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シンディ・シャーマンと自己を埋没する芸術

7月15日、哲学若手研究者フォーラムにて村山さん(@Aizilo)、岡田さん(@summerfuyo)、伊藤さん(@eudaimon_richo)によるWS「美学と自己」を聞いてきた。村山さんは自己表現と自己理解、岡田さんはフィクションを通した作者の人柄理解、伊藤さんは美的な個性と逸脱の自由についてお話されており、どれもたいへん面白かった。

岡田さんと伊藤さんのアーギュメントにはそれぞれコメントをしたのだが、村山さんのご発表についてはちょっと咀嚼に時間がかかった。というのも、マティスにおける自己表現を主題とされた村山さんの発表は、なにか既存のなんちゃら説を批判したり擁護したりするような(次の日の私の発表がそうであったところの)哲学とはちょっと違い、いわゆる思考触発型な哲学であるように感じられたからだ。

また、自分だったら「美学と自己」というお題でどういう発表をするだろうか、とも考えた。一日目の打ち上げでねぎしの牛タンを食べながら思いついたのは、シンディ・シャーマンだった。シャーマンによる写真は、「自己」という観点から見れば、おそらく村山さんが取り上げたマティスの正反対にある芸術だろう。マティスは、絵画や切り絵を通して自己の内面を表出し、表出するなかでこそ自己について理解し、さらには自己を再解釈するような芸術家だ(と村山さんは述べる)。一方、シャーマンは装い、偽り、演じることで、自己を徹底的に埋没させようとする芸術家なのだ。作者のパーソナリティを知られることは、マティスの芸術にとって成功であり、シャーマンの芸術にとって失敗である。

作品のなかでは匿名な自分を感じられるのです。写真を見るとき、私自身を見ることはありません。それは肖像ではないんです。時折、私は消えるのです。

シンディ・シャーマン
https://www.azquotes.com/quote/619236

芸術観としてどちらが正しいか、どちらがよりよい芸術かという問題ではなく、芸術と自己はふたつの全く異なる仕方で関連づけられうる、ということだ。ひとつは自己表現として、ひとつは自己の埋没として。

ということでシャーマンについて書いてみるのも面白そうだと思っていたところ、なんと私はもうシャーマンについて書いていたのだ!昨年度から受け持っている美術の講義で、批評文を書くという期末レポートを課しているのだが、そのサンプルとしていくつか用意したもののひとつが、まさにシンディ・シャーマン論なのだ。講義では、この一文や段落はこういう意図があって、批評上の役割はこうだ、みたいなガイダンスをしている。

ということで、せっかくなので公開しておこう。2000字弱のちょっとした批評文で、授業準備に追われながらザクッと書いた1本だが、マティスとの対比で考えたことがかなりそのまま書かれている。村山さん発表と並べて読んでいただければ、芸術と自己の関わりについて分かりがより深まるかもしれない。


撮影される「姿」と「魂」──《Untitled Film Stills》における反肖像

シンディ・シャーマン《アンタイトレッド・フィルム・スティルズ #21》1977-80

《Untitled Film Stills》(1977-80)はシンディ・シャーマンの代表作となった写真集であり、70枚のモノクロ写真から成る。収録されている写真はいずれもセルフポートレートであり、メイクを施し、衣装を身にまとったシャーマンを捉えている。しかし、本作は厳密な意味において、シャーマンの肖像ではありえず、むしろ「肖像」という伝統的なカテゴリーとは正反対のことを試みている。
「肖像する[portray]」という語は「前に[pro-]引っ張る[trahere]」という意味のラテン語に由来する。古来、肖像画はある特定の人物が持つ気質や地位、思想や性格を表出するものとして描かれてきた。もっとも、ダヴィッドが描いたナポレオンの肖像画を挙げるまでもなく、肖像される人物へと帰属される性質は必ずしも当人が備えているものではなく、しばしば誇張・詐称される。しかしそのような例も、肖像画というカテゴリーが単に視覚的な類似物を作ろうとするものではないことを示している。いずれにしても、肖像画は、ある人物の裏にあったりなかったりする気質や地位、思想や性格を絵や写真に「込める」ことで、鑑賞者になんらかの信念や態度を形成させることをしばしば意図されている。率直に言って、それは目に見える「姿」だけでなく、目に見えない「魂」に関わる営みである。
写真はいい意味でもわるい意味でも、この「肖像」という営みにとって革命的な装置となった。ナポレオンを撮影した写真は、きっとナポレオンがダヴィッドに依頼したような仕事を果たしてはくれなかっただろう。それでも、「姿」と「魂」の両方を写し取ろうとする営みは、写真による肖像でも変わることなく継続されてきた。アーヴィング・ペンが撮影した、プリペアド・ピアノに覆いかぶさったジョン・ケージは、その遊び心と危うさを十二分に表出している。ドクロのついた杖を持つ手と頭だけが浮かび上がっているように見えるロバート・メイプルソープのセルフ・ポートレートには、病的なまでの美意識と、遠からぬ死の予感が漂っている。
このような伝統と、シャーマンの《Untitled Film Stills》は真っ向から対立している。#21の番号が振られた一作を見てみよう。そこに写っているのは、外行きの帽子をかぶり、ジャケットを身にまとった若い女性であり、背後にはビルが立ち並んでいる。ピンぼけした背景は壁のようになって女性を覆いかぶさっており、閉塞感を与える。その様子は家出してきた箱入り娘が初めての都会に好奇の目を向けているか、あるいはギャングの若い妻がふと立ち止まって、腐敗した街に憐れみの目を向けているようにも見える。かすかに歪んだ口元は、不安を示しているようにも、嘲りを示しているようにも見える。シャーマンが扮しているのは、われわれが古いハリウッド映画や広告のなかで繰り返し触れてきたある種のイメージ、その最大公約数たるキャラクターにほかならない。それは、いつかどこかでたしかに見たことがあるような人物・場面であるにもかかわらず、具体的な起源や指示対象を持たない。この不確かさは、本作における要点のひとつに違いない。そこではなんらかの前後関係を想像せずにはいられない瞬間が描写されているにもかかわらず、この前後関係が明らかにされることは決してない。そして、この解釈上のもどかしさがどこに落ち着こうとも、そこにシンディ・シャーマンという個人と結びつく関心は存在しない。シャーマンは、演じられたキャラクターのなかに完全に埋没している。
写真に見て取れる「姿」も「魂」も、シャーマンのものではない。それどころか、当の「姿」と「魂」が帰属される人物は、現実世界にも、虚構たる映画のなかにも存在しない。徹底的に表面的でステレオタイプな瞬間を描いた#21は、「肖像」という営み、その伝統の欺瞞を暴いているようにすら見えるのだ。反肖像、すなわち自己の「姿」と「魂」を徹底的に埋没させていくプロジェクトは、70枚の執拗に反復される写真たちによって強調される。この執拗さは、われわれに対してマスメディアが持つ執拗さをシミュレートしているのではないか。マスメディアが生活の大部分を占め、誰もが自己演出を求められる現代社会においては、前に引っ張り出してくるような「本当の私」などもはや存在しない。「姿」も「魂」も、どこかの誰かからの借り物であり、私はもはやあなたのイメージのなかにしか存在しない。シャーマンの写真には、そのような現代社会への諦観と、世紀末的な楽観がある。作品を見たわれわれがそれを憂うにせよ歓迎するにせよ、現代社会の条件へと注意を向けさせるというシャーマンの試みは、本作においておおいに成功を収めていると言うべきだろう。


あとがき

自己を表現するためではなく、埋没・消滅させ、「私」をゼロにするための芸術創作というのは、シャーマンに限られたものではない。私の観察では、このようなタイプの芸術は広く見られる。多くの異名とイマジナリーなキャラクターを使い分け、「もうずいぶんまえから、私は私ではない」と語るフェルナンド・ペソアは文学におけるその筆頭だろう。あるいは、毒にも薬にもならないミューザックをそっくりサンプリングし、スローダウンさせて垂れ流すVaporwaveもまた、「私をゼロにしたい」というエートスを共有していたはずだ(だからこそ、みんなで顔出しライブとかやりはじめてとことんしょうもなくなった)。

私はそういうタイプの芸術にずっと惹かれてきたようだし、分析哲学という論理も文体も匿名的であることを価値づける(ことになっている)哲学をやっているのにも、同様の趣味が働いている。

自己を真摯に見つめ押し出すタイプの芸術と、自己を消し去る(少なくとも消滅のfeelingを味わう)手段としての芸術。このふたつの極に、いろんな作品やジャンルを位置づけてみるのも面白そうだ。


【2023/07/17追記】

村山さんから補足コメントをいただき、コリングウッド的な自己表現についての解像度が上がりました。コリングウッドにおける(そして村山さんの注目するマティスにおける)自己表現とは、(1)他者に自分の内面を知ってもらおうとする伝達ではなく、あくまで自己理解に向かうタイプの自己表現であり、また、(2)表現されるものもパーソナリティ全体というよりもっと特定的な感情、思考、経験であるとのことです。

また、そうして作られた作品を経験することで鑑賞者の自己理解も深まるという、不思議な共同体的性格もあるようです。コリングウッド面白いですね。

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