卒制までの日記 #32(終)
______卒制が終わったかと思っていたら〜、もう夏が来ていました!そして夏もおわっている!秋ですが
卒制が終わりそうになくて毎日大泣きしていた日々がまるで昨日のことのように思い出されますが、もう半年以上経っちゃった
この卒制までの日記も、その当時の考えていることや悲しかったことや嬉しい気持ち、悔しい思いを真空パックに詰めて、いつか読み返せばいつでも思い返せるように始めたわけだけど、さっき読み返してみたらその頃のわたし健気すぎてわろた……笑ってない、泣いた!
もう夏になっちゃった(そして終わった)けど、卒制に取り組んでた1年を振り返ってみようかな〜がんばっておもいだしてみるぜ
時間について考えていたこと
もともと私は、「時間」に興味があったのです。
時間とは、人間、いやもっと万物から切っても切り離せないような存在である。盛者必衰だって、never ending storyだって、立つ鳥跡を濁さずだって、大抵のことは全て時間的要素を含んでいる。
それまでの設計課題でも時間にフォーカスした作品を作ってきていたことから、その集大成として卒制で時間そのものについて深く考えたいとずっと考えていた。
そもそも何で時間に興味があったのかというと、私の誕生日が6月10日で、「時の記念日」だからであるという単純な理由。。。だけど!そのことから時間に興味をずっと持っていたので、神が私に与えし課題だったのかもしれん。なにを言っていますか
楽しかったことってあっという間に終わってしまう。
過ぎ去りし日々を後になって思い返すとき、
(1週間前の今頃は、みんなで旅行先にいたなあ)
とか、
(1ヶ月前の今頃は、道を歩いていたなあ)
とか、
(昨日の今頃は、山にいて叫んでいたなあ)
とか、過去の自分や情景に思いを馳せて、時間が経過することをネガティブに捉えがちだった私がいたよ。
これは別に、時間的長さが長い短いとか、私とか私以外の人とかに関わらず、結構多くの人が考えたことがあるんじゃないかと思う。
(あの頃は良かったなあ)とかいうセリフがまさにそれ!
また、すごくノスタルジーに思いを馳せてしまう懐古厨(過激派)という側面も私は持ち併せている。
例えば、ディズニーで小さい子供のいる家族連れを見かけた時に、私も小さい頃に家族でディズニーに行ったこととかを思い出しては平気で泣ける。
またこの懐古厨においても、「(○○の今頃は△△をしていたなあ)理論」は発生する。
例えば、3年前の今ごろ私はまだ高校生で、夏休みに文化祭の準備のために学校に行く。
地元有数の川にかかる橋を、遠景として見える山を横目に、風を切ってチャリを漕ぐ。
などという、大都会東京では目にすることのできない情景を思い出しては平気で泣ける。
こういう、自然が豊かな地元でのびのびと生きてきた私にとって、大都会東京の時間に追われる生活というのは、相対的に地元の時間がゆっくり流れているように感じるということをありありと感じさせていた。
要するに、
もともと時間に興味があったこと
地元と東京の、時間感覚の違いによる息苦しさをなんとかしたいという考え
が、「時間」というテーマに辿り着くきっかけになったのだ。(たしか)
コンセプトにいたるまで
そういうわけで、テーマは「時間」とすることには決まっていたわけだが、どうやってコンセプトまで持っていったのかという経緯には紆余曲折があった。
最初は、
「時間が順当に経過することを受け入れられる建築とは」
を考えていた。
時間が進んでいくことは抗えないことであり、過去を羨んでもどうしようもない。
しかし、時間が進んだからこそ感じられる豊かさのようなものを、建築で見つけたかった。
ほぼ同じだけどその次に
「時間の経過がポジティブに考えられるようになるには」
になった。
このあたりで、そもそも人が「速さ」を追求してるのはなぜかを考え始めていた。
通信速度とかモビリティとか、はやければはやいほど良いとされている。
例えば通信速度だったら、クリックで「決定」してから読み込むのが「完了」するまでの速度がどんどんはやくなっている。
人間とは「わからないもの」に対して恐怖感を抱くものである。
だから、「わからない」をできるだけはやく「わかる」にしたくて急いでいるのではないか。
だけどやっぱり、一直線に最短で最速で目的に辿り着くのではなく、紆余曲折しながら色々なことを経験して生活している方が豊かな日々になるのではないかと私は思う。と細美武士も言っている。
その経験の仕方というのは、みんな一緒とか、予想できることではなくて、人それぞれ異なるものである。
そういうことから、
「主観的時間軸を受け入れることのできる建築の作り方とは」
を考えるようになった。
人がそれぞれかけたい時間(「わからない」から「わかる」まで)は必ず異なる。
だから、人はそれぞれ同じ絶対的な時間(地球が一周するのが24時間とか)の中を生きているがしかし、その中でどうやって過ごすのかという、固有の時間軸があるはずである。
そのような、人がそれぞれ持つ固有の時間軸は、人の数だけある。
人の数だけ経験は生まれるはずだが、それを蔑ろにしながら世界はできているし、建築はできている。
人がそれぞれ持つ時間軸と同じリズムを持った建築は、それぞれの経験を投影したような建築になりうる。
それを他者が経験したら、人の時間軸に入り込んでそれを経験することになる。
それから最終的には、
「主観的時間軸の存在を人に思い出させる建築とは」
を目指すようになった。
「時間図面」という概念の提案
ある人の時間軸を表現するものが必要になった。
通常、建築の図面というのはmm(ミリメートル)という空間の世界で描かれる。
それを、s(秒)という時間の世界で描けるように変換する。
言葉にしたら簡単なようにも聞こえるけれど、実際に線で紙の上に表そうとすると、どういう関数で変換するのかや、そもそも何のツールで表すのかなど、ここで壁にぶち当たっていた。
先生にはずっと、「空間の中に等時間間隔で点をプロットして、それを等間隔にしたらいいんじゃない?」と言われていて、それを頭ではなんとなく理解しているつもりだった。
しかしその頃の私はつんつんに尖っていたため、(先生の言うことをそのままかたちにしたら、先生の作品になってしまうな!)などと考えていたので、しばらく違う表し方を模索していました。
だけど言われていたことって、別に作品性とかそう言うことではなくて、数学的にそれが合理的な表し方として正しいのではないか?ということだったんでした。
それに気がついてからは、ひたすらに空間の中に
「等時間間隔をプロット→等間隔に歪める」
という操作をするのを繰り返していた。
ここでは、紀尾井清堂や国立西洋美術館から、KAIT広場、表参道ヒルズなど…いろんな建築にリサーチに行って、時間を測りながら動画を撮りながら歩いていました。動画を撮ることを注意されたこともありました。(ごめんなさい)
動画を撮っていたのは、建築にある「リズム」が、人の時間経験に何か影響を与えているのではないかという仮定のもとで、何を見ていたのかを記録するために行なっていたことだった。
アトリエに帰って、動画を見ながら、何秒でどこにいたのかを確認しながら空間図面に点をプロットする。
そして、その間隔が等しくなるように空間図面を伸び縮みさせる。
間隔ごとに伸び縮みさせた空間図面をコラージュすると、時間図面ができる。
時間経験は、シークエンスのコラージュであるということにも気がつき始めてきた頃のことでした。
時間がかたちになるまで
いろんな建築をリサーチして、時間図面とそこでのリズムのストックができたので、そこから主観的な経験が読み取れるようになった。
私の行なったリサーチでは、私自身の主観的な時間軸で、主観的なリズムの感じ方(どんなリズムでどんな速さで歩いていたか)をしたから、主観的な時間図面が出来上がった。
もし私以外の人がこのリサーチを行えば、違う形の時間図面ができるし、リズムのストックができることになる。
ここから、デザインの段階に入る。
デザインの根拠になるものは、柱や手すり、目地などのリズム(くりかえし)を持った建築のエレメントである。
私の主観的なリサーチの場合、リズムのピッチが短いほどゆっくり歩き、長いほど早く歩いていた。(前述のとおり、私以外の人が行えば異なる主観的な結果となる)
このことから、どんなピッチがどれくらいの時間かかるかという公式を導き出す。
まず、「絶対的時間図面」という敷地の上で、どの場所でどれくらい時間をかけたいのかということを当てはめる。
そこから公式を使って、空間図面として変換させる。
そうすることで、時間から考える建築ができるのである。
(要約)時間平面で描く〜空間軸と時間軸の転換による建築の再解釈〜
− 人はそれぞれの時間軸を持っているはずである。
しかし現代社会において、何かにかける時間ははやければはやいほど良いとされている。
例えば、通信速度は決定から操作が完了するまでの速さを競っている。
例えば、ある点からある点までの経路は最短が最も効率が良いとされている。
しかし、そこで言われる「時間」とは一体誰のものなのだろうか?
客観的な時間とは、もしかしたら誰のものでもないのではないだろうか。
そこで、主観的時間軸から建築を作ることを提案した。
時間を図面に表すために、「時間図面」の発明をした。
通常、図面は空間世界に描かれるが、時間世界で描く。
人は、自分の時間軸がそのまま表れた建築にいる時、最も居心地の良い空間だと感じるのではないだろうか。
ある人の時間軸から作られた建築を、またある人が経験したら、自分ではない誰かの時間の中を歩くという体験が起こる。
そしてまたある人自身の、時間図面が描かれる。
このサイクルが繰り返されることによってできた世界は、時間軸とは人の数だけあることに気がついている。
ほんとうにありがたい方々
この1年を通して、ほんとうにいろいろな人たちに手伝ってもらったり励ましてもらったり元気をもらったりして、たいへんありがたいと毎日おもい、噛み締めていました。!!
まじでありがとういっぱい送りたい(><)
思い出たちの写真の一部↓
おしまい
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