見出し画像

売れる本=良書ではないと知れた本屋さん

ライターを始めた頃、お金を支払ってもらえないことが続いた。支払いの催促も、3回くらい目から反応がもらえないとそのままにしてしまった。
お金よりも「こいつは払わなくてもいい」と軽んじられているような感覚が嫌だった。

どうしたらライターとして出世できるのか。その問いに私は「紙の本を商業出版する」という答えを一つ打ち出した。

電子書籍が台頭している現在も、まだまだ日本人の中には本屋さんに並ぶ紙の本を出版した人へのリスペクトは強い。出版すればライターとして一人前になれるのではないか、と淡い期待を抱いて安くはない出版講座に通った。

出版の世界では当然だが、売れる本が良い本になる。「あなたはこういうことでお困りですよね。だからこうしたらあなたは変われますよ」と、人の欲望を叶えるプロセスを示した本がよく売れるらしい。ダイエットやお金の本が売れるのは、それだけ人の欲と密接に関わっているからだそうだ。

さっそく私も「こういう風に書けば、誰でもいい文章が書けるようになります」的な文章本の企画書を出版30社に送りつけた。

2社のみお断りの返信があったが、あとは全社スルー。編集者は忙しいので当たり前といえば当たり前だが、やはり出版業界では売れる本イコール良本のようだ。なんの経歴もないライターに文章本を書かせてくれるほど出版業界も余裕はないらしい。

駅の大型書店に行けば、売れる本が山積みにされている。ネットの普及に活字離れ、今や本に求められるのはスマホ以上に人の欲を満たしてくれるものなのかもしれない。たとえゲスい内容であっても、本というのは売れれば良本、売れなければ悪本なのだ。

・・そんな風に思っていたのだが、先日友人と行った私設図書館で、ちょっと思うことがあった。

京都駅から電車を乗り継いだ正直へんぴな駅にある、完全予約制の図書室「鈍考」。

ブックディレクターの幅さんが「どうしたらもっとみんな本を読んでくれるんだろう」という問いからつくられた私設図書室。
スマホは持ち込んでも良いけれど、90分という時間制限があるためみんなロッカーにしまって読書に没頭している。

冊数は決して多くはないけれど、選び抜かれた本ばかり。なんというか、置いてある本の純度が全て高いのだ。


生きることについてゾーン
私の好きな、食べることについてゾーン


漫画や絵本もあって、久しぶりに手塚治虫の「火の鳥」を読んだ。中学生の時にはわからなかった人間の矛盾したものの美しさみたいなものが、ひしひしと伝わってきた。

その後、近くにある日本の独立系書店の先駆け「恵文社」にも寄ってみた。

棚にある本の顔ぶれを見ると、この本屋さんに全国から通う人がいるというのも、なんだかわかる気がした。

明らかに大型書店では売れないだろうな、というような本もたくさんあった。
この店に誘ってくれた友人はそこで500円の仏像の本を手に入れていて「5,000円でもいい内容だ!」と感動していた。アメリカでは、amazonとの熾烈な戦いで街の本屋さんが次々と消え、こうした独立型の書店が生き残って繁盛していてらしい。

大型書店に山積みしてある「人の欲望を叶えてくれる、よく売れる本」が出せる人が、成功者でスゴイ人。みたいな印象が今でもある。

しかし鈍考や恵文社のように純粋に面白く、後世に伝えたいという想いの元に集められた本たちに囲まれていると、だんだん売れる本を書けなかった自分への劣等感のようなものが薄まっていくのを感じた。

文章を書くというような表現活動をしてるとどうしても「売れなければ、バズらなければ意味がない」という思考になってしまいがちだけど、自分は何万部も売れる本を書きたいのか、それとも1000年後も読み継がれる物語を書きたいのか。

それがはっきりわかった旅でした。