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キッザニアで働けない人

惰性で眺めていたYouTubeに
「岡田斗司夫がキッザニアを
紹介する動画」が流れてきた。

※別に今回は
岡田斗司夫を悪く言うnoteでも
良く言うnoteでもないです。




たぶん内容は「キッザニアを具体例とした
コミュニティビジネスのアドバイス」。
そんなとこだと思う。

でもふと我に返って

ああ〜〜、そっか、
オレもうキッザニアで働けないのか
」と、

思った自分に気付いた。

その直後に喪失感に見舞われたとか
そういう感じでもない。
ただなんかしこりのようなものを感じた。

岡田斗司夫の弾けるような笑顔と
キッザニアの風景が頭の中に同時に出てきたから
目の前の違和感に集中できなかったのもある。


とりとめもなく一般論から話したいと思う。

一般的に人間は
喪失を感じたときに泣き始め、
強烈にそれを取り返そうとする。

かくいう僕も、初恋に破れ、
夏の激情をシャワーで誤魔化した日も当然ある。

でも一方で

もう無邪気に母の胸に
飛び込めない自分に気付いた時

道路脇のツツジの蜜を
吸えない自分に気付いた時

「それを取り戻そう」とは思わないけど
懐かしさと悲しさが込み上げるような
そんな瞬間がある。

こういう場合は
別にシャワーで誤魔化す必要があるような
強い感情が想起されるわけじゃない。

だからさっきは
初恋の時ほど強くなく
母とのあの頃ほど穏やかではない形で
すこしだけ、「戻りたい」と思った気がする。

それがしこりの正体なのかもしれない。

あえて言葉にするなら


キッザニアで
社会人として
無条件に
チヤホヤされた
あの頃に
戻りたい



こんな感じか。

実際に書き起こしてみると
意外と結構強く思ってた。

思うに僕は
あの動画を見た瞬間に

「自分が大人であること」
強烈に自覚したんだと思う。

「建前に顔色変えずに
対応できるようになった」だとか
「性的な儀礼をアレコレ」だとか
「公的書類を自分で捌く」だとか
「身内に幼い存在が生まれた」だとか
色んな瞬間の「小さな自覚」は
たしかに存在していた。

でも全体としてあまりにも
ヌルッと大人になっていて
その結末はとても無様なものだったから

自分が大人になったことに
気付かないようにしていた」気がする。

そんな時に岡田斗司夫の動画が目に入って、

自分が社会人として最も評価された瞬間」である
キッザニアで働いていたあの頃」が
今の社会人としての自分」を強烈に照らしてきた

そして「もうそこには戻れない現実」が
後から襲いかかってきた

それはとても残酷なことで、
こうして文字にすることで
その衝撃をいなそうとしている。
ことは伝わると思う。

ただこの結末は悪い話ばかりじゃない。

たとえば僕は
原点に立ち戻った人はその分野で強くなる
という持論を持っている。

それに倣うならば
「今回の出来事を通して原点に立ち戻った僕は
きっと素敵な社会人になれるだろう」

という楽観的な姿勢で
今日の出来事を捉えることができる。

これはひとつの意味ある過去の活かし方だし
こういう試みは初めてじゃない。


ただもしその原点に押しつぶされる日が来たら


僕は闇堕ちして大人用キッザニア
画策し始めるかもしれない。

どちらにせよ、その答え合わせは
もっと先になると思う。


今日は早くシャワーが浴びたい。

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