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深刻な話を打ち明けて「この人に話して本当によかった」と思った相手の特徴

「病気が見つかったの」「離婚することになった」「仕事がなくなってしまった」

いわゆる深刻な話を誰かから打ち明けられた時、私たちは動揺します。
「なんて返せばいいんだろう」と考えたり、逆に「なぜこんな話をするんだろう」と怒りを覚えることもあるかもしれません。

私はこの春に持病が悪化していることが発覚しました。
今は強めのお薬を飲んで症状を抑えられているのですが、そのことを知った時は「どうしてこんなことになってしまったんだろう。一体わたしの何がいけなかったというのだろう」と思いました。

そんな辛かった時期、いろいろな人に自分の打ち明け話を聞いてもらったのですが、不思議と「この人に打ち明けて本当によかった」という人と「最悪、もう二度と自分の打ち明け話なんかするもんか!」という人に綺麗に分かれました。
何がそれを分けたのか、せっかくなので振り返っていきたいと思います。

まずあなたが誰かから、いわゆる深刻な話を打ち明けられたとき。
それはあなたが「この人なら打ち明けても大丈夫だろう」という信頼が少なからずあるという証左です。慌てる必要はありません。

どうしても私たちは「人は役に立つべきだ」という考えがあり何か助けになることをしようとしてしまうのですが、私たちは専門家ではありません。目の前にいる人は別に他者から修復を必要としているわけではないのです。

次に深刻な話を打ち明けてもらったとき、大体その場には気まずい雰囲気が流れます。

私が「この人に話してよかった」と思った人は例外なく、その沈黙をどうにかしようとしなかった人でした。ただただ「そうなんですね」と言って一緒にいてくれました。何も言わずに、ただ共にいる。どうしようもないことを、どうしようもないこととして受け取る。私の場合は本当にこれだけで救われる想いがしました。「そうなんだ、は魔法の言葉」とはよく言ったものです。

逆に「もう二度と話すものか」と思った人は、なぜか急にお説教やアドバイスを話し始める人たちでした。
「あなたにも原因はあったんじゃない?」「仁美ちゃんは乳製品が好きだからね、それが悪かったのよ」とこんこんと諭されたり「さっさと開腹手術するべきだ!」と怒り出す人もいました。どれも正論なのでこちらは逃げようがありません。

ただ病気や家族のことなど深刻な話というのは、たいてい明確な原因があるというより、複合的にさまざまな理由が重なって起きていることが多いものです。
そして人は余白を嫌います。何かポッカリ空いているところがあるとそれを埋めたくなります。

深刻な話を打ち明けられたとき、相手にお説教やアドバイスすることで、ひとまず自分の不安を埋めることはできるでしょう。
ただ一緒にいる人は、それが恐れからの行動であることがなんとなくわかってしまうものです。

何より「あれが悪かったのでは」と自分を責めたり「早く手術するべきでは」といった最善手を探すのはもうとっくに本人が何周もしているところで、他人に今さらお説教やアドバイスをされても「そうじゃねえんだよ」感が半端無い。

結局、いま苦しい立場にいる人への最善の寄り添い方としては「あなたの痛みはわからないけど、わかりたいと思っている(by菅波先生)」という姿勢なのではないでしょうか。

したり顔で「わかる、わかるよ君の気持ち、でもね・・」と自論を展開するではなく「私とあなたは他人なので違う。傷の大きさも深さも痛みも、比べられるものではない。でもあなたのことを知りたい、理解したいと思っている」という無言の願いほど、相手の心に染み入るものはないように感じます。

最善策を探すことも悪者を探すことも、自分1人でできる。でも寄り添うことは2人でないとできない。

もちろん「どこかにいい病院あるか知ってる?」「あなたのアドバイスが欲しいのだけど」と助けを求められたら、それにはできる限り応じるべきだと思います。
大切なのは「May I help you?」から。相手から声があったら、手を差し伸べる。この順番は尊重したほうが良いのではないかと考えるのです。

役に立ちたい。すごいと言われたい。正論を言って黙らせてやりたい。
そうした誰もがあって当然の自意識を脇に置いてまで、ただただ自分と共にいてくれた人のことを、人は忘れません。

絶望する状況でもその先にある春をただじっと信じて待てる人に、私もなりたいものです。









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