記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

クライミングと夫婦の絆を突き詰める

 ひとことで表現するなら、標高約8,000m級のヒマラヤ高峰に登ることは、こんなにも過酷なのかということが超絶リアルに描かれている本だった。

 標高が高ければ酸素が薄くなる。凍傷で手足を失うことや遭難の危険がある。それくらいのことは素人の私でもわかっていたつもりだったが、この本を読むまで全然わかっていなかった。命を懸けると言葉で表現するのは簡単だが、命を懸ける状況になるまでの選択、決断、それまでの過程や努力、つまり人生のすべてがぶっ飛んでいなければ、標高約8,000m級のヒマラヤ高峰に登るなんてことはできない。

 この本で感銘を受けたのは、まず世界的なクライマーである山野井さんと妙子さんの生き方。次に2人の絆といったところだろうか。

18本の指を「好きなことをして失っただけなのだ」

 妙子さんはクライミングの凍傷で、ほぼすべての手足の指を失った。それでも悲観的にならず、残った指で料理や裁縫など自分でできることを淡々と増やし、買い物のときは店員さんに財布からお金を取ってもらって、普通に生活している。妙子さんほどではなくても、何本か手と足の指を失った山野井さんに対して、「ないものはないのだから仕方ない」と取り合わない。それをこの本では「好きなことを失っただけなのだ」と表現している。
 妙子さんは一度凍傷での手の指の第2関節からすべてと、足の指8本を失ってから、山野井さんと共にヒマラヤ高峰に登ることを決意している。また、妙子さんは高山病がひどい体質で、標高が高いところではほとんど飲食ができない中、力強いクライミングをするという。凍傷でまた手足の一部を失うことや、最悪命を落とすことも覚悟のうえだ。それでもクライミングが好きで、登らないという選択はしなかった。
 私には真似できないけれど、好きなことをやめられない気持ちはわかるかもしれない。私はやりたい仕事をしたいという観点で今の編集の仕事を選んだ。締め切りに追われる日々は精神的にも削られるし、出版不況で努力しても結果が伴わないことばかりだ。それでも不思議なことに、今の仕事を辞めようとは思わない。仕事内容が楽ではないことも、出版不況も、もちろん覚悟のうえで自分で決めた道だ。私は妙子さんのように命を懸けた訳ではないけれど、人生を懸けて好きなことをしたいという思いは少し似ているのかもしれない。

「愛してる」とか言わない

 次に特筆すべきは、山野井さんと妙子さんの深い絆だと思う。夫婦なので「愛」と言ってもいいのかもしれないが、お互いを尊敬したり信頼し合ったりしているエピソードからは、愛よりも深い絆が伝わってきた。
 山野井さんは冗談として「妙子はたとえ病院でガンと宣告されても、「そうですか」と平然と帰ってくるだろう。そして、電車の中で保険のことなどをしばらく考えると、次にはもう夜の食事の献立について考えはじめているだろう」と言っている。
 妙子さんはひどい凍傷を負った山野井さんの手術の際、「旦那は強いか」と聞かれて「強い」とひとこと躊躇なく答えている。
 2人は、どんな窮地に陥ってもパニックにならずにいられる。どちらか一方が死んでしまった可能性もある状況でも、冷静に次の一手を考えている。クライミングで死んだなら本望という精神まで共有しているからなのか。それは経験や努力、生まれ持った精神力があるからかもしれないが、お互いを完全に信頼しきっているというのが大きいと思う。
 「かわいい」とか「かっこいい」とかじゃなくて、お互いを人として、クライマーとして尊敬している。ドライなようでいて、お互いを本当に信頼していないとできないことをいくつも成し遂げている。ふたりが山に登るときの過程と絆は、一生を賭けて築く価値のあるものだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?