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けいれん

 ある日の早朝、タクヤが痙攣した。

 隣で寝ていたタクヤが「うらぁぉぉぉ」とうめきながら暴れていて、私はびっくりして目を覚ました。
 顔色は死人と言っていいくらいの土気色で、目は見開かれているが、焦点が定まっていない。口は半開きで、何かに取り憑かれたみたいに苦しそうに顔を小刻みに振っている。肩や腕に触れてみると、筋肉にものすごい力が入っていた。私は一瞬で眠気が覚めて、迷わず119とスマートフォンに打ち込んだ。タクヤを失うと思ったら、こわかった。
 「救急ですか?消防ですか?」と聞かれ、「救急です。彼氏が痙攣していて…」と震える声で答える。泊まっていたホテルの名称を伝えたが、住所も教えてほしいと言われて焦った。いつもなら、スマートフォンに表示された通話画面を一旦閉じて、通話を続けながら住所を調べる。でもそのときは気が動転していて、そんな簡単なこともできなかった。ホテルの部屋の案内書に住所が書いてあるかも知れないと思って、急いで探すが見当たらない。自分が効率の悪いことをしているとわかっているのにやめられず、余計に焦った。
 電話口で「大丈夫ですか?」と強めの口調で言われて、さらに焦った。結局ホテルの名称を伝えることしかできなかった。その次に状況を聞かれたときに、痙攣は収まっていて、タクヤは眠っているようだった。「…大丈夫かもしれないです」と言って、このまま救急車をお願いするべきかどうか迷った。状況をよく確認しようと思って、電話しながらタクヤに駆け寄ると、シーツに血のようなものが少しついていた。私は今度は迷うことなく、「吐血があるので、やっぱりお願いします」と言った。

 「ホテルの人に救急車がくることを伝えて欲しい」とオペレーターに言われたので、フロントの人に伝えておいた。
 タクヤは目を覚まさず、救急隊の人はまだ来ない。119番の電話が切れてから私はすごく不安で、泣きそうになった。でも今どうにかできるのは自分しかいないと思って、なんとかこらえた。
 ホテルのドアを開けて外の様子をうかがいながら救急隊の到着待っていたら、ホテルの従業員の人がやってきた。私は他の人がきてくれたことを素直に喜んで、「こっちです」と部屋の外に出た。ホテルの人を中に招き入れようとしたその瞬間、自分が馬鹿なことをしたと気づいた。私は鍵を持っていない。ホテルのドアはオートロックなので、そのまま外に閉め出されてしまった。こんな非常事態に何をやらかしているんだと恥ずかしくなったが、どうしようもない。たった今来てくれたばかりのホテルの人に正直に話して、鍵を持ってきてもらった。
 もしこれが夢で、こんなことをやらかしたら目が覚めるだろう。あるいは夢のストーリーの中で、うまく編集されるだろう。非常事態でもオートロックのドアはどうにもならないことに、これが現実であることを突きつけられた気がした。

 救急隊を待つ間、私はずっと不安だった。タクヤの痙攣は収まっていたが、ぐったりしたように眠っていてる。もしこのまま死んでしまったら? 私はこの先の人生を送っていけるだろうか。彼の家族に責められるかもしれない。不安でいっぱいになって、涙が出ると同時に、タクヤはこんな状態なのに、自分の今後を考えていることが情けなかった。

 駆けつけた救急隊の人は5~6人で、ほぼベッドしかないホテルの部屋がいっぱいになる。救急隊の人に状況を詳しく聞かれたとき、覚醒剤などの薬物を疑われショックを受けた。製薬関係の仕事をしているし…それはないだろうと伝えた。くだらないことが好きだが基本的には真面目な人で、タバコも酒も嫌い。まず覚醒剤なんてやらないだろうと思ったが、一緒に住んでいる訳でもないし、隠れてやっていたらわからない。私の知らない一面があったらどうしよう。タクヤの体調面以外のことまで、どんどん心配になってきた。
 救急隊の人は、「何か持病があるかもしれないから」と、家族の連絡先を聞かれたけれど、私にはそれもわからない。私はタクヤのことを何も知らないな…。ただ、タクヤの親は過度な心配性で、折り合いも悪いと本人から聞いていたので、親に連絡することをものすごく嫌がることは伝えておいた。
 救急隊は私が渡したタクヤの保険証だけでなく、タクヤが財布の中に入れていた薬や持ち物も無遠慮にチェックし始めた。本気で薬物を疑っているのか…。聞き間違いかもしれないが、社員証を見て、「給料いいな」と話しているのが聞こえてきた。タクヤのスマホは暗証番号のみの設定になっていてできなかったが、親の連絡先を知るために、意識のない本人の指を使って、指紋認証でスマホのロックを解除しようともしていた。タクヤが親への連絡を嫌がるだろうと伝えていたにもかかわらず、意識がない状態だと、こんなにもプライバシーや本人の意思が侵害されるものなのか。人命が第一だから仕方ないとはいえ、少し違和感を感じてしまった。

 救急隊の人は、血圧などのバイタルサインや意識レベルを測ってくれているようだった。「血圧180…、意識レベル『不穏』…」不安になる要素ばかり聞こえてくる。
 救急隊の人が病院の受け入れ先を探してくれていたとき、突然タクヤが目を覚まして、きょとんとしている。救急隊員5〜6人に囲まれている状況で、「…何ですか?」と呟くように言う。救急隊員の陰から様子を見ていた私と目が合うと、「何これ?」と責めるような口調で言った。「心配で救急車を呼んだのに、その態度は何」と、いつもだったらケンカになるところだったが、救急車を呼ぶのは私が経験したことのないことで、自分の判断に自信がない。
 あれ? 救急車呼ばなくて大丈夫だったのかな? タクヤが目を覚まして嬉しい気持ちからすぐに一変して、何かやらかした気持ちにさせられた。しどろもどろになって、タクヤにうまく状況を説明できない私の代わりに、救急隊員の1人が「痙攣して、彼女さんが心配で救急車を呼んでくれたんですよ」と私をかばうように説明してくれた。意識を取り戻したタクヤだったが、念のため検査したほうがいいと言われ、そのまま救急搬送されることになった。
 救急隊の人はタクヤに「自分でも覚えていない病歴があるかもしれないから、親御さんに連絡してもいいか」と聞いた。「それは一旦少し待ってもいいですか」と自分ではっきりとした受け答えをしているのを聞いて、私は安心した。
 搬送の前に、タクヤは「トイレ行っていいすか」と言った。救急隊員の人たちも私も、「え?今?」と思ったが、思えばまだ起床したばかりだ。タクヤはふらつきながらも、1人でトイレに行くことができた。救急隊の人は「おい、鍵を閉められたら困るぞ」と言って、トイレのドアを少し開けた。トイレに行くという日常的な行為とそれに焦る救急隊の人は、緊迫した状況から一変して、なんだか滑稽に見えた。
 私は搬送に付き添うことになったので、タクヤの財布を持った。救急隊員の人に「靴も…」と言われ、「履いています」と言ったら、「タクヤさんの」と言われた。また私は自分のことしか考えていないようで、恥ずかしくなった。慣れないことで何を持って行けばいいのかわからず、とりあえずタクヤの靴と、タクヤと自分の財布・スマホを持った。
 タクヤは意識が戻ったので、ホテルの廊下に出て、座ったまま搬送できるタイプのストレッチャーに自ら乗った。ホテルのエレベーターではストレッチャーが入らないため、座って乗るタイプのコンパクトなものになったのだろう。

 私は救急車に初めて乗った。2人ほどが腰掛けられそうな側面の座席に座って、救急隊の人にシートベルトをしてもらった。タクヤは今度こそストレッチャーに乗って、横たわった。眠いのかだるいのか、ほとんど目をつぶっているが、救急隊の人は名前などを聞いて意識を確認した。タクヤは飲んでいる薬の名前まで、はっきりと答えていた。救急隊の人とのやりとりが終わると、そのまま静かに目をつぶったか、眠ったようだった。
 救急車はしっかりと、ピーポーピーポーいうサイレンを鳴らしていた。救急車の中にいると、その音は意外と遠くから聞こえているようだ。タクヤの意識は戻り、命の危険はなさそうだったので、私には申し訳程度の音のように聞こえた。休みの日の早朝だったこともあり、道は空いているようで、ほとんど止まったり減速したりすることもなかった。「車(救急車)で30分くらい離れた病院」と救急隊の人に聞いていたが、体感ではもっと早く着いたようだった。

 急患の待合室で、隣で待っていたおばちゃんの旦那さんはまだ症状があって入院するらしい。ICUという言葉も聞こえてきて、私も不安になる。そのおばちゃんはすぐにどこかへいなくなって、私1人になった。タクヤは何の病気と診断されるんだろうという不安はあったが、今私にできることは何もない。30分は待っただろうか。救急隊の人がタクヤの身分証を見て、「給料がいい」と噂していたのを思い出した。製薬関係の仕事をしているとは知っていたが会社名までは知らなかったので、つい欲望に負けてタクヤの長財布の中身を見てしまった。財布の中身は30枚以上はカード類が入っていたが、タクヤらしく几帳面に整理されていた。常備薬も入っていたがすべて市販のもので、怪しいものはなかった。念願の社員証を見たが、私が知らない企業だった。
 そんなことをしていると、救急隊の1人がやってきた。タクヤの処置が終わったのかと思ったら、「我々はこれで失礼するので」と挨拶しにきてくれたようだった。そっか、救急隊の人はここまでで、これからタクヤの対応をしてくれるのはこの病院の人なのだ。まだタクヤの処置や検査は続いているという。「災難でしたね。せっかくの旅行なのに」と同情してくれた。タクヤの親への連絡などのプライバシーの件で、若干疑問を感じたこともあったが、私1人ではどうしようもなく、救急隊の人にきてもらえて本当によかった。私は椅子から立ち上がって、「ありがとうございました」と深々と頭を下げて見送った。救急隊は、これからまた別の人の救命に向かうのだろうか。

 1時間以上待って、タクヤの非常事態なのに眠気でうつらうつらとしてきた頃、ようやく私は看護師さんに声をかけられた。「なんか薬の影響もあって眠いって言ってるけど、大丈夫そうだよ。心配したでしょ」。看護師さんは快活で優しい人だった。看護師さんはタクヤのベッドまで案内してくれてから自分は外し、カーテンを閉めて2人の時間をつくってくれた。救急車を呼んでから3時間以上経って、ようやく2人だけで話す時間ができた。
 「痙攣、どんな感じだったの?」と聞かれて、私は腕を振ったり、上を向いて目を見開き苦しそうに叫んだりするジェスチャーをした。実際に目撃した痙攣はとても緊迫した状態だったが、命が助かった今ではネタっぽくなる。タクヤはそれを見て「まじかよ」と笑う。やっといつものタクヤが戻ってきた。
 それからタクヤはベッドから起きて、医師の説明を受けに行った。50代くらいの男性だった。私も同席して痙攣のときの様子を説明した。CT画像を見せながら、医師は「脳もきれいで、特に異常は見られません」と言う。そして「人生で1回くらい、痙攣を経験する人はいるんですが、2回以上経験する人はほとんどいないです」とはっきり言った(タクヤは2年後、その2回目の痙攣をすることになるのだが、その話はまたいつか)。
 タクヤは痙攣した日の前々日は仕事で忙しく睡眠不足で、痙攣した日の前日は、私と朝から遊園地で遊んでいた。元々絶叫系の乗り物が苦手なタクヤではあったが、前日の仕事の疲労もあって、乗り物を乗るたびにベンチで休みながら遊園地を回った。夜はタクヤの大好きなイルミネーションでテンションが上がって写真を撮りまくったり、疲れているのにかなりの段数がある階段をダッシュで駆け上がったりしてふざけていた。夜ご飯を食べた店では、弱いくせに珍しくお酒を飲んでいた。そのお酒は少々濃いめだったのでたくさんは飲めず、半分以上は私が飲んだ。そういった疲れがあって、翌日の朝に痙攣したのかもしれない。
 例の明るい看護師さんに会計の窓口まで案内してもらいながら、「タクヤさんなんだか中学生みたいね。20代後半⁉︎ びっくりしたわ〜」と言われていて笑った。救急車を呼ぶと8,000円かかり、プラス検査・治療の諸費用で、お会計は12,000〜15,000円くらいの、痛い出費となった。ただ、入院をせずに済んだのが不幸中の幸いだった。

 病院を出てから、そういえば救急車は病院まで搬送してくれるけど、帰りは送ってくれないんだなと思った。当たり前のことなのに、彼氏の救急搬送を経験するまで気付かなかった。最寄りの駅まで徒歩20分以上はあり、疲れ切った病人を支えながら歩くのはきつかった。タクシーを呼ぶことも考えたが、先ほどの治療費の出費が痛く、歩くことにした。
 ゆっくりと歩いてから、電車を乗り継いで1時間半ほどでホテルに戻った。タクヤは薬の影響でふらつき、駅のホームの階段で危うく転ぶところだった。タクヤの上着がなかったので、私の女性用のトレンチコートを貸してあげたら、あまり似合わなくて変人っぽくなってしまった…。
 ホテルは旅行の連泊で予約していたので、10時頃に戻っても慌てて荷物を片付けなくてよかった。眠気があって調子が悪いタクヤと、この救急搬送の1件で疲れ果てた私は、昼過ぎまで眠った。

 午後は遅めのランチを食べてから少しだけ観光して、夜は私が行ってみたかった洒落た居酒屋に行った。今日は本当にいろんなことがあったが、今普通にご飯を食べている。健康であることはなんて尊いんだろう。迷惑かけたお詫びに奢ってくれると言われたけれど、病院でそこそこ高額な支払いをしていた姿が頭をよぎり断った。
 ご飯を食べながら、「いろいろありがとうね」と言われた。タクヤがこんなに素直にお礼を言うことがあるんだ。私は「ほんとだよ」と笑いながら返した。

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