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外山滋比古「忘却の整理学」からnoteを書くことについて考える

今日は外山滋比古の「忘却の整理術」を買ってしまった。
いま半分ほど読み終えたところ。

忘却は記憶に比べて低い地位に置かれがちだった。
よく覚えている人は忘れっぽい人よりも賢そうに思える。
しかし、筆者は忘れることも覚えていることと同じかそれ以上に大事だという。

余計な知識が詰め込まれすぎていると学習する上では障害になりえる。
例えばLとRの発音を使い分けることを学習するのは0歳だと大体できて、中学生あたりになってくると難しくなるらしい。
これは中学生になると赤子に比べて知識が多くあるかららしい。
このことはなんとなく納得できる。
カタカナ英語で覚えてしまっているから正しい発音で聞こえない。
自分が考えている単語とネイティブが発音する単語がまるで別物に聞こえてしまうことを振り返るととてもしっくりくる。

また、覚えることに頭を使いすぎると脳の能力が落ちる。
知識を詰め込みすぎると無気力になってなんだか冴えなくなる。
これを外山は「知識メタボリック」という。
以前電車の中で村上龍の「愛と幻想のファシズム」を読み勧めていたら疲れてしまったことがあった。
このときこの疲れをあえて無視して読み進めたがその部分の記憶は曖昧だ。(と外山の本を読んで思い込んでいるだけで案外覚えているかも)
本を読んでいて疲れてしまったときは素直に本を読むのを休む、別の本に手を出すようなこともしないで何か別のことをする。

これはとても多動で情報中毒な僕に刺さる言葉だ。
ついついネットサーフィンをしてしまうのは一番いけないことなんだろう。
ハーバード大教授のアーサー・ブルックスの「ハーバード大の教授だけど「幸せについて」質問ある?」という動画が思い出される。
SNSの情報はジャンクフード、低栄誉で高カロリーだからSNSを使う時間は30分以内に抑えなさいといっていた。
余計な情報が大量に取り込まれる。
この状態では狙った記憶もやりづらいしものを考える上でも困る。

とりあえず思いつく疲れたときの行動だが、何もしない、運動、瞑想、おしゃべり、散歩して外界を楽しむとか色々ある。
その中で僕はnoteを書くことについて再考してみたいと思う。

noteを書くのはなぜか。
僕は記憶にとどめたいからnoteに書いているつもりはない。
むしろ忘れるためにnoteに書いている。
頭の中で何か考え事や記憶が残っている状態はもやもやする。
また嫌なものほどよく覚えてしまうし考えてしまう。
だから僕のnoteの書き方は頭の中にあるのを分別して捨てている感覚だ。

人間の脳というのはエンジンとよく似ている。
エンジンも燃やしっぱなしではうまく動かない。
いずれ駄目になる。
冷却するのが必要だ。
燃やして動力を取り出すのが思考や記憶で、忘却や何も考えない時間が冷却なんだろう。
溜まっていった熱エントロピーや物エントロピーを捨てるみたいに記憶エントロピーや思考エントロピーが捨てられる。

ものを考える上で一番いい時間は朝らしい。
朝が寝て頭の中が整理されて何もインプットされてない脳がクリーンな時間だからだ。
また空腹なのもいい。
頭で使われるエネルギーが消化に使われるエネルギーとして持っていかれない。
頭にエネルギーを集中して使える。
明日は朝一でnote書いてみようかな。

またいつもは本についてnoteを書くのは読破してからという縛りをなんとなく作ってしまっていた。
しかし、頭にゴミを残さないという目的でnoteを書いているのなら、読んだそばから書きたいときに書いていくのがいいと思った。
これからもそんな感じで読書感想文とも書評とも言いづらいものを気楽に書いていこうと思う。


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