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本能に従い続けることによる破滅

昨日は人生の本質的な虚しさや面倒さは避けようがない、受け入れるしかないと言う話をした。
では、受け入れないとどうなるかについて今日は書きたい。
まず受け入れないと何かに逃げようとすると思う。
僕が大して楽しいと思えないのにslay the spireを延々とやり続けたりネットサーフィンをしてしまうのは現実逃避だ。
他にも酒やらSNSやらギャンブルやらポルノやら政治やら何でも逃避の対象になり得る。
欲求を満たそうとすると何か虚無感などが紛れるような感じがする。
しかし、ふとまた人生からの逃れられぬ問いが存在感をまして自分に突きつけられる瞬間がある。
それに耐えられなくてまた逃避する、そうして依存症になっていく。

依存対象では僕たちは満たされない。欲求というものは満たされることはない。
欲求がなぜ存在するかと言えば種を繁栄させ続ける上で有用だったからだ。
僕たちは自然界で生き残り栄えるために欲求という能力を獲得した。
飯を食えば、交尾をすれば、仲間を作ればそれだけ生き残りやすい。
自然界で生き残るための行動を促すために人間の欲求というのは存在する。
また欲求が満たされることが無い、我慢できないのも自然の生存戦略なんだろう。

自然界ではスピードが大事だ。
一々生き残るための欲求の対象に我慢したり考え込んでしまうやつは多分生き残れなかった。
それに満足せずに欲求に従い続けた個体が爆速かつ莫大に種として増殖していったんだろう。

虚無や面倒さ、死の恐怖みたいな負の感情への嫌悪感も人間を満足させず欲求に逃避させて種を生き残らせるために必要だった。
生き残るために必要だった本能を獲得した祖先の遺伝子を僕たちは今持っている。
僕たちは本能と現代社会の不調和に苦しみ続けながら生きている。

話は変わるがスマホやネットというのは魔法の道具だ。
あんな薄い板一枚で、性欲やら承認欲求やらコミュニケーションへの欲求やらありとあらゆる人間の欲求に手軽に応えようとしてくれる。
リアルに比べてよっぽどコスパがいい。
傷つくのが嫌だという本能に対しても都合がいい。
リアルは傷つく恐れがあるけどスマホに閉じこもっていればそれはない。
「好きです、付き合ってください」って人に言うのは怖いけどポルノや漫画、SNSは代替手段として欲求に応えようとしてくれる。
しかし、それでも苦しさ虚しさ満たされなさは欲求と同種の本能として残り続ける。
そういう虚無感や不満に傷つくことに対しても拒絶反応が起こって死にたくなる、自殺は起きる。
世間体や自分の家族や友達がどう思うかが絆しとなって自殺というのは起きづらい状況にある。まあそれでも起こっているけど。
ただ安楽死というものが認められればその絆しも弱くなってしまう。
合法化されたウケの良い自殺として安楽死は認められてしまえば一気に流行るだろう。
資本主義やネットが欲求を刺激し続ける、それでも虚無や不満が残る、それらに傷つくのが嫌で死ぬ。
これが本能に従い続けることによる人間の帰結な気がする。

やはり本能に従うのでは幸せになれない気がする。
本能は僕たちを満たしてはくれないから、僕らはそれに振り回されないようにしなきゃならない。
僕たちは欲求不満や虚無感などの本能の生み出す苦しさを不可避なものとして受容しなければならない。
具体的にどうすれば良いかと言うとまず苦しさや苦しさを生み出す主体の自分そのものを観察するところから始める。
例えばこうやって自分についての文章を書くとか、また禅や瞑想などのマインドフルネスも良いだろう。
最近やたらとマインドフルネスや仏教が、ジョブズの傾倒やプレゼンテーション禅などのような形で流行り始めているのも偶然では無い気がする。
本能から導かれる人間の破滅に抗うために、仏教や禅は強いんだろうな。

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