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[短編小説]彗星一景

 <それ>は、忌み嫌われていた。
 大名屋敷でも飼われるほど、猫は福を呼ぶとされてかわいがられており、野良などほとんど見あたらなかった。いたとしてもだれがしかが餌を与えたり、かわいそうにと連れていくから、野良として人びとに無視されてほうっておかれた猫は、孤独のまま老いていく。<それ>もそのような猫である。なぜ忌み嫌われていたのかといえば、尾が蛇のように長かった。尾の長い猫は百年生きる、あやかしの類い、化ける猫。
 だから、<それ>を見かけた者はみな「くわばら、くわばら」と顔をそらし、家に入るなり塩を撒いた。そのようないきさつがあって、<それ>はずっと嫌われていた。百年といわずとも気の遠くなるような年月を、仲間もいないままごみをあさり続けて生きていたのである。けれどもたったひとりだけ、いつのころからか夕飯どきにこっそりと残り飯をくれる娘がいた。深川の表店(おもてだな)で、こじんまりとした八百屋を営む清吉のひとり娘、キヲである。
 空に月が浮かぶころ、キヲは毎日、残り飯を持ってこっそりと、裏店(うらだな)の長屋から出て、家の前にしゃがんだ。
「おいで」
 つん、と地面を指でつつき、芥溜(あくたまり)だとか井戸だとかのすき間から、こちらを見ている<それ>を呼んだ。
「だれもいないよ。お腹が空いたでしょう。いまのうちに、おいで」
 それで、おずおずと姿を見せる。人目につけばキヲの迷惑になるから、<それ>はささっと残飯をたいらげ、すぐに去るのが常である。
 暮れ六つ。
 今宵も<それ>は、瓦屋根をつたい長屋を訪れた。ひさしから痩せた顔を出し、キヲの住まいを見下ろせば、戸口の前で、桜餅のように丸く小さくなってしゃがむ、キヲの姿があった。
 <それ>は、キヲから少し離れた場所で、器用にはね、音もたてずに地面へ降りる。長屋の陰になるようにして、そうっとキヲへ近づけば、残り飯をたんまりと盛った皿を前に、袖で顔をおおって泣いていた。はっとした<それ>があとじさろうとしたとき、気配に気づいたキヲは、袖で頬をぬぐいながら視線を向けた。
「……あらまあ。いたのね。ごめんなさい」
 むりに笑みを浮かべる表情には、いつもの快活さがない。
「おいで」
 つん、といつものように、地面をつつく。<それ>はおそるおそる近寄る。残り飯の量が、いつもの倍あった。不思議に思いながらも頬張れば、小さな声でキヲがいった。
「もう、ご飯をあげられなくなってしまったの」
 そうか、と<それ>は思う。忌み嫌われる猫に飯をやっているのを、親に見つかって叱られたのか、それで泣いていたのだろう。おれのために泣いてくれるなんて、本当に優しい娘だとそれは思う。だが、そうではなかった。
「……明日から、品川の旅籠へいくの。お嫁にいくのよ」
 あちこちふらついている<それ>であるから、たいがいの場所には詳しい。旅籠って、どこの旅籠だよと考えながら、<それ>はキヲを見上げた。
「おとっつあんが博打で借金をこさえて、そのまま死んでしまったから、たくさん借金があるんだって。それを肩代わりするから、嫁にきてくれといわれていて、おっかさんはずっと悩んでいたけれど、岡場所で身売りするよりもましだろうって。このままだと店もつぶれてしまうし、あたしもそう思うから、うなずいたわ。さっきおっかさんと、たくさん泣いてしまったの」
 十八になるキヲが、ほかの娘にくらべて見劣りすることは、<それ>にもわかっていた。年ごろであるのに器量のせいで、縁談もなく十八になってしまったキヲの、しかし笑顔の愛らしさだけは知っていた。それに、途方もなく優しい性分だ。そんなキヲであったから、嫁ぐ相手はキヲと同じように、優しく真面目で心根のよい相手であって欲しいと願う。そんな願いが通じるわけもなく、言葉を交すこともできず、ただ残り飯を喰らう己が、<それ>にとってははがゆかった。
 キヲは、嫁ぎ先のことをなにもいわなかった。いわなかったが、借金の肩代わりで嫁にこいというのだから、相手に問題ありなのは違いない。
 まさかと思った<それ>の脳裏に、一軒の大きな旅籠が浮かんだ。三上屋といって、一年ほど前に女房を亡くした長男がいる。キヲよりもひとまわり以上年上の男は、商才はあって外面はいいが、中へ入れば横暴で酒に目がない。そのうえ、女房をすぐに殴るので有名だ。先妻との間に子はなかったから、女房とは名ばかりのていのいい、若い女中を身近におきたいのだろう。であれば、借金の肩代わりに、というのもわかる。わかるが納得はいかない。
 残り飯がのどを通らない。上目遣いにキヲを見れば、小さくなってしゃがんだまま、蛇のように尾の長い自分を、遠い眼差しで見つめているだけである。そうして、皿の中身をきれいに平らげる間近になってから、ぽつりとキヲはひとりごちた。
「一度でよいから、恋というものをしてみたかったな」
 キヲの目に、涙が浮かぶ。自虐的な笑みは、キヲにまったく似合わない。
「そんなたいそうなものでなくてもよいのだけれど。思いでのようなもの。かなしいことね。文句なんていえる立場でもないのに、おかしいでしょう、おまえ?」
 おかしくはない。年ごろなのだから、あたりまえだ。
「自分の器量がたいしたことのないものだと、昔から幼心にわかっていたけれど、それでも夢見てしまう。一緒にお散歩をしたり、ちょっとお話をしたりするだけでいいの。だれ、というわけではないけれど、いっときだけでよいから、だれかに優しくされてみたかった……。こんなの、贅沢だわね」
 少しを残して、<それ>は食べるのをやめた。すると、キヲはささやくような声で、ゆっくりでいいから、お腹いっぱいでもむりしてお食べ、おまえが食べるまで、今日はいつまでも待っているから、といってくれる。
 自分に飯を与えてくれる者は、キヲ以外にいなかった。嫁ぎ先で、自分に飯を与えられるほど、余裕のない日を送ることを、キヲは予感している。だからこんなにも、たくさんの飯を皿に盛ったのだ。
 最後だから、盛ったのだ。
 やりきれない。だが、できることはなにひとつない。
 いや、ある。
 <それ>は、最後まで飯を食べ尽くした。きれいに、皿をなめた。と、カタン、と二軒隣の戸が揺れる。身をひるがえした<それ>は、キヲのそばからすぐに離れた。
「さようなら。どうか達者でね」
 皿を手にしたキヲは、身を隠した<それ>がどこへいったのか見まわしながら告げ、戸の中へ去った。
 暮れ六つ。闇にぽっこり、満月が浮かぶ。

 すまないね、と母はいう。
 九尺二間の長屋のすみで、母はまだめそめそと泣いていた。
「しょうもないおとっつあんだよ、振売りからやっと店を構えられたってのに、やれ安泰と思った矢先に、博打を覚えてこのざまだ。借金をこさえて首がまわらないからって、肩代わりに娘をどうにでもしろだなんて念書を、遊び仲間の三上屋の旦那に渡すとは、まるで鬼だ、畜生だ」
 父の清吉が死んだのは、ふた月前だ。気のよい男であったが、優柔不断が仇となって、気まぐれではじめた博打のつきあいを、とうとう最後までやめられなかった。一、二度勝ったうまみが忘れられず、負ければ、次は勝つと出ていく。半年前から具合を悪くし、それでも博打を続けたあげく、あれよという間にこの世を去った。
 清吉の借金は、母子も知っていた。生涯かけて返すつもりで、必死に切り盛りしていた八百屋に、三上屋の使いが念書を持ってあらわれたのが、ひと月前のことである。そのときに、念書を知った。つっぱねた母を、使いの男はあざ笑った。
「旦那さまからの伝言だ。こっちはそんな娘、どうでもいいそうだ。嫌なら岡場所にでもいっとくれだとさ。この界隈にもあるだろう。なんなら、紹介してやってもいいってよ。けどなあ、そんな器量じゃあ、借金の半分も返せねえうちに、年くって追い出されちまうかもな。出されりゃもう、嫁にもいけねえ、それに器量もよくねえ、そんな年増がどうやってひとりで生きてくんだ?」
 もっともであった。それが、キヲにはかなしかった。
 いま、母のそばへ寄ったキヲは、苦労のせいか小さくなった背を撫でて、大丈夫よと元気づける。
「大丈夫よ、おっかさん。さあ、今日はもう眠りましょう。たっぷり眠って、明日のことは明日にまかせて」
 布団を敷き、それでもまだ泣いている母の帯をといてやる。
「……元気でね、おっかさん」
 母はなにもいわなかった。ただ、不憫な娘をそっと抱いて、すまないねえ、すまないねえ、と繰り返すだけである。

* * *

 眠れるわけもなかった。
 何度も寝返りをうっているうちに、障子窓の向こうが淡くなる。起き上がったキヲが、なんとはなしに窓を向くと、すうっと横切る影を見た。四つ足の獣で、長い尾が揺れている、そのような影に思われた。あの猫かしら、とキヲは思う。
 母を起こさぬように着物をまとい、静かに戸を開ける。まだ闇の深い、暁手前の空に、月はない。月を隠す雲の輪郭が、はかなく淡くかたどられ、流れる。流れて、過ぎては、また隠す。月灯りが消えるたび、星のまたたきがあらわれた。
 周囲を見まわしたキヲは、はっとした。
 井戸の陰に、こちらを向いた男が立っている。
 男が一歩、キヲに近づく。雲が流れて頭上の月が、男の姿を照らしだす。見たこともない若い男だった。けれども、路考茶の着物は、あの猫を思わせた。涼しげな眼も、孤独に耐えるさみしげな口元も、あの猫のようである。
 尾の長い猫は化ける。だから忌み嫌われる。しかし、キヲにはそのことが、かわいそうでならなかった。ただの迷信であるのに、尾が長いというだけで、誰からも相手にされない猫が、ほんの少し自分と重なり、ほうっておけなかったのだ。
「お、まえ?」
 なんとか、キヲがいう。袖に手を入れた男は、こっくりとうなずいた。うなずいてから照れくさそうに、目を伏せながらキヲにいった。
「……おれはなんにもしてやれない。だれかを呪い殺すことも、あんたに似合いの男をあてがうことも。でも、今夜はとくべつだ。とくべつだから、精一杯だ」
 とくべつだから精一杯、という意味はわからなかったが、化けたということは伝わった。男が顔を上げる。キヲを見ると、やわらかい笑みを見せた。
「飯の礼だ。あんたに優しくしたいんだ。でも、あの姿じゃあな」
 おいで、というのは、いつもキヲであった。しかし、いま、おいで、といったのは、男の姿をしたあの猫である。
 奇妙ではあったが、不気味ではなかった。こわくもない。キヲに手を差しのべた男は、おずおずと歩いてくる。キヲはその手に、そっと指を添えた。添えながら思う。
 これはおぼろの夢だろう。暁のころに視る夢だ。

 物騒な闇夜に出歩いたことはなかったが、男の姿と一緒と思えば心強い。それに、いまは暁七つの手前。もうすぐ夜が明ける、遠くの空が白みはじめた。
 どこともなく歩く男のうしろを、キヲはついていく。猫の化けた姿と思えないほど、男は立派に男であった。不思議におかしくてキヲが笑うと、男が振り返る。
「なんだ」
「ああ、ごめんなさい。でもまさか、猫だなんてね。ずいぶん面白い夢を視ているのだなと思って」
 夢かい、と肩越しに男は笑う。笑うだけで、そうだこれは夢だとも、うつつだともいわない。そうして人気のない通りを歩き、やがて堀川へでる。堀川の東は大川、その向こうが押送船でにぎわう日本橋だ。
 堀川の橋まで歩いて、男は止まった。川沿いの、寝静まったまちなみが見える。男は建物をさして、あそこの家の女房は威勢がいい、こっちの家の息子はいまだに寝小便をしている、などと話す。それがおかしくてキヲは笑った。
「物知りねえ」
「そうだろう。それだけこっそり、うろついてるってこった。読売でもすりゃあ、儲かるな」
 二人して並んで橋に立つ。すると、おもむろに男がいった。
「どうしておれに、飯をくれたんだ?」
「……迷信だと思っていたから。尾が長いだけなのに、みんながおまえを避けるでしょう。それがどうにもかわいそうで」
 そうか、と男はいう。そしてにやっと口元をゆるめる。
「迷信じゃあねえさ。このとおりだ」
 キヲを見下ろす。見下ろされたキヲは、男がたしかにあの猫であるという、証拠を見た。あごに米粒が残っていたのだ。面白くておかしくて、そうっと米粒を取ってやると、男はさみしげに微笑む。
「化け猫っていっても、しょせんはこんなていどだ。あんたになにかを買ってやれるわけでもない、どこか遠くへ、連れて行けるわけでもない。なんとも情けねえ」
 その気持ちだけで、ありがたかった。キヲは首をふった。
「これが夢でも嬉しいわ、ありがとう。この先になにか辛いことがあっても、いまのことを思いだせば、きっとおかしくなって笑ってしまう」
 なにかできることはねえかと、男に訊かれた。キヲは、さらさらと流れる墨色の川を見下ろしながら、もっといろんなおうちのことを教えてとせがんでみる。それで、男は話し続けた。浅草、人形町、日本橋、大名屋敷の山の手。そこに三上屋のある品川はふくまれない。男は避けたし、キヲもけっして訊ねなかった。
 たあいのない話だったが、キヲはじゅうぶん楽しんだ。そのうちに、カラスの声がこだまする。空が淡い青に変わり、月の輪郭も薄くなる。
 どうということもない。どうということもなかったが、キヲは名残り惜しい時間を過ごした。けれども、ずっとこうしているわけにもいかない。さて、帰らなければ。キヲのそんな気配を、男は察する。だから、もう一度だけ訊ねた。
「なにかできることはねえか? キヲ」
 名前を呼ばれて、どきりとした。父以外の男に、名前を呼ばれたことはない。
 猫を相手に、キヲはうつむく。夜が明けてしまえば、旅籠屋の女房だ。きっと働きづめになる。とろいから、ときには罵倒され、殴られるかもしれない。
 これは夢だし、夢だからと、キヲはそっと右手をのべた。
「……手を。手をつないで、帰りたい」
 この先、だれかに甘えることもないだろう。だから、夢を理由にキヲは甘えた。
「ああ。わかった」
 自分の手を包む男の手は、大きくてあたたかかった。キヲの手をそっと握ったまま、男は橋を歩きはじめる。残り飯をあげられなくてごめんなさいと、キヲはいう。男は笑って、心配するなと答える。心配するな、なんとかなる、あんたが生まれるまえから、そうやって生きてきた。
 長生きなのねえと感心したキヲに、男は笑った。
「そうだなあ。……ずいぶん、生きたなあ」
 男に化けた猫にとっても、とくべつな一日だった。優しい娘と手をつなぎ、少しの距離を歩いただけのことだが、それでキヲがなぐさめられたのなら、自分の生きざまにも価値があった。そう思う。
 長屋が見えたところで、キヲの手が離れた。最後までキヲは、嫁ぎ先のことをひとことも告げなかった。告げなかったのは、働きまわる自分を見て欲しくないからだ。
「ありがとう」
 キヲが頭を下げた。
「人生で一度きりの、すてきな夢だった。ありがとう」
 す、と草履の足がうしろに引かれる。うつむいたまま、ありがとうとふたたび告げ、背を向けたキヲは長屋へ走った。一度も、振り返らなかった。
 するり、と長屋の戸の開く音。はたん、と閉まる音を耳にし、男は空を見上げる。すうっとひとすじの、光の尾をひく星が、白から藍へと折り重なる空に流れる。
 生涯一度きりの星を見た男は、猫に戻る。すでに力は尽きていた。よろめく足どりで堀川へ向かい、やせ細った身を投じる。
 暁七つ。
 尾の長い猫の亡がらを、船頭がつつくのは三日後だ。

(了)

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