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[掌編小説]つめたくはない

 小さな窓から西日がさすころ、毎日あなたはやってくる。
 屋根裏の部屋が橙色に染まるときを待ち、私は誰に見せるでもない文章を書く。やがて、かすかにドアをこするような音がたつ。私は椅子から腰をあげ、鏡に映るやせ細った青年の髪を手でととのえ、笑顔をつくってドアをあける。
 はにかむようにあなたは微笑み、籠にかかるナプキンをとって、売れ残りのパンを私にくれる。私はありがたく両手で受けとり、礼を告げる。あなたはどこかさみしげな目で私を見つめ、また明日きますと去っていく。
 私はドアを閉めて鍵をかけ、椅子に座って固くなったパンをちぎる。ろうそくを灯し、ゆっくりと大切に咀嚼しながら、紙にペンを走らせる。私のなかにあふれる文字の海に潜り、夜の孤独と恐怖をまぎらわせる。

 小さな窓から西日がさすころ、今日もあなたはきてくれる。
 いつも持っていた籠はなく、コートのポケットからナプキンに包まれたパンをだす。私は少し覚悟して、いつものようにそれを受けとる。同時に、あなたの手の震えに気づく。
 あなたは哀しげに微笑んで、なにも言わずに去っていく。私はドアを閉めて鍵をかけ、椅子に座ってナプキンを開く。固くなったパンとともに、もう来られませんと書かれてあった。
 私はろうそくを灯さずに、不穏な外の気配に耳をすます。パンは食べず、ただ椅子に腰かけたまま息をし続け、夜の孤独と恐怖を受け入れる。

 小さな窓から西日がさすころ、私は意を決してコートを羽織る。
 なけなしの小銭を集めてポケットに入れ、帽子を深くかぶって外へでた。人目につかないよう猫背になり、建物のそばを静かに歩く。私が何者であるかをしめす胸の黄色い星に気づかれないよう祈りながら、息を殺して歩く。やがて、あなたの働いていたパン屋が見えてくる。黄色い星の持ち主は入れない看板があり、私はあきらめてきびすを返す。

 小さな窓から西日がさす前、見知らぬ男がやってきた。
 影のようにおとなしく静かにしていれば、きっといつか世界はもとに戻る。だから、抵抗はしない。私が荷物を詰めるのを、見知らぬ男は待ってくれた。

 どこへ行くとも知れない列車に押し込まれ、立ったまま目を閉じる。
 どうにもならないことがある。私だけでは、どうすることもできないことがある。
 人は慣れるものだからと、自分を励ます。どんな目にあったとしても、きっと慣れるだろうと自分を励ます。
 誰も話さない。ただ、ふくれあがる不安の息づかいだけが聞こえてくる。
 私は列車に揺られながら、いつかこんな世界ではないところで、なんの不安もなく暮らしている自分を想像する。好きなときにでかけられ、色鮮やかな公園で昼寝をし、青空を流れる雲をただ眺める光景を空想する。そうしたら、また文章が書ける。思う存分、私のなかにあふれる文字の海に潜ることができる。
 儚い希望を抱いてまぶたをあけると、車両が薄暗い橙色に染まっていた。窓からさすあたたかな日の名残りを感じながら、私はあなたを思い出す。私と同じ黄色い星が縫いつけられたコートをまとう、あなたのはにかんだような笑顔を思い出す。

  あなたに想いを伝えたらよかった。

 そうしたらせめて、別れの言葉を告げられたかもしれない。そして、せめて、手を握りあうことくらいはできたかもしれない。

 西日のころ、私はあなたを思い出す。
 これからずっと、思い出す。



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