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人付き合いの煩わしさを話す

こんばんは。もうちょっとだけ記事を書いていきます。

ちょっと趣味ベースな投稿が多くてもアレなので、自分の考えベースな投稿もしていきます。

人とのつながりについてです。


大学生になってから、たくさんの人と出会いました。それでもまだまだ少ない方なのかもしれないですが、数えきれない人たちと出会えた期間だったと思っています。

そんな中で、良いこともあれば悪いこともあるわけです。そんで、ちょっと悪いことの面から考えていこうと思います。普段あんまりやらないんですけど。

人付き合いで煩わしさを感じる瞬間、これは誰にでもあると思います。実は私は今まであんまり感じてこなかったんですが、これは単純に付き合う人の量が少なかっただけなのかもしれません(血涙)


大学生になってから、煩わしさを感じることがまぁ増えました。対個人に対しても、対集団に対しても(これはまじでゼミw)、対SNSに対しても、です。
価値観が合わないやつ、人の意見を聞かない・聞けないやつ、マウントとるやつ、シンプルに低俗なやつ、いろいろです。
人はそれぞれ理想と現実のギャップみたいなものを持っていて、尚且つ自分の独自ルールみたいなものがあって。
理想と違いすぎる振る舞いをされても煩わしさを感じ、独自ルール勝手に破られる、つまり実家に土足で踏み入られても不快感を感じるのだと思います。そういう業のもと、みんなやっているのではないかと思います。

それもこれも、自分が人のその一側面を見ているから生じるのでしょう。そういう目になっているから、そう思ってしまう、そう言うことは簡単で、確かにそうだと思うのですが、いろいろそんなに単純じゃないですよね。複雑に絡み合っているからこそ、悩んでしまうのだと思います。

それでも、人は一人では生きていけません。人とのつながりの中にある良いものみたいなものを感じたいと思ってしまうのも、また業なのでしょう。
精神衛生が良い状態のときは、それらのバランスが良感じに纏まっているとき。きっとそうだと思います。ふとそんな状態になる時もありますが、全然そんあ気分になれない時だってあるわけです。


うーん、この煩わしさからはきっと逃れられないのでしょう。じゃあ、どうしたらいいんですかね?私はこれらのマイナス要因に対しての対処法をまだ十分に模索できていない感もありますし、経験値が少ないみたいな面もあり、自分にとって最適な方法みたいなのもわからない感じがあります。


なぜだと思う??(これよく先生が言うやつ

なぜ自分は今単なるラインのメッセージ一つに不快感を感じているのだと思う??

そう正面から考えてみると、別に対した理由はないんだと思った。
ただ鬱陶しいと、それだけかも。お前の意見は求めていないと、それに対して勝手に話してくる見当違い甚だしさが鼻についたのだろう。
そう思うと、まぁそういう時もあるよね、
そう言う他ないと思った。
ってなると、俺が今すべきことって、そんなやつを構うんじゃなくて、自分がちゃんと、本当に連絡取りたい人に連絡とってみたりとか(いま何人か顔が浮かんだな、二、三人いる、今ちょうど)、やることやるだったりとか、研究のブラッシュアップもあるし、就活の書類あーだこーだもある。アマガミだってあるわけだよ笑。
あとはバイトのこと考えたりとかさ、今日行ったセブンイレブンの店員のおねーさん可愛かったなとかさ、キリマンジャロのコーヒーうまかったなとかさ、いろいろ考えるべきこともたくさんあるわけよ。
そういう人生におけるタスクというんかな、そっちに頭を使うのが、まぁ満たされるよね。そっちに熱中したいよね。せっかくゼミもあったわけだし、頑張っているわけだし、その熱をまたいろいろに絞ってむけていきたいと思うわけだよ。情熱、それは自分で止めないようにしたいわけだよ。

そうだろう。


なんかさ、大学に入ってから本当に人を色眼鏡で見るようになったというか、見られるようになったというか、そういう感覚があった。友達の言葉を借りると、「浮遊感がある」とき、なんかにコミットできていないとき、雑念を感じちゃうときってことだな。そういう時は余計に周りからの目みたいなのが気になってしまう。そんなしょーもなさを抱えることが多くなってしまったよな。若さ特有のものかもだけど、誰と付き合っているのかとか、すごいかすごくないかとか、そういう社会的な価値がぐちゃぐちゃになるのが自分でもすごい嫌だった。命の価値はそんなんじゃねぇだろって言いたいけど、自分のそういう目になってしまうときがあったりするし、結局お互い様かってなったりもするので、何も言えないよね、最終的には。

だから煩わしさは自分の中でどうにかするしかなくて、マイナスを打ち消すかプラスの何かをやるかみたいな感じになるわけだ。会いたい人に会うみたいなのはプラスだろうし、加藤純一を見るのはマイナスを打ち消すに近いだろうな。そう、だからこそ最近加藤純一見始めたんだよな。そういう社会におけるくだらないしがらみみたいなものを小さく見るがために見ているのかもしれない。そこから抜け出そうとするために配信を追っているのかもしれないね。そういう人は、多いのかもしれない。

でもそうやっていても堂々巡りは終わらないというか、哲学じゃないけど、同じところをグルグルしているリズムみたいになっちゃうわけだ。
そしてたら何も変えられないので、安直な言葉だけど成長するしかないのだ。だからプラスの方向へのアプローチがすごい大事になってくるわけだ。世界を広く見ることができるようになれば、自分に対していろいろ寛容さと余裕を持って構えることができれば、まぁしょうがないで済ませられるようになる。そしたら、その余ったパワーをよりすごい、高次元の何かに使えるようになると思うんだ。今までだってそうだった気がする。いろんなことに省エネで済ませられるようになって、余った頭をより自分のために使うようになってよりよくしていったみたいなとこがある。

だから、まぁ結局は気に病む必要なんてないと、その一言なんだろうな。
気に病んじゃうスタートからは逃れられないもんなのか?でも現状逃れられないから、そこからどうしていくかになるよな。やっぱり。


そういう、語りでした笑。
ちょっと自問自答みたいになっちゃいましたね。
今ちょうどそういう思いに駆り立てられてしまったので、ここ最近ずっと思っていることがアウトプットされてしまいました。
人付き合いの煩わしさみたいな問題って、掘ろうと思えばすごい根が深いものなのかもしれません。そんなことなので、考えようと思うとすごい自分の中でエネルギーを使ってしまうのです。そう考えること自体エネルギーを使っちゃうというか、疲労感を得てしまうので、やっぱ鼻歌歌ってスルーできるのが一番賢いのかもしれません。あとは逆にそれを燃料にして走るとか。

なんにせよ、自分で自分を傷つけるようなことはしないでおきましょう、とは言えます。自分で自分の可能性は育てていきたいので、自律みたいなことはできる大人になりたいですね。
そういう優しい表現ができる良い空気を纏った大人になりたいです。

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