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自分という「n=1」のもろさ。

最近、なんでか考えていることがまとまらない。
というか、自分の「Goサイン」が出ない。


あと10日ほどで、ドイツに来て1年が経つ。
色々考えていることをまとめようと思っているのだけれど、最近どうも引っかかっているのが ” 自分の経験はあくまでも「n=1」" だということだ。


私の身に起きたことはあくまでも1人の人間に起きたことであって、みんなに起きるとは限らない。
私がもらった言葉も、会った人がそう言っているだけで、他の人もそう思っているかはわからない。


自分の書くことの「主語」が大きく「みんなに起きること」「みんなの総意」のように見えてしまっていないかとか、自分の知識の正確さとか、経験から感じたことが行き過ぎてないかとか、いろいろ考えてしまうのだ。


私は期間限定で海外にいるだけで、現地で就職しているわけでもなければ、10年も20年も海外で暮らす予定もない。
長く海外で暮らしている日本人は世界にたくさんいて、自分の経験は、海外のことを話すには、いろいろと弱すぎるんじゃないかとも思っている。


知識が必要なことについては、色々調べたり確認したうえで書いていることがほとんどだけれど、長く暮らしている人に比べれば、私の知識は浅いだろうし考察や証拠は薄く、もろい。
そもそも海外に住む「n=1」としても説得性に欠けると思うのだ。

これは、学べば学ぶほどその先があって、自分の知識不足を感じるのと感覚が似ている。つまり「無知の知」だ。

超ポジティブにとらえるなら、ダニングクルーガー効果の曲線にある「絶望の谷」のターンに入ったのかもしれない。
(ダニングクルーガー効果についてこちらをご覧ください)



しかしどんな「n=1」も、淘汰されるべきとは思わない。
それぞれの経験や体験、感じたことをまとめることが誰かに役に立つことはたくさんある。

実際、私はnoterさんたちの記事を読むのは大好きだ。
知識や経験、年齢に問わず、それぞれが遭遇した出来事やそれに感じたことを読ませてもらって勉強になっているし、励まされたり勇気をもらうことも多い。


読者という視点からは、そういうものをどんどん書いてほしいと思う。
私はすごく読みたい。

でも筆者としては、自分の知識・経験不足を感じている。
上には上がいるので、そういう方々にお任せしたほうが良いんじゃないかと思ってしまう。
日々の生活がドイツ国の中にあるけれど、私がドイツについてまだまだ知らないことが多すぎるのだと思う。そしてそれは1,2年で理解できるものではないと思うのだ。


このちぐはぐさが、書いたものを下書き送りにしている。
noteの下書きが、今年に入って30本も増えてしまった。


近所の公園を整備する庭師さん(?)による本気の園芸


たぶんそういうちぐはぐさや不安を抱くのは「無知の知」だけでなく、最近なんとなく感じている「個人の意見・感想・考察」が受け止めてもらえないムードに、ちょっとビビっているというのもある。


人それぞれいろいろな考え方や感じ方があって良いはずなのに、多数側ではない方の考えを持つ人を「敗北者」のように扱う人が、一部にいるような気がする。


それに日本には「グレーの文化」があって、むやみやたらに衝突をしないようにする習慣がある。
「グレーの文化」はスッキリしない気持ちや誤解を生むこともあるけれど、正しく使えればいい文化だと思っている。

世の中の物事すべてに白黒はつかないし、白黒がはっきりするもののほうが世の中に少ない。
状況によってもコロコロ変わるから、本当に必要でないかぎりグレーにしておくことは、必ずしも悪いことではないと思う。


なのに「勝ち負け」とか「アリナシ」とか、答えを出す必要がない人が答えを出す必要のないことを二項対立にして、わざと揉めようとすることがある。

そういうことをする人たちはほんの一部だと思うのだけれど、その一部の人の熱量は、実際の数よりも何倍にも大きく見える。
その大きさに安心した人が、つられるように加勢してしまうのも気になる。

それはたぶん、誰か一人が壁に落書きすると、他の人もつられて落書きしてしまうのと同じだ。

少数側になりたくないという恐れからとりあえず大勢側につこうとするのは、ある種の生存本能かもしれない。
そうして「みんなのサンドバッグ」と言わんばかりに、渦中の事柄や人を叩く。


私が直接なにかされたわけではないけれど、そういうのを見かけてしまうと、どうしても心が重くなる。


そんなことで怯みたくないけれど、無闇に騒ぎを起こしたくもない。
誰かと張り合ったり偉そうなことを言ったり、そういう自己顕示欲を満たしたいわけでもない。
自分の身に起きた出来事を書きたいし、自分の思ったことを飾らずに書きたいだけだ。

けど私という「n=1」は、いくつかのジャンルにおいて語るにはちょっともろい部分が多いような気がしている。
自信や情熱をもって投稿できるところまでいっていない。


そんなことを考えているうちに、気づけば私のnote記事は食べ物の話ばかりになってしまった。
今のところ「ニョコロ*フィルター」を抜けられるのは、食べ物の話だけらしい。(笑)
食べ物の話をするのは好きなので、それはそれで楽しめているのだけれど。


あとは自分が思っている以上に、食べ物について知っていることが多いのかもしれない。私は「食べ物」というジャンルが好きだったらしい。(笑)
こんなきっかけから、自分の知識量のいい意味での偏りに気づくのはちょっと面白い。


ともかく、こういうときに無理は良くない。
いろいろ考えてこんがらがってしまうときは、少し濃いめのアウトプットを休んでもいいのかも、と思っている。




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