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1984:海と花火と流星のシトロン[前編]

(連作短編「茶飲みともだち」#03)

 人口約二万人。北国のさらに北のさいはてのまちにも、肌寒い夏が訪れた。
「明日から夏休みです」
 杏色のジャージ姿で市立病院を訪れた僕は、ベッドに横たわっている人物に向かって、もらいたてほやほやの成績表を広げる。
「全科目、ほぼ三です」
 小学生のころから通っている習字教室の村井先生は、顔をくしゃりとさせて笑った。
「とても立派です」
 先生はすっかりおじいちゃんなのに、ずっと年下の僕にも常に丁寧な言葉で接してくれるのだ。
「ありがとうございます。でも、平均中の平均です」
 パイプ椅子に座ってため息をつく。昔からとはいえ、我ながらつくづく冴えない成績だ。
「きっと砂川くんは、大器晩成の人かもしれませんね」
 先生はそう言って、ゆっくりとこちらを向いた。うんと大人になってから、成功する人のことだ。
「そうでしょうか」
「そう思います」
「でも、そういう人は小さいときから、目標があったりしませんか? エジソンとか……わかんないけど。俺にはそういう目標とかやりたいこととか、ほんとに全然ないんです」
「そうですか? いま活動している美術部は好きではないのですか?」
「部活は強制的に入らないといけないので、楽そうで自分にもやれそうな部に入っただけです。でも、絵がへたくそだとわかっただけで、全然楽しくありません……」
 自分でしゃべりながら落ち込みそうになったとき、四人部屋の病室に村井先生の奥さんが入ってきた。僕はぺこりと会釈する。
「こんにちは」
「まあ、こんにちは。いつもお見舞いありがとうございます。砂川くんが来ているかなと思って、サイダーを買ってきたの。よかったらどうぞ」
 礼をのべて、冷えた缶を遠慮なく受け取った。真夏の澄んだ青空が、病室の窓を埋めつくす。乾いた日差しに目を細めた直後、看護師が入ってきた。それを合図にして、僕は椅子から立ち上がりバッグを背負った。
「先生、また来ます」
 奥さんが見守るなか、看護師が先生の検温をはじめた。先生はにっこりすると、
「砂川くん。もしも楽しいなと思えることが見つかったら、それを極めるといいですよ。いつかきっとそれが夢になり、目標になりますからね」
「……わかりました」
 半信半疑ながら返答し、病室をあとにする。先生に言われた言葉の意味よりも、先生の痩けた頬が気になった。つい数日前よりも、さらに痩せたように思えるのは気のせいだろうか。
「早くよくなったらいいな」
 駐輪場の自転車にまたがって、少しぬるくなったサイダーの缶を空けた。真夏とは思えない冷たい風が吹いているのに、蝉の声は大音量だ。こんなに寒くても、やつらは元気に生きていた。北の蝉はたくましいらしい。
 なんとなく励まされた気がして、サイダーをいっきに飲み干す。大丈夫だ。先生も僕も、大丈夫。
「そうだよな。いまは冴えなくても、大人になって冴えればいいんだ」
 敷地内のゴミ箱に、空き缶を放り投げる。うまく入って、いっきに気分がよくなった。自転車にまたがり、ペダルをこぐ。ゆるやかな坂道をくだって車道にでると、やがて喫茶店の前でたむろしている集団が見えてきた。同じ中学の制服を着崩した輪の中に、よく知る顔があった。
 いっときだけ団地の隣に住んでいた、渋谷トモミだ。ミイなんて気軽に呼べない渋谷トモミと、うっかり目があう。坊主頭に上下ジャージの僕と、パーマをかけまくってスカジャンを羽織った渋谷トモミの間には、もはや共通するものがなにもない。どっちが先に視線をそらすか競う前に、僕は自転車のスピードをあげて集団の前を通り過ぎた。
 市内に八校ある小学校を卒業すると、三校にしぼられたもっとも近い地区の中学にあがる。北中学に通うことになった僕は、入学式で久しぶりに渋谷に会ったのだった。
 身長は僕より高くすらりとしていて、セーラー服がよく似合っていた。つりあがり気味の大きな目は相変わらずだったが、くせ毛混じりの髪は肩にとどいていて、やけに大人っぽく見えた。対するこっちは丸坊主なうえにまだチビで、学生服はぶかぶかだ。恥ずかしさと照れくささでまごつきながら、「おう」とやっと口にした覚えがある。渋谷はにっと笑って、
「おう」
 それで会話は終わった。クラスは違ったものの、しゃべるタイミングなんていくらでもあるだろうとたかをくくっていたら、陸上部の渋谷のまわりにはスカートの丈を長くした女子や、リーゼントに短ランの男子が集まるようになっていた。
 つまり、ヤンキー。陸上部は数年前から、ヤンキーの巣窟と化していたのである。
 中二となったいまでは、陸上部以外の上級生とも交流しているらしく、色の濃いリップクリームをつけ、目に痛い原色のスカジャンを着ている始末だ。いや、それは渋谷の勝手だし、べつにいいんだが。
 いいんだが、どうもさみしい。
 認めたくないがこの感じは、毎週楽しみにしていたアニメの最終回を見たあとに似ている。永遠におんなじことが繰り返されて、続いていくことなんてないと突きつけられたときにそっくりだ。はじまりがあれば終わりもあると、変わらないものなんてなんにもないんだと言われているみたいで、どうにもやるせない。
 渋谷が引っ越して来たころ、僕はやつをライバル――好敵手としていた。お互いの顔つきがどことなく、ムーミンにでてくるスナフキンとミイに似ていることもあって、やつには負けられないとなぜだか思い込んでいたからだ。でも、渋谷トモミはもう好敵手ではない(おそらく向こうのほうが僕よりも強い。いろんな意味で)。このまま距離は遠くなっていくんだろうが、さみしい一方ではそれでいいと思っている。
 ただ、元気ならそれでいい。もう泣いていなければ、それでいいんだ。
 渋谷の顔と、冴えない成績表を母に見せる憂鬱さを振り払うべく、僕は自転車のスピードをあげた。

* * *

 風呂上がりにアイスを食べながらソファに座り、テレビの前に陣取る。速攻でリモコンを握ると、五歳年下の妹がドリフを見たいと駄々をこねた。
「今週こそは『ひょうきん族』を見せろよ。まだ一回も見てないんだから」
「やだ! 今日もカトちゃんがいい!」
「ちょっとでいいんだって。どんなんなのか見たいだけなんだから」
「やだ!」
 おまえはもう寝ろと言った直後、電話が鳴った。母がでて、僕の名前を呼ぶ。土曜日のこんな時間にいったい誰なんだ。
「井上くんから」
 テツやんか! もうすぐ番組がはじまってしまう。焦って受話器を奪い取った。
「なんだよ、テツやん。もうすぐ『ひょうきん族』はじまるぞ」
『あっ、そっか! そうだった……』
 新聞部のテツやんはおっとりとした性格で優しく、制服も折り目正しく着こなしている地味な男子だ。洋画好きで、『金曜ロードショー』を欠かさずチェックしている。そんなこだわり男子のくせに、顔立ちは僕と違ってジャニーズアイドルみたいだった。でも、女子に人気があるわけじゃない。女子に好まれるのは運動部で、悪っぽく見えるヤンキーと相場は決まっていたからだ。
 まったく、この世はつくづく意味不明である。
「どーしたんだよ」
 視線をテレビに向けると、妹がチャンネルを変えていた。「おい、待て」と叫ぶ前に、
『スナくん。ぼ、僕さ……呼びだしちゃったんだ』
 テツやんが言った。
「呼びだしたって、誰を?」
 気もそぞろにテレビをにらむ。
『や、山田さん……。文芸部の、三組の』
 一部の男子に人気のある、ポニーテールで小柄な女子だ。
「そんで?」
『み、港まつり、一緒に行きたいと思って、そう言おうと思ってさ。今日、下駄箱に手紙入れて呼びだしちゃったんだ』
「え」
 夏休みの最中におこなわれる港まつりは、カップルであることを見せびらかすイベントだ。つまり、そのおまつりで一緒に歩いている男子と女子は、つきあっていることを意味するのである。テツやんは山田さんに告白するつもりなのだ。
「すごいな! そっか。テツやん、山田さんのこと……」
 好きだったのかと声にする前に、ごくんとのみこむ。口をつぐんだ両親が、聞き耳をたてている気がしたからだ。こういうとき、自分の部屋に電話がほしいと切に思う。
『実はさ、前からいいなって思ってて……』
 新聞部と文芸部の部室は近く、交流もある。やりとりが多くなるにつれ、もっと仲良くなりたいと思うようになったらしい。
「なんで言わなかったんだよ」
『て、照れくさくて……』
 訊くだけ野暮ってもんだ。
『ほかの男子もいいなって話してるの聞いちゃって、なんか焦ったっていうか……』
「わかった。電話じゃなんだから、作戦会議だ。明日は?」
『う、うん。でも、もう待ち合わせなんだ』
「ええ? テツやんいまどこ」
『こ、公園の公衆電話』
 すでに待ち合わせの場所にいて、あまりの自分の行動力にいまさら震えあがり、僕に電話をしたのだと言う。いったいどうしたんだよ。すごいじゃないか、テツやん!
「わかった。俺も行くから待ってて。帰ったらだめだからな。そこでふんばれ」
『う、うん。だけど、『ひょうきん族』はいいの?』
「よくはないけど、しょうがない。なんか理由つけて行くから、そのままそこにいるんだぞ」
 電話をきる。ドリフの番組がはじまり、妹が喜ぶ。ビールを飲んでいる父と、スイカを食べている母に向かって、僕はさりげなさを装った。
「ちょっと公園の自販機で、サイダー買ってくる」

* * *

 風呂上がりのTシャツにパーカを羽織り、ジャージにサンダルをひっかけて自転車を飛ばした。好きとかつきあうとか、興味はあってももっと先のことかと思ってた。でも、こんな身近でこんなことがあるなんて、めちゃくちゃすごくて興奮してきた。なんか、都会のおしゃれなドラマみたいだ。そんなことを思いながら、街灯と三日月が光る夜道を走る。十分も走ると、住宅に囲まれた目的の公園についた。
 ベンチに座ったテツやんは、ひとりぼっちでうなだれていた。自転車からおりた僕は、ハンドルを押しながら近寄る。うそだ、まさか。
「ふ」
 ふられた? 怖すぎて口にできない。顔をあげたテツやんは、首を横にふる。まだ来ていないだけらしい。なんだよ、心臓に悪いな。
「遅い時間だから、外に出られないのかもしんないな。なんでこんな時間にしたんだよ」
「ハリウッド映画だと、告白とかは夜するんだ。だから、僕もやってみようかなって。まあ、向こうの学生はバイクとか車に乗ってるし、ナウいパーラーとかでするんだけど……」
 憧れによる失策らしい。気持ちはわからなくもない。
 出直せばいいと励まそうとした矢先、テツやんがはっとしたように目を見張る。その視線は僕の背後に向けられており、振り返って息をのんだ。
 ポニーテールを揺らす山田さんのそばに、異色の存在があった。
 なんでだ。なんで渋谷トモミが、山田さんと一緒に来たんだ?
 考えることは同じらしく、渋谷もびっくりしたように目を見開いた。どういうことだ? クラスが同じだとしても、山田さんと渋谷のつながりがまるで見えない。
 スカジャンのポケットに両手を突っ込んだ渋谷は、ガムを噛みながら自販機の手前で立ち止まった。ワンピース姿の山田さんがもじもじしながら近づいて来ると、テツやんがベンチから立ちあがる。僕は自転車を置き去りにし、ふたりから少し離れた。渋谷との微妙な距離感が気まずい。だけど、どう話しかけたらいいのかも思いつかず、ひたすらテツやんを見守っていた。すると、近づいて来た渋谷が横に立ち、ポケットからガムを出した。
「ん」
 差し出されたのは辛くてまずいものじゃなく、サイダー味のチューインガムだ。
「……うす」
 ありがたく受け取って口に放り、弾ける泡を噛む。そうしながら、横の渋谷を盗み見た。入学式のときは僕のほうが背が低かったのに、いまは同じくらいの目線だ。二人して並んで立ち、まごまごしているテツやんらを見ていたとき、渋谷が言った。
「スナ、背伸びたね」
「なんか、そうみたいだ」
「そうみたいだって、なんだよそれ」
「あんまり実感したことなかったから」
 渋谷が小さく笑った。いっきに空気が昔に戻って、気持ちがゆるむ。
「山田さんと仲良しなのか」
「意外っしょ」
 否定できない。
「まあ……けど、どうやってここまで来たんだ? おまえんち遠いだろ」
「今夜はお泊り会だったから」
「は?」
「山田さんのママ、あたしのママが働いてる美容院の常連で仲良しなんだ。山田さんともなんとなく仲良くなって、ときどきお泊り会してんの。これも意外だろうけど」
 さらに否定できない。
「山田さんかわいいからさ。あたしが護衛してんの」
「護衛?」
「ヘンなのが来ないように、蹴散らしてんの」
「テツやんはヘンなやつじゃないぞ」
 渋谷がにやっとする。
「わかってるよ。井上があんたと仲良しなの知ってるし。山田さんも井上と友達になりたいって言ってたから、来てみることにしたんだよ。まさか、あんたまでいるとは思わなかったけど」
 驚いた。テツやんと僕が仲良しなのを、こいつは知っていたのか。でも、僕はおまえが誰と仲良しなのか、全然知らない。見た目だけで判断して、変わったんだと思いこんで勝手に距離をつくり、見ないようにしていたからだ。
 テツやんがこっちを見た。嬉しそうに笑むと手をあげる。そのそばで、山田さんがもじもじしていた。うまくいったらしい。なんだろうな。なんだかめちゃくちゃうらやましい。
 渋谷がガムの風船をふくらませる。
「スナはさ、おまつり誰と行くの」
「あそこでうまくいったやつと行くつもりだった」
 渋谷が笑った。
「じゃあ、ひとりで行くのか」
「いや、こうなったら家族と一緒かもな。親と一緒だと食い放題だし。……ダサいけど」
 おまえは誰と行くんだ。そう訊こうとしたとき、山田さんが来た。テツやんと電話番号を交換したので帰ると言う。
「じゃあな、スナ」
 見た目ヤンキーの、山田さんの護衛が言った。
「おまつりで会ったら、なんかおごって」
「やだよ」
 僕が言うと、渋谷はくすくすと笑う。手を振る山田さんと一緒に、公園から立ち去った。
「テツやん、やったな」
 そう言ってテツやんを見ると、目を丸くしていた。
「スナくん。渋谷さんと、仲いいの?」
「いや、仲はよくない。好敵手の茶飲みともだちだ」
 困惑するテツやんに向かって、僕は味の消えたガムを噛みながら答えたのだった。

[後編(#04)に続く]


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