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1984:海と花火と流星のシトロン[後編]

(連作短編「茶飲みともだち」#04)

 村井先生の家に来たのは、半年ぶりだ。
 習字教室は二年前から閉められていたのだが、僕はときどき訪れていた。奥さんが出してくれる手づくりのお菓子と、ココアなんかの飲みものも目的ではあったけれど、先生と話すことが楽しかったからだ。
 家族とも、学校の友達や先生とも違う。美しい字を書いて、質問すればなんでも答えてくれる先生は僕にとって、漫画や小説に登場する大魔法使いみたいな存在だった。
 それになにより、数年来の茶飲みともだちでもある。
 そんな友人が無事に退院したと聞いて、ホッとした。母に渡された果物をたずさえて訪れると、先生はソファに座って新聞を読んでいた。
 夏なのに分厚いカーディガンを羽織り、毛糸のひざかけをのせている。僕を見ると嬉しそうに笑って、挨拶をするため杖をつきながら立ちあがろうとした。
「あ、いいんです。先生、座っていてください」
「じゃあ、お言葉に甘えましょう。身体が思うように動かなくて、困ったものです」
 奥さんに果物を渡して、先生の隣に腰をおろす。夏休みの宿題が滞っていること、進学する地元の高校をなんとなく決めていること、あちこちで字を褒められていることを告げると、先生は楽しげに目を細めた。
「宿題の滞りは懸念されますが、ほかは喜ばしいことです」
 奥さんがケーキと氷の入ったサイダーを持って来てくれた。先生には白湯だ。ふんわりしたケーキを頬張ったとき、
「砂川くんの好敵手は、お元気ですか?」
 なにげなくそう訊かれる。渋谷トモミが転校してから、先生との話題にのぼることもなくなっていたのだが、ふと思い出されてしまったらしい。
「ずっと交流がなかったんですが、この前久しぶりにしゃべりました」
「そうでしたか」
「おまつりで会ったら、なにかおごらないといけないかもしれません」
 先生が笑う。
「久しぶりなのに、まるで昨日も話していたように感じたとしたら、その好敵手はきっと、砂川くんの生涯の友になるかもしれませんよ」
「え?」
「そういった縁は切れないものです。どうぞ大切に」
 先生は少し咳き込み、白湯を飲んだ。カーディガンのポケットに手を入れると、「私のお守りです」と言って手をひろげる。皺だらけの手にあったのは、弾丸がくいこんだ金貨だった。びっくりして言葉を忘れる僕に、先生は言う。
「まだ樺太にいて、砂川くんくらいの年齢だったとき、私の友が古道具屋で見つけたものです。この金貨がとある兵隊の身代わりになったという名目で売られていたようですが、おそらく嘘でしょう。けれども、私の友はそれを信じて、この金貨をずっと持ち歩いていました」
 とくにいいことがあったわけでも、宝くじが当たったわけでもない。でも、未知のことに挑戦するとき、その金貨を握ると勇気がでたのだそうだ。奮いたつ勇気に励まされていくつかの事業を起こし、失敗と成功を繰り返しながら身近な人や家族に恵まれ、天寿をまっとうしたと先生は話す。
「やがて、友から譲り受けました。たしかに、特別なことが起きたことはありません。けれども、これをこうして握ると、気がかりな不安を吸い取ってくれているように感じることが何度もありました」
 そう言って微笑んだ先生は、その金貨を僕に差しだした。
「こうして思い返すと、人生はあっという間でした。これから砂川くんの刻んでいく一分一秒が、どうか輝かしいものでありますように。不安や失敗をおそれず、勇気をもって歩んでいけますように」
 僕の手に、握らせる。
「でも、これは先生のお守りです」
 戸惑って遠慮する僕に、先生は言葉を続けた。
「私はじゅうぶん、助けてもらいました。これからは砂川くんのお守りです」
 それを握らせた僕の手を、先生はぽんぽんと軽くたたいた。
 ケーキを食べてサイダーを飲み干し、挨拶をして先生の家をあとにする。玄関先に立った奥さんと先生の姿が、なぜか一瞬かげろうのように揺れて見えた。
 胸騒ぎがおさまるよう、僕は金貨をきつく握りしめて住宅街を歩いた。

* * *

 夏休みも二週間を過ぎたころ、いよいよその日がやってきた。
 まだ明るい夕方。ソファに寝転んでテレビを見ている僕に、小学生の妹が浴衣姿を見せびらかす。支度を終えた父は僕を見て、
「おまえは行かないのか」
「……気が向いたら行くよ」
「ジンギスカン、食べ放題だぞ」
「うん」
 リモコンをいじりながら答えると、バッグを手にした母が言った。
「来るなら自転車じゃなくてバスにしなさいね。父さんの車で一緒に帰って来られるから」
「わかった」
 母が背中を向ける。はしゃいでいる妹をなだめる声が、玄関から聞こえた。父がドアノブに手をかける。
「花火は七時半からだ」
「うん」
「でも、無理しなくていいからな」
 僕がうなずいて笑みを向けると、父も小さく微笑んでドアを閉めた。
 ぼんやりとテレビを眺めているうちに、日差しが陰ってくる。うとうととまどろみはじめたとき、電話が鳴った。母さんがなにか忘れて、公衆電話からかけてきたのかもしれない。面倒に思いながらなんとか起きて受話器を取ると、テツやんだった。すでにおまつり会場にいるのか、音楽や笑い声が受話器越しに伝わってくる。
『よかった。まだ家にいたんだ』
「うん」
『どのへんにいる予定か、聞いておくの忘れてたなと思って。けど、もしかして来ないの?』
「あー……いや、まだわかんない。なんかだるくて」
『……そっか。あの、なんかさ……残念だったね。習字の先生。この前のお葬式、行ったんでしょ』
「うん。お通夜も母さんと行ったよ」
『そっか』
 無理しなくていいからねと言って、テツやんは電話をきった。父にも同じことを言われたし、なんだか自分がひ弱になった気分になる。
 村井先生が亡くなったのは、僕が訪問した数日後のことだった。手術をしたものの、悪性腫瘍はすでに体中に転移していて、結局なにもせずに閉じたのだと誰かが話しているのをお通夜で聞いた。遠くに暮らす先生の娘さん家族も来ていて、奥さんも、近所の人たちも、みんな泣いていた。
 でも、なぜか僕は平気だった。心のどこかで覚悟をしていたからだろうか。もしくは、先生にもらったお守りのおかげかもしれない。それなのに、いやに気持ちは沈んでいる。なんにもする気になれないし、誰にも会う気になれなくて、宿題も滞りまくりだ。
 先生にもらったお守りを手にする。こんなの全然ダメだ。これまでの一分一秒は、輝かしくもなんともなかった。そのうえ、「無理しなくていい」だとか気遣われてどうするんだ。かっこ悪いにもほどがある。それでなくても、かっこよくなんてないのに。
「……決めた。行こう」
 ジンギスカンを食べて花火を見て、山田さんとテツやんを見つけてひやかしたら、こんな気分も終わる気がする。
 ジーンズに着替えてパーカを羽織り、ポケットにお守りと財布を入れる。気持ちが変わる前にさっさとスニーカーを履き、家を出た。

* * *

 食欲をそそるいろんな香りが充満する中、とりあえずサイダーを買った。
 色とりどりの出店でにぎわう通りを歩いていると、見知った顔がちらほら見える。テツやん以外のカップルが、僕の知らないところでずいぶん生まれていたらしい。
 みんな、変わっていくんだ。ふとそんなことを思う。
 それなのに僕だけが、いつも同じ場所で足踏みしている気がする。
 先生。僕はこんなんで、輝かしい一分一秒を刻むことができるんでしょうか。
「無理だな」
 小声で突っ込み、苦笑した。サイダーの缶を開けようとしたとき、埠頭から放送が流れて拍手が起きた。花火がはじまるのだ。急いで通りを過ぎると、テーブルやベンチが並んだ埠頭が見える。その向こうは、漆黒の凪いだ海だ。
 砂川家御一行を探そうとした矢先、誰もが立ち止まって見上げはじめた。僕も足を止め、闇夜にのぼる音を聞く。
 大きな音とともに、光の花が咲き誇った。歓声と拍手に続いて、またひゅるるると七色の火花がまたたく。

 ――こうして思い返すと、人生はあっという間でした。

 先生の声が、鼓膜に蘇る。

 ――これから砂川くんの刻んでいく一分一秒が、どうか輝かしいものでありますように。

 つんとしたせつなさが、目頭にこみあがる。花火がぼやけた。

 ――不安や失敗をおそれず、勇気をもって歩んでいけますように。

 歩んでいけるんだろうか。わからない。先生ともうしゃべれないなんて、さびしいです。
 涙をぬぐおうとしたとき、人混みの中にいた渋谷トモミと目があった。とっさに顔をそらした僕は、逃げるように人の群れを離れた。
 見られたか。きっと見られた。恥ずかしすぎて最悪だ。
 渋谷トモミは、ヤンキーな上級生と一緒だった。つきあっている男子がいたなんて知らなかったが、浴衣姿じゃなくいつものスカジャンだったのが妙に笑える。
 変わったようでいて、変わらないやつもいるのかもしれない。僕みたいに。
 埠頭のすみまで来たときだ。
「みっけ」
 うしろから声をかけられて、飛びあがった。花火の絨毯を背景にして、渋谷トモミが笑う。
「……な、なんだよ」
「スナ、ひとり?」
「いや、家族がいる。その……どっかに。そっちはあの上級生と一緒なんだろ」
「ほかにも何人かいるよ。そのうちカップルになって帰るっぽい。あたしはくっついて来ただけ。あんたにおごってもらわなきゃいけないからさ。でもまあ、」
 そう言葉をきると、僕の持っていたサイダーを勝手にぶんどった。
「これでいいや。のど乾いたし」
 缶を開けたとたんに泡が弾け飛び、渋谷の顔とスカジャンを濡らした。一瞬の沈黙のあと、僕らは爆笑する。また花火があがって、歓声がこだました。
「うっそ、なにこれ!」
「ハハハ! 開ける前に走ったんだ。わざとじゃないぞ!」
 肩を揺らして笑う渋谷は、顔を濡らしたままサイダーを飲んだ。それから、あの夜の公園のときみたいに、
「ん」
 僕に差し出す。飲み口にうっすらと、リップクリームの色が残っている。これはつまり、間接キスってやつか。そう意識したとたん、奇妙な違和感があった。その違和感を打ち消すべく、躊躇せずにぐいと飲んでやった。
 人だかりから離れた埠頭のすみに並んで立ち、花火を見ながら代わるがわる缶を手にし、サイダーを飲んでいく。すると、ふいに渋谷が言った。
「さっき、泣いてたね」
 やっぱり、見られていたらしい。
「……泣いてない」
「ふーん」
 しばらく無言で花火を見た。小さいのが集まったやつ、宇宙っぽくてUFOのようなやつ。大きな花弁が柳のように海に落ちていくもの。そうしてやがて、最後の大トリの番になる。
 目にも留まらぬ連続で打ちあがる花火に、渋谷は目を輝かせた。
「すごいね」
「ああ」
「きれいだね」
「そうだな」
「あたしもあんなふうに生きるんだ」
 え? びっくりして聞き返す。
「あたし、ママみたいな美容師になるんだ。そんで、自分のお店もつの。ニューヨークに!」
 花火の終了を知らせる放送が流れる。僕を見た渋谷は、にやりと笑った。軽く握った拳で僕の腕をつき、
「サイダー、ごちっす。じゃあな」
 そう言うと、ふたたび仲間のもとに戻っていった。

 ――どうぞ大切に。

 渋谷の背中を見つめながら、村井先生の声を思い出す。ポケットのお守りを握った。
 そうだよ。そうだ。いまからだ、と誓う。
 このいまから。この一分一秒から。僕の輝かしい未来の幕を開けるのだ。だって、自分の夢をもっている渋谷に、負けるわけにはいかないからだ。
 僕の未来は、まだ遠い。あっという間だったと言えるときがくるのも、もっともっとずっとあとのこと。そのときがくるまで、僕なりに精一杯光ればいい。

 ――先生。いろんなことを教えてくれて、ありがとうございました。

 少しだけ泣いて先生に別れを告げながら、僕はサイダーを最後まで飲み干した。

(了)


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