【言葉を用いて:エクリチュールとパロール】

(前置き)

エクリチュールとは書面(でのやり取り)、パロールとは発話(会話でのやり取り)を意味する。この両者はそれぞれは我々の言語活動を制限すると同時に実現する、生存における土地/環境のようなものであり、どの土地/環境に産み落とされたかに依存し、用いる言語や人格が異なるように、エクリチュールとパロールは我々の思考を一定の狭い枠組みにはめると同時に、枠組みのあるがゆえに我々の思考が一定の形を与えられ意思疎通が可能となる。むろん、どの土地に育つかで(例えば、田舎/都会)それぞれメリットデメリットがあるように、エクリチュールとパロールにも特長と不自由さの両方がある。そして、生まれた土地を失ったものは多くあれど、生まれた土地を持たないものはないし、また住居を持たぬものはいるかもしれないが、生存し続ける限りわれわれはどこかの土地に立たざるを得ない。ゆえに、エクリチュールとパロールは我々の人格を育むと同時に特定の型へと方向付け、そしてまた意思疎通を図る際、いずれかの手段に立脚するほかはないのだ。

まずはエクリチュールとパロールを説明しよう。この二つは次のアナロジーでざっくりと特徴を説明できるように思う。


[エクリチュール:パロール ≒ CD音源:ライブ]

(よく脚本と演技という比喩が用いられるが、読者諸氏は演劇脚本になじみがないだろうし、演者は本来の自らを殺すことを求められると言う点で——俳優は定まった台詞や筋立てを外れることができない、だがミュージシャンは(特にロックやパンクは)ライブにおいて自らのフィーリングで決まったフレーズや構成を落とすことができる——ため、音楽と言葉という少しズレのある伝達形態だが、このアナロジーを選んだ)


<エクリチュール≒CD音源>

CD音源は複数のテイクを重ねることができ、また各テイクを加工編集出来る。ゆえに工業製品の完成度を持っており、またライブでは再現不可能な演奏も(超絶フレーズとか楽器の数とか)音源においては可能だ。受け手(聞き手)においては、洗練がゆえの聞きやすさ(快適さ/ストレスフリー)があり、また一部分のみをリピートしたり、はたまた速度を変え、繰り返し聞くことができる。が、CD音源には聴覚的要素のみが存在し、その他の感覚は欠落している(だからこそ、CD音源と自分の経験(→記憶)が結びつくことがある:青春時代の1ページを彩る曲)。

エクリチュール(書面のやり取り)も、基本的に作者の加工が繰り返されていて、様々に削除と訂正があり、現代においてはネット上からの情報の引用も含まれている。これはCD音源の完成度と再現不可能性の実現(知らない/覚えてない情報も、書き言葉上なら簡単に添えられる)という点に類似する。また、読み手においては、繰り返し読むことができ、また未知の語彙を調べて理解したり、あるいは音だけでは認知出来なかった語句は視覚的にであれば理解しやすくなる。つまりCD音源の聞きやすさと同様に、エクリチュールには読みやすさがある。そして、だが、エクリチュールには文字以外の要素がない。音やリズム、それに話し手の身振りも表情もない(ゆえに、受け取られ方は読み手に多くを依存しているからこそ、エクリチュールは説明過多となりがちである)。また手紙やチャットなど、やり取りはしているものの、基本的に一方向性の伝達となっている。以上より、エクリチュールはゆえに全くの解釈違いの生じる危険性を大きく孕んでいる、という側面もまたある。


<パロール≒ライブ>

ライブは爆発/エクスプロージョンだ! 理性と野生のフュージョンだ、音楽家と観客の圧倒的コラボレーションだ(あるいは)。曲目は決まってはいるものの、そのフレーズをどう弾くか、一節一節をどう歌うか、あるいは弾かないか、歌わないかすらも、演者はある意味では自然発生的に選択する。むろん、音源ほどは上手く(少なくとも技術的には)演奏できないし、ミスタッチも、音程外れも、テンポのズレも生じる。だが、ライブには観客の反応を逐一捉え、それに瞬時に反応できる。つまり、双方向性のコミュニケーションに、「音楽家と観客の圧倒的コラボレーション」になり得るということだ。そしてまた、音源とは異なり、聴覚的要素以外にも、視覚的要素、あるいは音圧による触覚への作用、そしてこれらより派生する熱狂という、ある種の幻想を見ることができる。音源を聴いているたけでは生じなかった、理性のタガが外れる感覚、そして故に理性と野生が混交し、個という防御壁/檻から解き放たれ、他者との合一を成し遂げたような感覚(錯覚?)が生じる。

パロールは、やはりライブで曲目が決まっているように、基本的に自らが出す結論自体は変わらない。例えば、「chatGPT使ってみたら?」というKの提案に、ぼくはパロール、エクリチュールのいずれにせよ、「今は遠慮しておくよ」という旨の返答をするだろう。だが、返答の中身(どんな言葉を使うか)と方法(どんな語調で、どんな声色で、音量で、どんなアクセントを付け、どんな速度で)は、聞き手の反応を一瞬一瞬捉えながら、自然発生的に選択する。あるいは、発話しないという判断も十分ある。相手が予想できている旨の発言を、ぼくらは往々にして省略するのをよしとする。そして、これもまたライブにおける「音楽家と観客の圧倒的コラボレーション」と同じく、創造的な行為となり得る。我々は意思疎通をする際、一言結論だけを言えば十分であるわけではない。「今はchatGPTを使わないよ」という短い返答すらも、簡単に「NO」とか「提案を棄却します」と業務的な文言で済ませてられないはずだ(本来、単純な情報の伝達ならば、「NO」だけで十分だ)。冒頭に「今は」と、そして「使わない『よ』」と語尾に『よ』を付けることでなんらかの(分析はできるが省略しよう、端的にいえば文言の「現時点」限定と相手への配慮だ)情報を添えようと試みているのだ。ゆえに、洗練された完成品としてのエクリチュールとは異なり、パロールには躊躇いや反省、そして疑いをも含む「自分の現存在」(むろんドーナツとしての)を全て含み伝えようという努力の痕跡が強く刻まれている。そしてまた情報の伝達に話を絞れば、文字のみでなく音、リズムのみならず、表情も身振りも加えられるため、話の重点をどこに置いているのかを明瞭に伝えられるし、相手の反応に応じて、不十分な箇所を噛み砕き、不必要な部分を省略することが出来る。さらに、ライブと同様双方向性のコミュニケーションであるがゆえに、他者と共に自らの思考を密接に作り直し、個という防御壁/檻を薄れさせる可能性が高まる(一方でだからこそ、話の筋を見失う、というデメリットも生じる、収拾のつかないライブイベントのように、これはやりきれない虚しさを孕むと同時に、だからこその偶然性/特別性を生じさせる)。

そしてさらにパロールは、ライブの熱狂/幻想と似た、「わかり合えたのかもしれない」という合一の感覚が生まれる可能性を秘めている。「語り合った」という言葉は、なぜだかパロールを交わし合うことにのみ用いられるように思う(チャットやメール、手紙による意思疎通に語り合うという言葉はなぜだかそぐわない、語り合っているはずなのに)。この「わかり合えたのかもしれない」という感覚を得られるのが、パロールの最大の特長であるだろう。確かにこれは錯覚であるかもしれないが、我々は「わかり合えるかもしれない」という可能性が僅かでも感じられなければ、誰かになにかを伝えようとは思えない。ゆえに、「信奉と信頼」を育むためには——つまり教育→人格の陶冶/薫陶においては——パロールが最も適している。



以上、各々の特長とデメリットを述べたが、我々はこのような仕様を把握した上で、各形態の限界と制約を感じつつ、だが発話/書面なしには意思疎通は実現しないという拠り所をもとに、コミュニケーションを交わし合い、思考の交換を実現させようという血の滲むような努力を楽しむべきだろう。それぞれの伝達形態で、同じ言葉も抱く印象が異なる。だがそれでいい。だからこそ浮かぶ発想がある。むろん、伝えたいことがある時、それを十分に伝えるために、ぼくらは一生懸命に考えるべきだ。エクリチュールを取るか、パロールを取るか。どんな言葉でどんな順序でなら相手に伝わるだろうか。選択肢は膨大であり、けれどぼくら自身で何が最も適切かを必死に判断し、決断しなければならない。この自ら求める必然(こう伝えたい、こう伝わって欲しい)を定めたその上で、偶然を愛そう! 偶然を楽しもう!

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