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死にやすい不死鳥、復活の記録

暦通りのGW休みをいただいて、昨日から4連休に入っていた。

しかし一昨日の晩、思いもよらず自分が根幹から揺らぐような話があって、沢山泣いた。翌日目を腫らしながらこの文章を書き始めた。

それで思い出した。そういえば私は自分のことを「死にやすい不死鳥」と自負をしていたのだった。

死にやすい。だが段々と復活は早くなっている。
死んでまた強くなる。
死にやすいのは、きっと慈悲深くなるため。

死にやすいというのは、痛みをまともにくらいやすいことの言い換えだ。

『すみません。前回も頑張りましたが、何か大切なことを欠いてしまったようです。今回は遠くを目指すような強さだけでなく、近くを守るような優しさも身につけたいです。何より謙虚になりたいです。ちゃんと感謝もしたいです。』

『いやしかし・・何事もとんとん拍子で進んでしまうのはつまらないですよね。多少苦労なり思いなりを重ねないと、どうも私は実感が湧かないようです。なんてったって天邪鬼なもので・・自分でも困っています(笑)あと、今回はちゃんと少し遊びます。』

多分そう言って私は今世の志願書を神に提出した。4年ほど前、サイキックの方に誘導されて自分の前世を見たことがある。

まあ、そんなことを言えるくらい、2日経った今は復活が進んで来た。

読んでいただいている方には、希望をお届けしたい。

***

突然だけど、私は勤め先の私が所属しているチームのチームマネージャーのことを愛している。

いや、愛しているという高尚な気持ちよりも、とにかく大好きという拙い気持ちのほうが適切である。

子供がお父さんを大好きという気持ちと、異性として大好きという気持ちと、人として大好きという気持ちと、同僚として大好きという気持ちと、上司として大好きという気持ちの総和のようなものだ。

チームマネージャーでは長いので、ここではKさんと呼ぶことにする。自身はocjinmおくと呼ぶことにする。

Kさんは私が入社した約1年後に入社した同僚で、6年ほどの付き合いになる。

地方の零細企業である勤め先では、チーム制度が始まったのは日が浅く、2020年に始まり、現在4年ほど経ったところだ。

それも様々な試行錯誤があり、Kさんがチームを持つことになって、そこに私が所属することになったのは今から2年前。Kさん+私+後輩の3名から始まった。

Kさんは年が若く、学年的には私の7つ下である。その若さでチームを持ち、ここまで成立、発展させて来た。また、若くして家庭を持ち、家事や育児に取り組んでいる話をよく聞く。家族をとても大切にされていることを感じる。私に言わせると「Kさんはとにかくすごい人」である。

Kさんは、大らかで、穏やかで、スマートで、器用で、頭がよく、上品で、庶民的だ。以前何かの会話の端で「庶民的ですね」とコメントをしたところ、喜ばれていた様子が印象に残っている。もちろん歳相応の若さもある。そこも引っくるめて素敵である。

私の勤め先の組織は《上層/マネージャー層/各位》という構成になっており、各マネージャーはそれぞれチームを持つ。現在全3チーム。

上層部の取締役には、常々私はKさんに感謝するように言われて来た。

「Kさんはおくさんが最後に行き着いた場所だから、とにかくKさんに迷惑を掛けないように、ソリッドに役割に徹してください。」といったからい言葉から始まり、

「色々な人が無理だった おくさんに仕事をさせること が出来たのはKさんだけで、それはKさんの功労です。」(スミマセン)などと、時間と共に掛けられる言葉は変わった。

そしてつい先日、東京出張を終えてきた取締役は、先方のメッセージを共有してくれた。

「あの案件は絶対に失敗できなかったので、御社のディレクションには大変助けていただきました。」とのことだった。

それは4月のあたまにリリースを終えた案件だった。先方にはとってチャレンジブルな案件だったという話を、そこで初めて聞いた。

***

その案件は、ディレクターはKさん、制作の主担当は私、そしてチームメンバーに適宜サポートで入って貰いながら進んだ。

Kさんのディレクションは、いつも三方よしの形が目指されている。

制作サイドが必要以上に身を削ることなくお客様の本質的な要求に応えられるようバランスを取りながら、とにかく案件がまっすぐゴールに向かうように、Kさんは全体を引っ張って行ってくれる。

寄り道脱線こだわり職人の私は、これまで百度ゴールへと向かう道に連れ戻して貰った。

その案件は、昨年の11月ごろから始まり、今年の4月あたまにリリースとなった。規模が大きく、制作期間が長かった。

この期間の間に、私の父の他界という出来事があった。

父の他界は、無論私の人生にとって非常に大きい出来事で、そのことに関しては別途記事を綴りたい。

父の他界を通して、想像以上に勤め先が自分の心の支えになっていたことを感じた。

Kさんも私の上司として、告別式に来てくれた。

しかしその案件は幸福な案件だった。こちらのディレクターはKさんで、先方も経験豊富な敏腕ディレクターが担当されていたこともあり、規模が大きいながらもスケジュールや工程に余裕があり、中途で入ったメンバーのOJTも出来たし、パートで働くメンバーに丁寧なFBを返していくことが出来た。他にも別案件に活かせる高品質なコードを書けたなど、多くを育む土壌となった。

その案件が無事収まったことは、取締役もとても嬉しく思っているようだった。

そのような訳で、私は永遠にKさんのチームに所属できると思っていた。

***

一昨日の晩、私は21時を過ぎても仕事をしていた。現在アサインされている案件のマイルストーン当日だった。

そしてこの日はいつも早めに帰宅をするKさんが、会議室で長らく取締役と話をしていた。珍しいことだとは思っていた。

私は会議室の隣にある半個室ブースで仕事をしていたため、ところどころ音声は聞こえてはいた。しかし話の内容が分かるほどではなく、特に気にすることなく仕事に打ち込んだ。

21時半くらいになって、Kさんと取締役は会議室から出てきた。

Kさんはすぐに帰らず、まだ少し自席で仕事をしているようだったので、私はKさんの元へ伺った。

「最後の最後でバグを見つけてしまったので、もうあと30分残業させて欲しい。」という旨を伝えるためだった。

KさんからOKをいただき、ラストスパートの気持ちで取り組んでいたところ、Kさんが私の半個室ブースへやって来た。

「・・会議室で話していた内容聞こえました?」とのことだった。

ところどころ音声は聞こえていたが、話の内容までは分からなかった旨を伝えた。

「いや、もしかしたら話していた内容が聞こえていて、この2時間おくさんは仕事が手に付いていなかったかもしれないと思って来ました(笑)」

「GW明けの定例で周知にされる話なんですが、6月から全体でチーム編成が変わって、おくさんは別のチームになります。」

晴天の霹靂だった。

「定例の時に初めてこの話を聞いたら、きっとおくさんはその場で崩れてしまうと思ったので、早めにお伝えしておきます・・・。。。」


「うわ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜終わった・・・・・・・・・・・・(T_T)」

「もう終わった・・・・・・・・・・・・・・・・・・。。。。。。。。。。。。」

「私は極度のKさん依存症だから別のチームなんて考えられない・・・・・・。。。。。。。。。。。。。。。。。。」


Kさんのチームは、これからは若手の養成に特化した編成になるとのことだった。

確かに私がはみ出し者という理由だけで、Kさんに守られるポジションを独占しているのは申し訳ないと、最近は薄々と感じていた。


「でもまあ、Kさんの元でやってきて、私もメガ進化したから大丈夫か。。。。。。」

「これまでKさんと沢山やりとりをしてきて、もうしっかりと脳内Kさんが居るようになったから、困った時は脳内Kさんに相談します。。。(笑)」

「そうしてください(笑)いやでもこないだおくさん、分報で「どうしたらいいか分からない」って言っていたのを見て、散々僕伝えて来たのにな〜〜〜と思っていましたけど(笑)」

Kさんのチームに入って少ししたくらいに、Kさんは分報チャットを用意しようかと提案してくれた。そのチャットは私とKさんだけのもので、私の自由なつぶやきをKさんが適宜ウォッチしてくれるシステムである。

最初は私もいたって普通に使わせて貰っていた。業務の着手タイミングを淡々と記録するくらいだった。

Kさんとは初期の頃からわりと仲良くさせて貰っていたけれど、あくまで本当に普通の同僚としてという感じで、私も今のような感じではなかった。

一昨年の初夏の頃、私がとんでもなくハードな局面を迎えたことをきっかけに、分報に私の本音や嘆きが投稿されるようになった。

Kさんは基本忙しい人なので、分報の内容に言及されることは殆ど無かったけれど、一昨年の初夏のある夜、私が絶望の淵でもう本当に無理・・・・・・となった23時頃、Kさんの介入があった。

「何か手伝いますか?」と分報にKさんのコメントが投稿された。寝る前に見てくれたらしかった。それによって私の決壊していた気持ちは立て直され、その日は最後までやり抜いて帰宅した。

今年の2月中ばから4月初旬に迎えたとんでもなくハードな局面では、いよいよ私が振り切ったこともあって、分報には包み隠さない本音を思うままに投稿するようになった。

いやさすがにここまでこんなに書いたら嫌がられるかな。。。と思うくらい書いた。だけどKさんは私への態度を変えることは無かった。

我に帰った後はいつも、分報が荒れたことのお詫びをしていたけれど、Kさんは「おもしろく見てるので大丈夫です(笑)」と寛容に受け止めてくれていた。

ここまでくると、私がKさんに言っていないことはおおよそ、Kさんのことが大好きでしょうがないということくらいだけど、きっと言うまでもなくKさんはそのことを分かっている。

「分報だけは残させてください・・・・・・(涙)」

「僕も何か書きます(笑)」

「いやーでもまじでまたこの間みたいな状況になったら、私辞めちゃうかもしれないです。。。。。。私は身軽だから。。。。。。」

「いやでも僕もチームが手薄になってしまうので、ちょっと心配ですよ。。。」

「私はずっとKさんの右腕でいたかったナァ〜〜〜〜〜〜(泣)」

この2年間で、私はKさんと色々な案件を乗り越えて来た。私はKさんとの仕事で辛いと思ったことは殆どなく、一緒に仕事が出来ることをとても幸せに思っていた。だから無敵だと思っていた。

「僕も出来るなら、今からあの案件をもう一回やりたいくらいです(笑)」

ふいにそんな言葉を貰って、私は一気に涙が吹き出そうになった。だけど、なぜかこの時は涙を堪えた。いつもはぽろぽろと簡単に泣くというのに。

あの案件が自分以外の人にとっても大きい存在になっていると正直思っていなかったけれど、どうやら私がKさんの元で過ごした時期の集大成だったのだなと思った。

「チームは違うくなっちゃいますが、案件では一緒になることもあると思うので、その時はよろしくお願いします。」

そしてそれぞれ持ち場に戻った。

そうこうして、仕事を上がろうとしたところ、分報にKさんの投稿があった。

「今月どこかで暇人集めて、慰労会でもしますか🍺」

慰労会を楽しみに思いながら、私は号泣しながら帰路に着いた。

***

もし、私は永遠にKさんのチームに所属していたのなら、この文章が書かれることは無かっただろう。

私はこの文章を書きながら、改めてKさんの元で過ごして来た2年間を尊く思った。

常々尊く思い、感謝の気持ちを魂に刻んで来たつもりだけど、なんだか想定以上に今世で体験したかったことを体験したように思った。

足りないと思えば、いくらでも足りない部分は見つかる。

だけどそうした不足を嘆くことで、宝のような経験の価値を損ねたくない。

私がKさんに極度に依存していることは自覚があったし、Kさんの魅力はより多くの人に感じられるべきであって、迎えるべくして迎えた機会だとも思う。

ちょっと突然ではあったけれど、次のステージの扉が開かれたのだ。

そもそもKさんが休みに入る前に話してくれたことも、様々な条件が重ならないと成立しなかった訳で、そうした奇跡の一つ一つを喜び、感謝をしていきたいと強く思った。

一昨日の晩、いつもの私であればそのまま朽ち果て、床の上で朝を迎えた。だけど、一昨日はそうやってただ打ちひしがれることがもう嫌で、小さなことで良いから自分を助けたくて、なんとか風呂に入って布団で寝ることが出来た。

風呂に入りながら、こういう辛い時は「どういう世界で生きたいか?」「自分が世界を創るものであるなら、どういう世界を創るか?」、自分に訊ねてみると良いかもしれないと思った。そして自分がその世界で実際に生きている前提で物事を捉えることにした。

その世界はオープンで、みんなが共に成長していける世界だ。クローズドな人間関係はそこにはない。

もし私がKさんのことを愛するなら、Kさんの魅力をより多くの人に味わって欲しいと思う。

そして私には、Kさんから教えて貰った三方よしの前向きな仕事の仕方を、別のチームに伝え実践する役割がある。

愛というのは、自由で、オープンで、多くの人に広がるものだ。

こうして死にやすい不死鳥は、心に希望の火を灯し、次のステージに臨もうと思うに至った。

Kさん今まで本当にありがとう。まじで大好きです。でもこれからは好きというよりも愛しているという感じで、切磋琢磨していけたらと思っています。これからもよろしくお願いいたします。

希望を持っていきていく。

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