苦痛を求めている理由

自分は長らく苦しい思いをしてきた。しかしそれは「いじめられた」「明確に社会から弾かれた」「自分じゃ変えられない貧困」みたいな、れっきな環境的要因が無い。ならば要因として大きいのは自分の思考回路である。色々考えて苦しい思いをするのが嫌なら、単純にそれを捨てて無駄な不安要素や悩みを産むのを辞めればいいだけの話だ。分かっててそうしない。そうなると僕は苦痛を得たくて環境事例に釣り合わない、苦痛に繋がる要素をあえて作っているのではないか。

「生きる実感」という物を感じた時は「幸福」を得ていると考える。僕達は基本的に死にたくない。死にたいという人も、最終結論としては生活とか、境遇とか、そんなのを関係なしに死にたい人はほぼ居ないと思う。もし悩みが本当に1つもない、完璧な世界に産まれていたら、今の今まで産まれた全人類はこのまま生きていたいと感じるだろう。
話を戻すと人間は「生きる実感」を得ている時、死とかなり離れた立場になる。ある意味生まれ、生きる理由の証明をその瞬間に人間はしているようなものだ。

次に、「生きる実感」を得る方法には当たり前だが良い悪いがある。例を複数あげる

ポジティブな「生きる実感」

・極めて道徳的な争い、レース的事例にて勝利側になった時
(テストでクラス内順位1位だった!対人戦ゲームで、磨き続けたスキルを駆使して勝利した!)

・自分の頭から出た発想が人に賞賛、肯定された時。多ければ多いほど強い
(SNSで数千いいねがついた。特技を大勢の前で披露したら良い反応が返ってきた)

ネガティブな「生きる実感」

・薬物を使用し、無理やり快楽物質を出して幸福や快楽を感じた時

・犯罪にあたる事をしてその報酬(見返り)への喜びや、捕まるという焦りや、法を破ったことによる解放感などを強く感じた時


言ってしまえばネガティブな「生きる実感」の得方は、自分や周りを現在未来で不幸にしうるもの、特定の人間の幸福を代償にして得るもの、道徳を捨ててまで食らいつくように得るもの、等だ。
これらには罠がある。それはポジティブな「生きる実感」の得方は大抵得ることが難しく、その反面ネガティブな「生きる実感」の得方は比較的こなすのは簡単というロジックだ。

大抵の人は無意識に「生きる実感」という刺激を求めている。バンジージャンプなんて分かりやすい。辛いものを食べたり怖いものを見に行ったり。「痛み・恐怖・緊迫」は「死」の意識を誘発させ、逆に「生きる実感」をもたらす。
つまり「生を彷彿させて生まれる生きる実感」と「死を彷彿させて生まれる生きる実感」に、ポジティブとネガティブの他にも細分化が可能である。その中で死の彷彿は、基本良いと思われる物では無いパターンが多い。しかし悲しいことに、ネガティブな「死を彷彿させて生まれる生きる実感」の得方が1番容易く、コスパがいい。

僕はポジティブな生きる実感を手に入れることができないから、自傷や過呼吸や過剰摂取をするくらいに自分で自分を追い詰める方法で「生きる実感」を得ようとしているのかもしれない。

足を切って血を出した時痛みと薬の快楽に犯され「ああ生きてる…!」と興奮した。
過呼吸によって脳が詰まる感覚、少し遠くなる意識に「ああ生きてる…!」と安心した。
薬を毎日のように死ぬほど飲んで、ぐちゃぐちゃの頭でトイレに行きゲロを吐いてる時「ああ生きてる…!」と微笑した。

周りも巻き込むしこんなことは良い選択肢じゃない。それでもこれらは僕なりに無意識に幸せになろう、これで生きる実感を得て自殺をしてしまうオチを止めよう、と右往左往していた結果の到達地点だと思う。言い訳でしかないけど。「生きる実感」の接種を完全に無くしたら人間は心を1つ残らず無くし人形のようになるか、数多の生きる価値を見失って自殺という最終手段に行き着く。




僕はこれまでネガティブな生きる実感の得方が圧倒的に多かったから、もう「それが最適解」と錯覚して、そうした手段を他よりも良いものと思うようになってしまったのかもしれない。だから結果的に自ら苦痛を求めているのではないか?自分の手で自分の腹にナイフを刺し、「痛い!痛い!」とでかい声で叫んでいる可能性がある。そんな奴はた迷惑過ぎで、とんでもなく邪魔なかまってちゃんだ。

これが真実ならば変わらなければならない、他人の足を引っ張り続けるから。自傷もしてなくて過呼吸も長らく出てないけど、脳内で自分自身をネガティブに持っていく「癖」は変わらず出ている。悲劇のヒロイン気取り寄りじゃないか?せめてそれにはならない為に、表にそういったネガティブ要素を1つも出さない努力が必要だ。元々関わっている人にはほぼ不可能だけど、これから初めて関わっていく人々にはできる。

辛い姿を見せて慰められ助けられるのはオナニーに付き合わせているようなものだ。気持ち悪い。
きっと「生を彷彿させるポジティブな生きる実感」を手にする感覚を覚えたら治せる気がする。けど周りに損を与えさえしなければこのままでもいいのだろうか。マゾ自体はそんなおかしなことでは無いけど、性癖以外の癖もマゾで、尚且つそれが過剰ならば精神がバグ起こしていて、本来の(正しい・普通の)幸せを目指せていないと思う。

自分みたいな人間は独房のような場所で、一生誰とも関わらず、自分だけを自分自身によって苦しめて、最終的に勝手に自殺するような人生が正解なんだと思う。

全てが嫌になってSNSを全部消したくなる時がたまにある。消すべきなのはSNSなんかではなく自分その物だ。
やっぱり薬は心をすり減らすから減らしたいとは思うし、心をなるべく早くすり減らして完全に無くす為に薬をもっと飲むべきだろ、自分は、とも思う。


過呼吸は辛いから起こるのに、収まったら心がスっと軽くなって安堵するから辛いけど幸せ。
腕をハサミで切ると痛いのに、誰かが抱きしめてくれてるような安心感がやってくるから痛いけど気持ちいい。

数年前、ついに精神が壊れて、薬で脳みそも壊れて、苦痛と幸福がセットになり始めてから幸不幸の価値観と基準がズレていってる。元から脳に異常があって、単純にこういう異常な経緯を作っただけかもしれない。

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