ではありません。
あくまで自分自身の楽しみとして、歴史や伝承を調べたり、面白そうな活動に参加してみたりしているだけです。
ですが、自分が面白がって関わっているエリアを他の人も面白がってくれると嬉しいです。

面白いじゃんと思ったら、ぜひ実際に東郷地区へ来てみてください。

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