見出し画像

好きなものや人間

僕の異常な偏食については以前何度か書いた。

実はそれ以外のあらゆる分野でも僕は偏食である。


まず音楽は満遍なく聴くタイプじゃない。

とりわけボーカルにこだわりがあり、どんなに楽曲が良くてもボーカルが好みに合わなければ受け付けない。

そして音楽全般が好きなのではなく、特定のアーティストの音楽のみが好きなのだ。

たぶん音楽フェスなんかは楽しめない人間だと思う。


その代わり気に入ったアーティストの音楽は一作目からすべて集めるぐらい徹底的にハマる。

一度ハマると数ヶ月間は同じアーティストの楽曲ばかり聴き続ける。

ただし突然飽きが来て、ある日を境にまったく聴かなくなったりもする。



本は毎月10~20冊程度を読む生活をずっと続けている。

しかし心から読んで良かったと思えるのは月に1、2冊あるかないか程度だ。

まあまあ良かったと思えるのが数冊。

残りは得るものがあまりなかった、あるいは時間の無駄だったと感じる本である。

これまでそこそこ多くの本を読んできたとは思うが、本当に好きな著者は片手で数えられるほどしか存在しない。


人付き合いは人生を通してほとんどない。

一緒に帰ったり休憩時間に話す程度の相手ならこれまでに何人かいた。

しかし休みの日に会いたいと思うような人物は皆無だった。

どれも学校や職場が変われば霧散する程度の関係性である。


他人のブログはこれまで数多く見てきたが、何度も訪れたくなるようなブログはほんのごく僅かだ。

現在お気に入り登録してあるのは4つ。

1つは3年ほど前から見ていたもので、残り3つはNoteをフォローしてくれたのがきっかけで存在を知った。

とりわけその中の1つは文章も人間性もかなり好みで、同じ記事を何度も読み返すぐらい気に入っている。

(贅沢をいえば更新頻度をもっと増やしてほしいのだが……)


好きな人間に共通する特徴


好きになる人間に共通する特徴はある。

それは虚心坦懐に物事を見る目を持っていることだ。

言い換えれば先入観や常識にとらわれない精神である。


これは学歴や社会的地位、読書量などとは一切関係ない。

立派な経歴を持つ人間にも偏見まみれの人間は腐るほどいるし、勉強の不得意な人間にも物事をありのままに見る目を持っている人間はいる。

多少理解能力が低かったとしても虚心坦懐に聞く姿勢さえ持っていれば、その姿勢を持たない理解能力の高い人間よりもはるかに話は伝わる。


むしろ知識を持っている人間ほど他人の話をいい加減に聞き、

「つまりこういうことだろ」

というように、もともと自分の知っている話に還元させて分かった気になる傾向がある。

ある意見を定めて鑑賞している人で、自分の意見にごまかされていない人は実に稀です。生じっか意見がある為に広くものを味わう心が衰弱してしまうのです。意見に準じてすべてを鑑賞しようとして知らず知らずのうちに、自分の意見にあったものしか鑑賞出来なくなって来るのです。いろいろなものが有りのままに見えないで、自分の意見の形で這入って来る様になります。
こうなるともう鑑賞とは言えません、ただ自分の狭い心の姿を豊富な対象のなかに探し廻っているだけで、而も当人は立派に鑑賞していると思いこんでいるというだらしのない事になってしまいます。

小林秀雄『読書について』中央公論新社


優れた理解力を持つはずの人間が、特定の分野に限って話の通じない人間になるという話は珍しくない。

そして多くの場合、その分野は彼が強い関心を持っている分野である。

一般に信じられている常識とは反対に、知識が視野を狭めることはよくあるのだ。


虚心坦懐に物事を見る人の特徴


虚心坦懐に物事を見る目を持っている人間には変人が多い。

僕の一番好きな学者はかなり変わり者の偏屈おやじだし、一番好きなNoteの書き手もやはり変な人である。

むろん「変」というのは最大級の褒め言葉だ。

常識的な感受性によって書かれたChatGPTにも作れそうな文章には何の魅力も感じない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?