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「批評」を定義するという課題

批評の定義について。「定義」というのは、やや問題含みなところがあるので、私は「特徴づけ」という表現の方をより好んでいるが、まぁやること同じだ。すなわち、批評という活動(ないしその産物)に特徴的で、その他の活動(ないしアイテム)から批評を区別する要素とはなんなのか、に答えるのだ。芸術に関連した言説はいろいろある(広告、美術史、芸術哲学、キャプションなど)が、そのうちどれがなぜ批評に該当するのか。単純化のために、これらの課題については以下ではとにかく「批評の定義」と言うことにしよう。(また、「批評」はすべて芸術批評を指す。)

本エントリーは、前半と後半で異なる目的を担っている。第1節、第2節までは短いが教育的意図において書かれたものであり、第3節、第4節は、より特定的な話題に対する私のステートメントである。勉強したい人は1〜2節を読めばよいし、そうでない人は3〜4節だけ読んでもよい。


1 分析美学における批評の定義論

「xは批評である ⇔ xは__である」のような明晰なかたちで論じられるとは限らないが、〈批評とはなにか〉は、(いわゆる)分析美学の伝統において盛んに論じられてきた。実際、今日の分析美学と呼べる、現代英語圏の美学的伝統は、20世紀なか頃の批評の哲学(ビアズリー、シブリーほか)にルーツを持っている。ビアズリーは美学をメタ批評、すなわち、芸術批評家の言動に関する分析として認識していた。批評という活動にどのような目的と論理があるのかを明らかにすることが、その探求のコアにあったことは言うまでもない。

この興味関心は、だいぶ後になってから、ノエル・キャロル[Noël Carroll]が現代的にアップデートした。『批評について』(2009)によれば、批評とは、理由とセットで評価的判断をくだすことである。価値の評価に踏み込まない言説は批評じゃないし、評価をサポートする理由(根拠)のない言説も批評じゃない。これはアーサー・C・ダントー[Arthur C. Danto]の批評観や、いわゆる大文字の理論[Theory]、構造主義やらマルクス主義やら精神分析がフォーカスするような、作品の(しばしば秘められた)意味を明らかにする解釈的批評観へのカウンターとなっている。批評とはなんらミステリアスな活動ではなく、根拠とセットで作品を褒めたりけなしたりする活動なのだ。

ここ10年単位で見ても、批評の定議はそこそこ盛り上がっている。アンソニー・クロス[Anthony Cross] 「Art Criticism as Practical Reasoning」(2017)とケレン・ゴロデイスキー[Keren Gorodeisky]「Must Reasons Be Either Theoretical or Practical?」(2022)はそれぞれ、キャロルに対抗した批評観を提示している。クロスは、1950年代にちょいと有力だった見解(アイゼンバーグ、ジフ、シブリーのライン)を復活させ、批評とは鑑賞におけるさまざまな行為(知覚の向け方や、感情移入や、知識形成など)をガイドする活動だと定義する。一方、ゴロデイスキーは美学においてもっと伝統的な考え、すなわち芸術への関与とは情動的な美的快楽であるという見解を復活させ、批評を情動的反応のガイドだとみなす。ともに、ただ作品の価値を論証によって信じさせる活動(キャロルがプロパーな批評とみなす活動)は、批評ではない、少なくともその範例ではないとしている。より肝心なのは、理由を提示して行為や情動を促すことなのだ。

モノグラフ単位でも、ジェームズ・グラント[James Grant]『The Critical Imagination』(2013)やステファニー・ロス[Stephanie Ross]『Two Thumbs Up』(2020)がある。グラントはよりリベラルで、批評のガイドする反応について多元論的な見解を示している。つまり、価値の理解でも美的知覚でも美的快楽でもどれでもよいが、とにかく、(1)作品にふさわしい反応と、(2)その反応を向けるべき箇所と、(3)その反応をすべき理由を、(断片的にせよ)表明することが批評を構成する。ロスの本はイントロダクションと書評(クロスとゴロデイスキーが書いている)を読んだぐらいで、まだ読み通せていないが、おおむねキャロルの批評観に沿った批評観のように思われる。つまり、ダントーに反し、鑑賞者の作品選びをアシストするために、どれがなぜ良いのか伝達することこそが、批評なのだとされる。ロスにおいては、Googleマップにつけられるレストランのレーティング+コメントのセットこそが典型的な批評であり、芸術作品に対しても同様の言説が批評の典型例である(べき)なのだ。

(その他、関連する議論について日本語で読めるものとしては、難波優輝さんが『フィルカル』に寄せた論文を参照。)

2 カッコよくないひとつの批評観

私自身の立場は、おおむねグラントに沿ったものであり、批評が表明・ガイドする反応にはいろんなタイプがあると認めるものだ。もちろん、なんでもありではなく、ガイドされる反応は鑑賞と呼びうる反応の範疇に入っている必要がある。批評とは鑑賞のガイドなのだ。実際、キャロルやクロスやゴロデイスキーが揉めているのは、〈批評とはなにか〉というよりも、批評においてガイドされる〈鑑賞とはなにか〉であるように、私には思われる。「批評は鑑賞のガイドである」というのはそれぞれの批評観をまたいでコンセンサスを形成しうる原則だと、私は期待している。

メタ理論的なポイントだけ最後に述べて、私自身の見解は脇においてしまおう。鑑賞ガイドとしての批評観のポイント(のひとつ)は、カッコつけず、気取らないことにある。「批評は鑑賞のガイドである」というのはまったくトリヴィアルで、修辞的にもクールでないテーゼであり、だからこそ私の信じるところでは極めてもっともらしく、穏当な見解である。もし批評家たちに鑑賞ガイドの意図がなかったり、その産物がいかなる意味でも鑑賞ガイドの機能を持っていないのだとすれば、一体なにゆえ彼らを批評家と呼び、その産物を批評作品と呼ばなければならないのか理解不能である。定義というのは、カッコよくなくとも、もっともらしいものであるべきなのだ。(ここで「もっともらしい」とは、私たちが現にそうみなしていたりそうみなすべき理由のある概念スコープと合致したスコープを提案することにほかならない。)

3 カッコいい批評観たち

しかし、〈批評とはなにか〉という問いを前に、人はついついカッコつけてしまい、修辞に走ってしまう傾向がある。"批評"はなにかすごく特別な精神的営みであり、文化社会の重大な部分を占める。"批評"とは自己表現の場であり、魂の解放であり、権力や暴力への対抗である、云々。そういったテーゼは、「批評とは鑑賞のガイドである」よりもはるかに耳目を集めるものであり、なにかクリティカルなことを分かった気にさせるが、実際のところ、ことごとく定義として失敗している。どう規定したところで、自己表現も、魂の解放も、権力や暴力への対抗も、批評にならではの特徴ではない。明らかに、芸術制作、ミサ、デモはそれらの機能を果たすし、そういった機能を担わない批評を批評から弾くべき正当な理由はなにもない。同様に、スノッブ的な態度から「批評」「レビュー」「感想」などを区別しようとする言説も、あまり健全なものではない。

カッコつけ批評論に対する前段落の批判は、ある程度私の日頃の恨みつらみから形成されたイマジナリーなものだが、完全にイマジナリーなわけではない。もう掲載終了して見ることはできないが、かつてゲンロンの批評再生塾で、「批評とはなにかを定義せよ。」という課題が出されたときに、受講生の用意してきたレポートも、やけにカッコいいものが少なくなかった。そもそも、批評再生塾のステートメントがずいぶんとカッコいい。

「批評」とは、一言でいうなら「世界に臨む姿勢」のことである。
批評家は、世界に対して投げかける自らの言葉を研ぎ澄まし、磨き上げる、
それは同時に、世界に対して責任を負うことでもある。

ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 _ ゲンロンスクール

私にはあんまりなにを言っているのか理解できないのだが、そこで説明項として出されている特徴がなんであるにせよ、批評かつ批評のみがそれを満たし、それを満たさないアイテムが批評ではなくなる、というのは理解しがたい。定義としては、それはやはり単なるカッコつけであり、失敗している。

4 相互批判はフェアにやろう

とはいえ、私と異なるディシプリンのもとで「批評」の本性を探る人々に対する、非難の意図はない。端的に言って、私たちは同じ「批評」という語を用いて根本的に異なる活動を指し、それぞれの本性を探求しているだけなのだ。例えば、先立つ節で挙げたような分析美学の書き手たちや私が〈批評とはなにか〉という問いに取り組む際、日本語の「批評」が指し示す独特な営み、すなわち小林秀雄、柄谷行人、蓮實重彦、東浩紀といった名前と結びついた日本文芸批評の伝統については、まったく念頭に置いていない。その特定の伝統について、私たちはまったくの無知であり、オーバーラップする小さな部分を除いて無関心なのだ。

私たちが関心を向けているのは、芸術作品と向き合うひとつの一般的なモードとしてのcriticismであって、それ以上でも以下でもない。私たちの課題は、〈criticismとはなにか〉になるべく明晰でもっともらしい答えを与えることである。私たちの楽しみは、一見もっともらしい定義への反例が見つかったり、一見しんどそうな定義がスマートに擁護されたり、定義間の対立点やヒエラルキーが明らかにされるやり取りそのものであり、集団作業である。

なにが言いたいのかというと、こういうことだ。なにかしらカッコいい「批評とは◯◯だ」をぶち上げて、definition of criticismをやっている英語圏の哲学者たち(すなわち、私たち)を批判するのも、逆に、カッコつけ批評論は明晰さやもっともらしさに欠けており無意味だと(カルナップがハイデガーをdisったように)断ずるのは、フェアではないし生産的でもないのだ。本エントリーに後者の側面が少なからずあるのは、問題の所在を明らかにするための誇張であり、その範疇を超えた揶揄が含まれてしまうのは、単純に私の力不足である。もう大人だし、ポストモダンおちょくる芸人は引退するつもりなのだ。

したがって、千葉雅也さんが「今日分析美学で批評とは何かとか言われていますが、僕はそれを先に爆破するようなものを独力で書いていた」と宣言するだけの傲慢さをどこから獲得しているのか、私には理解できない。noteで公開された本文の一部に目を通しても、それは私たちのやっているdefinition of criticismと噛み合ったアーギュメントであるとは思われないし、そちら側のディシプリンに対する私の無知も手伝って、これがどう分析美学での議論を「爆破するようなもの」たりうるのか分かりかねる(そもそも「爆破」とは?)。もちろん、これらは千葉さんの書いたものが千葉さんのディシプリンに照らして持つ意義を減じるものではない。

おそらくは、音楽の存在論におけるジュリアン・ドッド[Julian Dodd]の発見説を念頭に、そんな考えは「幼稚」で「男性的」だと断じた数年前のツイート[1][2]からして、私に分かるのは、千葉さんが分析美学(というか分析哲学一般)をひどく嫌っており、フェアネスを無視して非難する権利がご自身にはあるのだと思い上がっていることぐらいだ。頼むから放っておいてくれという以外に、なにが言えるだろうか?

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