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過去と未来を映すバーカウンター

わたしはその夜、30年振りに訪れたバーでギムレットをオーダーした。

音もなく飾り気のない空間。黒を基調としたバーカウンター。大きくはないがよく通るマスターの声。博学ではあるが嫌味のない語り。わずかに聞き取れるカウンターの会話。そしてマスターが作る一級品のカクテル。30年前と変わらない青月のバーカウンターでは、中田さんがシェイカーを振っている。

あの頃と違うのは、となりに二十歳になったばかりの息子の和也がいることだけだ。

わたしは、和也が成人を迎えたら青月のカウンターで酒を飲むと決めていた。一杯目のオーダーはギムレットということも。

若い頃は仕事終わりに六本木や赤坂でシャンパンを空けた後、24時を過ぎてから代々木上原へ向かい、毎晩のように青月で飲んでいた。
1994年前後の港区ではバブルの名残りで、界隈のバーでは毎晩のようにシャンパンが空いていたし、わたしに声をかけてくる男も少なくなかった。

今思えば、その頃のわたしは若気の至りという言葉では収まらないぐらい怖いもの知らずだった。

都会の夜から放たれるきらびやかな刺激は、20代という若さが持て余す熱気と共にわたしを大胆にさせた。
若さの価値も知らないまま、わたしは来る者を拒まずに誰とでも飲みに行くことで、有り余る熱気を消化していたのだ。
それは田舎育ちのわたしが憧れた生活だったし、20代という限られた時期にしか訪れることのない自由な世界だった。

当時の代々木上原は、今のようにお洒落な飲食店もなく閑静な住宅街だったが、中田さんはその隙間に青月というバーを立ち上げた。

自分が住んでいる街にバーが出来るとは思っていなかったから物珍しく入ってみると、そこはわたしが日頃飲んでいるバーとはまるで装いが異なっていた。一言でいえば、青月はどのバーよりも静かだった。中田さんの知的な語り口と、冷たすぎないお酒は空間に溶け込み、その静けさはわたしの心を落ち着かせた。

「ここはわたしが長年通うことになるバーだ」
中田さんとその酒に魅了されたわたしはそう思い込み、毎晩のように青月で酒を飲むようになったのだ。
それは港区で自分を守るためにまとった鎧を脱ぎ捨てて、感情をリセットするのに丁度良い時間だった。

ギムレットをオーダーしたわたしのとなりで、息子がジントニックをオーダーすると中田さんは2つのカクテルを同時に作りはじめた。

当時と変わらないレシピで作っているのは、中田さんがあの夜のことを覚えているからだろうか。

「お待たせいたしました」

ギムレットとジントニックを差し出す中田さんと目が合ったが、わたしには気づいていない様子だった。

和也ははじめての酒に口を付けた。変わらない表情のままジントニックを味わっている。まだカクテルの美味しさも知らず、これから酒の味を覚えようとしている二十歳の男の最初の一杯が中田さんのカクテルとは、何とも贅沢だろう。わたしは我が子を羨ましくも誇らしく思い、ギムレットを味わった。

その円やかな味わいに懐かしさを感じると、あの頃の記憶がよみがえってきた。

20代の頃、わたしは1度だけ青月のカウンターで泣いたことがある。
女が涙を見せると、心配する振りをしながら喜ぶ男がいる。さらには涙という弱みを巧みに誘導して抱こうとする男さえいる。わたしはいくつかの経験を経てそれを悟り、泣きたいときでも涙を隠していたが、美奈子は打算的に涙を見せる女だった。

わたしと美奈子は、赤坂のバーで知り合った。ある文芸誌の編集長である時田さんに誘われて、彼の知り合いが経営するバーで飲んでいた。
わたしは時田さんが編集する文芸誌はすべて読んでいたし、彼が書く文章も語り口も、深い洞察と知性に満ちていて好きだった。

今日の成り行きに期待しながら一杯のカクテルを飲み終えると、美奈子が男と現れた。

男が美奈子を連れてきたというよりは、美奈子が男を連れてきたという雰囲気だった。美奈子は自らの色気に自覚的で、男を操る才に長けている、とわたしの直感が反応した。
そのときの美奈子はネイビーブルーのワンピースを身に付けていて、長い後ろ髪が左右に揺れると、その合間からは艷やかな背中が見え隠れした。

美奈子に寄り添う男は時田さんの高校時代の友人で、ふたりは数十年振りの再会を果たしたようだった。その横でわたしが「はじめまして」と挨拶をすると、美奈子は「よろしくね」と手を差し出した。
警戒しながらもわたしは美奈子と握手を交わし、乾杯をした。

「良かったら4人で飲みませんか」
美奈子が言うと、時田さんはわたしに確認することなく応じて、友人の真木さんも賛同した。

その流れで4人で飲むことになったが、美奈子はすぐに時田さんと打ち解けながらも、随所で真木さんを立てていた。
わたしには、髪の色を褒めて、カラーリングを真似したいから美容室を教えて欲しいと寄り添ってきた。
彼女は人見知りすることなく、明るく華やかな上に甘え上手でもあったのだ。

しばらくすると美奈子は、少し酔った様子で席を立った。
「ちょっと、酔い覚ましてくるね」

つかの間、席を外した美奈子は、髪をアップにして戻ってきた。
長い髪で隠されていた背中は露わになり、男たちの視線が注がれた。
美奈子は席に座るときに自然に真木さんの肩に触れながら、時田さんには無防備に艶めかしい背中を見せていた。今ここで美奈子を制しても、時田さんに焼きもちを見せても良い結果は訪れない。そう思ったわたしは、焦りながらも冷静に美奈子を観察することにした。

彼女の言動はどこまでが計算で、どこからが本能なのか捉えどころがなかった。
上京してから都会の生き方や男の扱いを身に付けたわたしとは違い、美奈子は若くして大人の社交場に馴染み、男が何をすれば喜ぶかを本能的に把握していたのだろう。

それでも美奈子がその場を楽しんでいるようには見えなかった。器用な佇まいではあったが、彼女は常に自分の最適な魅せ方を強いられているようでもあった。
たまにわたしだけに見せるその眼差しには、自分の心を覗かれている気がして、単に男を扱うのが上手いだけの女ではない気がした。わたしはそんな美奈子の振る舞いの奥に隠された背景が気になった。

結局その夜は4人で飲み明かし、わたしと美奈子は始発電車を待たずにタクシーに乗った。

赤坂から六本木を抜けて青山通りに差し掛かる頃、美奈子は突然わたしの肩にもたれかかってきた。
男だけでなく、知り合って間もない女にも甘える美奈子を警戒しながらも、わたしは一先ず受け入れた。

「ねぇ、由貴はあの編集長のこと好きなんでしょ」
「え、どうして分かったの」
「そんなの由貴の視線と身体の向きを見れば分かるよ」

そう言う美奈子は男を切らしたことがないと自負していたが、わたしと美奈子の好みはまるで違っていたから、好きな男が重なることはないと思っていた。それでも彼への好意を美奈子に悟られたことには、漠然と不安を感じていた。

そんな不安を抱えたわたしは、美奈子と一定の距離を保っていたが、ふたりの関係が切れることはなかった。

「由貴は賢いから女の武器を使わなくてもそれなりの男が寄ってくるのね」
「美奈子だって男に不自由したことないじゃない」
「そうね、でも由貴のことを好きな男とは狙いが違うのよ」

あるとき美奈子はいつもより酔っていたからか、少しだけ本音を漏らした。
彼女から放たれたその本音は、わたしが思っていたことと概ね同じだった。

美奈子はわたしが持っていない色気を持っていたけれど、わたしは美奈子が持っていない知性を持っていた。だからふたりでいると、お互いに寄ってくる男の幅が広がったのだ。
それは美奈子との適切な仲を保つには十分な要素だったし、若くてそれなりにモテるふたりの間で、互いにないものを補い合う内は良好な関係が保たれていた。

唯一危うかったのは、わたしは美奈子の色気に見惚れてはいたが、自分が女としての色毛を身に付けることには無関心だったことだ。
わたしは女としての美しさよりも、自分の知らない世界を見ることに関心を寄せていたし、色んな男と飲むのは女としての欲を満たすよりも、自分の経験値を高めたかったからだ。

美奈子はそんなわたしの在り方を見下している素振りを見せながらも、そこには嫉妬が隠れていた。そして、それがいずれふたりの関係に亀裂を生むことをわたしは察知していたが、美奈子は無自覚だった。

そんな美奈子はわたしといることで、以前よりもさらに色気に磨きがかかり、声をかけてくる男もより洗練されたように見えたが、どこか彼女は不満気だった。

ある夜、美奈子はわたしを赤坂にあるバーに呼び出した。
バーテンダーに一杯目のカクテルをオーダーをすると、美奈子は前置きなく言った。
「わたしを簡単に抱こうとする男なんてやめた方がいいよ」
「どういうこと」
「由貴が好意を寄せている男のこと」
「時田さんがどうしたの」
「聞きたい?」
「聞きたくはないけど言いたいんでしょ」
わたしなりに抗ってみたが、美奈子の思惑から逃れることは出来ないと分かっていた。
「じゃ言うけど、彼ね、わたしが浮気されて別れたって涙を見せたら急に優しくなって」
「それで」
「わたし、彼に寂しいって泣きついて。でもね、そこから先は彼に委ねたの」
わたしは結論を先読みして、愕然としながらも覚悟を決めた。
一杯目のカクテルが届かないのは、バーテンダーがタイミングを見計らっているからかもしれないが、わたしの喉は狂わしく乾いていた。
「それで、時田さんは、どうしたの」
「彼ね、前からわたしを抱きたがってたから、ちょうどいい口実を見つけたみたいで。だからわたしも成り行きに応じたの」

長い沈黙の合間でバーテンダーが我々の前にカクテルグラスを置いた。美奈子はすぐにそれに口を付けたが、わたしは喉を乾かしたまま次の言葉を探していた。

「ねぇ、美奈子はわたしに何がしたいの」
「そうね、由貴にもっと男を見る目を磨いた方がいいって教えたかったの」
「あなたに何が分かるの」
「じゃあ言うけど、由貴は女のことは冷静に観察してるのに、男のことはまるで見えてないじゃない」
「それを言うならあなただって」
美奈子はわたしを制して続けた。
「だって彼、あなたの好意を知りながらわたしを抱くような男だよ」
「時田さんが、どうしてわたしの好意を」
聞いた後に後悔したが、もう遅かった。わたしは美奈子の術中にはまっていたのだ。
「そうね」
美奈子はじらしながらカクテルに口をつけたが、わたしは黙って続きを待つ他なかった。
「あなたのこと好きな友達がいるんだけど、って言ったら彼、少しだけ留まったの」
もう何も期待していなかったし、いずれこうなることは分かっていたはずだと自らを諭した。
「でもね、キスした後だったからもう遅かったみたい」
抱かれる相手にさえ罪悪感を抱かせるような悪意に満ちた美奈子は、得意気にカクテルを飲み、わたしに勝ち誇ったようだった。

その後、二度目の沈黙はそう長くはなかった。

あなたは自分の色気に自覚的な割にその悪意には無自覚なのね、と言う代わりに「可哀想な子ね」と言ってカウンターを立った。

わたしの言葉を受けて、美奈子の表情が固まった。
続いて美奈子の手からはグラスが落ちて、わたしを見るその瞳が潤みはじめた。
今にも泣きそうな美奈子を見ると、わずかに心が揺れたが、後戻り出来るほど大人ではなかったわたしは、何か言いかけた美奈子を振り切り一万円札を置いてその場を後にした。

さよならも言わずにふたりの関係が終わりかけたとき、美奈子ははじめてわたしに弱さを見せたが、そのときのわたしは、美奈子の悪意に劣らない程の非情さで自らを保っていたのだ。 

美奈子はわたしを必要としていただけで、大切に感じたことなどなかったはずだ。それを思うとわたしだって、彼女のことを大切に思ったことなんてなかった。ただわたしは美奈子から向けられる嫉妬に心地よさを感じていただけだった。
やり方は違えど、互いに何かの埋め合わせに相手を利用していたことには変わりない。
それはわたしがいつかは訪れると予知した美奈子との別れの中でも、最も後味の悪い結末だった。

そして不思議なことに、わたしの心をかき乱していたのは、時田さんが美奈子を抱いたことよりも、彼女に対する自らの在り方だった。

目を逸していた自らの内心の扱い方が分からないまま外に出て夜空を見ると、わたしは中田さんの酒を飲みたいという純粋な本能を感じて青月へと向かった。
喉は渇き心も乱れていたから、とにかく中田さんの顔を見て、酒を飲んで落ち着きたかった。

青月のカウンターに座ると、中田さんはいつもと変わらずに迎えてくれたが、すぐにわたしの様子に気づいたようだった。
「まずは喉を麗しましょう」
そんなさりげないオーダーの取り方が中田さんらしくて、わたしは平静を装いギムレットをオーダーした。

カウンターには誰もいないからと中田さんに話を聞いてもらいたかったが、美奈子も時田さんも青月の客だから、ここで事の顛末を話すわけにはいかない。
わたしは、バーカウンターで他の客との揉め事は話してはならない、という大人の振る舞いをこの空間が教えてくれたことを思い出した。それで少しだけ冷静になったが、中田さんのギムレットを味わうと、再び感情が高ぶってきた。

バーカウンターで泣くなんて品のないことはしたくなかったが、ズルい程に美味しいギムレットを作る中田さんを前にすると、自然に涙があふれてきた。

わたしが涙を手で拭うと、中田さんは何も聞かずに温かいおしぼりを出してくれた。
「こんなに美味しく作るなんてズルいです」
「今日のギムレットは沁みますか」

潤んだ目には、いつもと何も変わらない中田さんが映っていた。
「ごめんなさい」
その静かな温かさに触れたわたしは、堪えきれずに、今度は隠すことなく声を出して泣いてしまった。

泣き顔を隠そうと下を向くと、この前まで真黒だったはずのカウンターが剥がれかけていて、そこに涙がこぼれ落ちた。それを見たわたしは、美奈子の小賢しさも中田さんの優しさもわたしの青くささも、そしてこのバーカウンターもいつかはなくなってしまうことに気づいたのだ。それはわたしの心境だけでなく、青月もまた客を迎える度に変化しているという当たり前の事実だった。

今この瞬間の心の揺れや、緩やかな空間もいずれは消えてしまうと悟ったわたしは、青月の入り口やカウンターや椅子やグラスを見渡してから改めて中田さんを見て、涙を拭いた。

そしてわたしは中田さんが差し出してくれたお水を飲み、少し落ち着いてから美奈子のことを考えた。

彼女の周りには、世の女性たちが羨むような男であふれていたが、彼らは美奈子を求めるだけで、その奔放さの奥に隠れた弱さを見ようとはしなかった。
美奈子は常に自分を繕っていて、誰かにすべてを受け入れられることを渇望していたのかもしれない。
その渇望を昇華する術を知らなかった美奈子は、歪んだ形でわたしに甘えたのだ。やり方は汚いにせよ、それが彼女なりのバランスの保ち方だったのだろう。
男の扱いは誰よりも長けていたが、自らの感情の扱い方がまるで幼い彼女に哀れみを抱いてしまった。

わたしなりに美奈子のことを思い返すと捨て台詞のつもりで吐いた「可哀想な子ね」というフレーズが、彼女の中でどのように響いたのかが気になった。
それでもわたしは、美奈子への心残りには触れずにそのまま大切にしまっておこう、と自らに言い聞かせた。
美奈子との別れは、わたしにとって新たな生き方に進むきっかけだと思えたし、それは美奈子にとっても同じことなのかもしれない。

心が晴れて涙も乾いたわたしは、呼吸を整えて中田さんに向き合った。

そして自らの心に耳を澄まし、いつかはなくなるこのバーカウンターでどのように酒を飲みたいかを思い浮かべると、言葉が自然にあふれてきた。

「わたし、子どもが出来て、その子が二十歳を迎えたら青月に連れてきます。そしてその子と一緒に中田さんのお酒を味わいます」

そう訴えると中田さんが「そのときもギムレットで迎えましょう」と微笑みながら応じてくれたのが、30年前のことだ。

その夜以来、わたしは港区で飲むこともなくなり、青月にも行かなくなったし、時田さんへの気持ちも薄らいだ。
美奈子への哀れみと中田さんの優しさは、わたしの心の奥に触れて、日常に変化をもたらしたのだ。

あえて言葉にするならば、わたしは刹那的な楽しさよりも永続的な幸せを求めるようになり、自分が本当に欲しいものに耳を傾けて生活を整えはじめた。それは若く未熟な女から、成熟した大人の女に成り上がるために必要な変化だったのかもしれない。

派手な生活からは遠ざかったが、美容にはより関心を寄せてお金を費やすようになり、食事に気を使い、ジムにも通い、髪や肌の手入れも怠らなかった。お酒に関しては飲むことよりも、正しく味わうことに関心を持ち、ワインエキスパートとウイスキーコニサーの資格を手に入れた。
それは再び青月で我が子と中田さんの酒を味わう日が訪れたときに、その場に相応しい大人の女でありたかったからだ。

生活は大きく変わっても、青月で泣いた夜のことを忘れることはなかった。その記憶は心に留まり、ときどき訪れる寂しい夜には、内側からわたしを温めてくれたのだ。

そんな生活を続けている内に、わたしはお酒とは全く関わりのない穏やかな男と結婚して、間もなく子どもを産んだ。
平穏な家庭で我が子は健やかに育ち、先週ようやく成人を迎えたのだった。

その息子はわたしのとなりで、中田さんのジントニックを飲み干していた。そして彼はわたしに促されることなく、2杯目にウイスキーソーダーをオーダーした。

「ウイスキーのお好みはございますか」
二十歳の息子に、還暦前の中田さんが丁重に確認した。
和也はいつの間にウイスキーソーダなんて覚えたのだろう。
「はじめてなので、お任せでお願いします」
中田さんに臆することなく和也は答えた。

オーダーを受けてカティーサークのボトルを取る中田さんの手には、しっかりとシワが出来ていた。中田さんもこのカウンターで、あまねく歳月を重ねながら幾千もの酒を注いできたのだろう。

わたしは和也に続いてカティーサークの水割りをオーダーした。

中田さんと会話をする息子を見て、これからどんな風に20代を過ごすのだろうと、不安混じりにも楽しみになった。

「ねぇ和也、二十歳を迎えてお酒を飲んでみてどんな気持ち」
「お酒のことはまだ分からないけど、自分がどんな大人になりたいか見えた気がする」
「和也はどんな大人になりたいの」
「このバーのマスターみたいにカッコ良くなりたいな」
「マスターの作るお酒はね、すごく美味しいのよ」
「母さんはマスターのこと知ってるの」
「うん、若い頃はよくこのバーでマスターが作るお酒を飲んでいたの」
「じゃあ、母さんのこと覚えているかな」
「どうだろう、もう30年も前のことだし」
「きっと覚えてるよ」
「どうしてそう思うの」
「だって母さんだって覚えていたんでしょ。マスターのお酒の味を」
「そうだね、ずっと忘れなかったからね」
「何だか、母さん今日のことをすごい楽しみにしていたみたいだから」
「それはね、ずっと前から決めていたことだから」

和也はそれ以上は聞かずにグラスに向き直り、ウイスキーソーダを味わった。

そしてわたしは、あれ以来会っていない美奈子のことを思った。今の彼女は素敵なパートナーと幸せに暮らしているだろうか。そうあって欲しいと心から思えた自分に少しだけ酔ってしまったのは、中田さんの作る酒のせいだろう。

わたしがカティーサークの水割りを飲み終えて、となりを見ると和也のグラスも空いていた。いつの間にか青月に馴染みはじめた我が子の成長が喜ばしくも、いずれ彼の未来からわたしがいなくなることを思うと寂しくもあった。
そんなわたしの表情を見て和也は何かを決めたように言った。
「最後の一杯は母さんと同じものが飲みたい」

それを聞いて、わたしは青月で飲んだ今日のことを、その息子の言葉を忘れることはないだろうと思った。

わたしは、今この場で自分が何を味わいたいかを真剣に考えた末に、和也にはちょっと強いかもしれないが、マティーニをオーダーした。

中田さんは和也にも容赦することなく、わたし好みのドライなマティーニを作ってくれた。中田さんにとって彼はひとりの客であり、バーカウンターで酒を味わう大人の男なのだろう。

中田さんからグラスを受けてマティーニを真剣に味わう横顔は、すっかり大人びていて、その鋭い味わいは、わたしの心を締め付けた。和也にも思いを寄せる誰かと青月で酒を飲む日が訪れるのだろうか。

ふたつのグラスが空くと、中田さんの視線がわたしを捉えた。
あの頃と変わらない青月で過去の温もりと、未来への不安混じりな期待が過ぎると、ようやく中田さんがわたしに気づいた素振りを見せた。

「中田さん、お久し振りです」
「由貴さん、ですね」
「もう30年振りですよ」
「変わらずいい飲み方をされますね」
「中田さんのカクテルも変わらず美味しいです」
「息子さん、大きくなられて」
「先週二十歳になったんですよ」
「あの夜の約束を果たされましたね」
「あれから色々思ってここには来れなかったけれど、これからはまた飲みに来ますね」
「またお待ちしております」

和也とカウンターに座ったときに、わたしから中田さんに声をかけることも出来たし、中田さんもわたしを覚えていることを伝えられたはずだ。でもわたしは青月のカウンターで、息子とじっくりと酒を味わいたかった。思い出を語るのは最後に少しだけでいい。そんな思いを中田さんは察してくれたのだろう。

間もなく中田さんは還暦を迎えるし、わたしもそう若くはない。いつかはなくなるこのバーカウンターで、あの頃とは違う形で中田さんが作る酒を味わいたい。そんな思いを残して30年振りの青月を後にした。

外に出ると代々木上原では忙しない夜がはじまっていた。今では青月の周りは個性的な飲食店があふれ、若者で賑わっている。

となりを歩く和也は、少し酔ったわたしに歩幅を合わせてくれた。
彼ははじめてのバーをどのように感じたのだろう。
少し大人びた我が子は、そんなわたしの心を察したようだった。

「いいバーだね。今度はひとりで行ってくる」
そう言う息子の背中は、いつの間にか大きくなっていた。

わたしはその背に向けて、はじめての酒を味わったこの夜のことをいつまでも忘れないで欲しいと、強く願ってしまったのだ。











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