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向こうの世界と、自分の世界。

このことはnoteに書くべきかすごく悩んだのですが……
自分の中では大きな出来事だったので、気持ちの分岐点としてまとめておこうと思います。


私は洋画が大好きです。
洋画好きの両親の影響もあって、80年~90年代のファミリーで見られる映画やヒットしたアドベンチャーやSF映画を擦り切れるほど観て育ちました。

中学生、高校生になると、自分の好きな映画を探すようになりました。
でもほとんど洋画が中心で、ほとんどの映画が英語を話していました。
アルバイト代を費やして洋画専門の雑誌を何冊も買い、隅々まで読み込みました。
月に1,2日だけバイトをしない土日を作って、自転車で映画館に通いました。

その頃、1930~60年代くらいに一斉を風靡した「ミュージカル映画」にハマって、自由研究の題材をMGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)を中心としたミュージカル映画にしたこともあります。
ほかにそんな生徒はいませんでしたが、先生にはそれなりに面白がってもらいました。


米アカデミー賞は、私の中で大イベントでした。
映画雑誌を読み込んでいた私は、誰が受賞するかを考えるのが毎年の楽しみでした。
当時も今と同じように、日本で公開する前の作品もノミネートされるので、今より速度の遅いインターネットで色々と調べることもありました。
米アカデミー賞の授賞式を生中継をしていた有料チャンネルも、その頃になるとTVCMを打っていて、見られる人がとても羨ましかったのを覚えています。(私は入りたいと親に交渉したけれどダメでした)


大学生になる頃には、邦画にもかなり興味を持つようになりました。
私は大学での授業などをきっかけに、「映画」というものをエンターテインメント産業の一つとして見る機会が増えました。
今までの本や雑誌、インターネット検索での独学じゃなく、映画史やビジネスの仕組みみたいなものを学びました。

そうすると自分の知る洋画のほとんどが、「ハリウッド映画」というものだと知りました。
逆に「アメリカ映画が必ずハリウッド映画ではない」ということも学びました。
ハリウッド映画は、狭義ではハリウッド地区(の映画会社)で制作された映画であり、それ以外で作られた映画はハリウッド映画ではなく「アメリカ映画」。

このエリアに「ビッグシックス」と呼ばれる、アメリカ映画の中でも日本でも公開されるような、大規模な作品をたくさん作る主要な映画会社があります。
だからハリウッド映画=アメリカ映画みたいに見えがちなわけですが、それ以外のアメリカ映画もたくさんあるのだと知りました。

ここで「ハリウッド映画」って思ったよりも世界の全てではないということを認識した気がします。
それまでの洋画専門誌はほとんどがハリウッド映画の内容を扱っていたので、自分の中で「ハリウッド映画」が世界の映画の中心のような感覚があったことに気づきました。
自分の観るものの偏りに気づくいい機会になりました。
もともと映画好きというのもあって、ほかの国の映画を観ることも楽しむことができました。


日本で使われる「洋画」という言葉には、アメリカ映画だけでなく、ヨーロッパなどいわゆる西洋の国々の映画作品も含まれます。
イギリス映画も、フランス映画、デンマーク映画も「洋画」なのです。
それまでも洋画専門誌で紹介されていたヨーロッパの作品もいくつか観ていましたが、まじまじと意識したのはこの頃になってからだと思います。
ちょうどハリウッドを意識しているような、派手な中国映画の製作が盛んな時期だったのもあって、アジア映画も少しずつ観るようにもなっていました。


20歳くらいから観るものの広さとバランスはかなり変わったように思います。
とはいえ私の中では、ハリウッド映画への期待と憧れのようなものは変わりませんでした。
派手できらびやかで、” 映画館映え ”する作品が多く、私を変わらず虜にしていました。


2000年以降は黒人俳優たちが、以前よりも米アカデミー賞を受賞するようになってきた時期で、2010年代は黒人をテーマにしたり黒人俳優が主要キャストになったりしている作品が作品賞をとるような時期でした。

日本の作品や俳優もノミネートされるようになりました。
受賞だけでなくノミネートされるだけでも「あのアメリカのアカデミー賞にノミネートされた」と喜ぶくらいでした。

実際、日本のマスコミなどのムードもそんな感じだったと記憶しています。
「日本の映画(俳優)が”あの”アカデミー賞にノミネートされた」「世界が日本映画(俳優)に注目している」というムードがあったと思います。
それはそれはとても誉れ高きこと、という感じがしました。


その頃から、アメリカの映画業界では「ホワイトウォッシング」という言葉が取り沙汰されるようになりました。
「ホワイトウォッシング」というのは、原作などでは有色人種の役だったものを、白人の配役に変えてしまうこと。
これは黒人に限らず、白人以外の役柄を白人俳優に変えてしまう場合に、この言葉を使います。
この頃から、アメリカ製作の映画では人種差別がかなり意識されるようになりました。


そして同時期に「MeToo運動」も起き、映画プロデューサーなどによるパワハラ、セクハラがなどが複数告発され、女性俳優の待遇や労働環境の改善が叫ばれました。

そういう様々なアメリカ映画界に影響を与える事件を目にしながら、私は失望どころかちょっとした尊敬を抱いていました。
「業界が抱える問題を改善していく」というところに、頼もしさのようなものを勝手に感じていたのだと思います。
業界によっては抱える闇をうやむやにする、黙って風化させてなかったことにしようとするところもあるなか、ルール化してやめさせようとする雰囲気に力強さを感じていたのかもしれません。


米アカデミー賞授賞式はアメリカでの視聴率が下がればテコ入れされ、歌やダンスが話題になった作品が出れば授賞式内でパフォーマンスが行われたりと、何かしらの改善が行われます。
変更が不評な場合もありますが、問題解決力というか変わることを恐れない姿勢みたいなところにも尊敬していたのだと思います。

そうやって好意的に受け止められていたのは、小さい頃からハリウッド映画に育てられていた私がいたからにほかなりません。
ハリウッド映画や米アカデミー賞などにある種のヒーロー性のようなものを感じていたのだと思います。
いろいろなネガティブなところも知りながらも、「映画産業の中心はアメリカだ」という感覚が私の中で揺るがなかったのです。


2010年代からはほかのエンタメもよく見るようになったので、私の中で映画への強い気持ちは10代の頃よりは薄れましたが、やはりハリウッド映画やアメリカ映画を信頼していた部分がありました。

信頼の根底は、あくまでも自分の今まで見たアメリカ映画が面白かったというだけで、それ以外の根拠はありません。
それだけの理由でも、信頼していた部分があったと思います。
そして米アカデミー賞の授賞式は、世界が注目するイベントという認識は変わりませんでした。



それが揺らぎ始めたのは2022年、米アカデミー賞のときでした。
この授賞式で、ある俳優がプレゼンテーターを殴る事件が起きました。

それは衝撃的な出来事でした。


その俳優のことが好きだったというのあるし、ジョークとはいえプレゼンテーターが言うことは、とても授賞式の場で言うようなことではなかったからです。
当時の私にとって、米アカデミー賞の授賞式は「世界中が注目する場所」。
だから場所を考えると、「殴って当然」とまでは思いませんが、「怒って当然」とは思いました。

当然、そのひどいジョークを言ったプレゼンテーターが処罰されると思っていました。日本のSNSを見る限り、そう考えている人がかなり多くいるように感じられました。

しかし結果は違いました。
アメリカでは殴った俳優が批判を浴び、アカデミー賞を運営する映画芸術アカデミーも俳優に対し、アカデミーの威厳を侵害したとして懲戒手続きを行うことを発表。
俳優は自ら映画芸術アカデミーを退会することになりました。


この出来事で感じたのは、「米アカデミー賞はアメリカのルールと価値観で運営されている」ということでした。
当たり前です。
これは米アカデミー賞の授賞式なのですから。
海の向こう側の話なのです。
でもそれにはっきりと気づいたのは、このタイミングだったと思います。


それまではそんなことを気にせず楽しんできたのです。
アメリカの価値観とかルールとか関係なく、授賞式をもエンターテインメントとして楽しんでいました。

アメリカ製作の新作や良作、素晴らしい俳優や映像技術、音楽のある作品をお知らせしながら、アメリカの映画業界がアメリカ社会や業界内の問題にどう寄り添い、どう前に進んでいくかを見せてくれる。

私はそれを日本から楽しみ、ハリウッド映画を中心とする映画への信頼に結びつけてきたのだと思います。
授賞式や作品から見えるものを信じ、無意識的に不足を都合よく埋めてきた部分もたくさんあったのでしょう。


好きなものを信じようとするとき、見えていない部分を自分で勝手に補完してしまうことはよくあることです。
これは私に限らずだと思いますし、趣味や好きの対象に関係なく起こることだと思うのです。

小さい頃から積み重ねて上げられた信頼は、自分の気づかないうちにかなり厚くなっていたのです。
そしてその厚い信頼が、自分を盲目にしていたことにも気づきました。

しかしそんな勝手にしていた信頼が、自分の想像する処罰が行われないことによって、疑いが生まれてしまいました。

自分が信じていたものが、
自分の信じていたものではなかったのかもしれない。

その衝撃と困惑で、信頼にヒビが入ったのがわかりました。


それが「 自分が勝手に作り上げていた信頼 」に気づいたときであり、
期待と信頼が崩壊する始まりだったように思います。


自分で勝手に信じてきたものなので、「アカデミー賞め! 裏切りやがって!」とは思いません。というか言えません。
だってそれは、私が寄せていた信頼は自分で作った幻想で、現実のアカデミー賞とは違うということが分かっただけで、それを「向こう」を責める理由にはできないのです。

その授賞式で知る作品を観ることもあるので、遠隔的にはお金を払ってはいますが、授賞式に何か言えるような立場ではありません。

なにより、日本人の私がよその国の映画賞の授賞式に文句を言うって、普通に考えたらおかしいのです。
自分や自分の生まれた国が侮辱されたとか、ポリコレや差別などの社会的に問題のあることなら何か言う必要はあるかもしれません。
でもこの事件はアメリカで開催されたイベントで、アメリカ出身の2人が揉めただけなのです。



目が覚めた気がしました。
自分の中で揺るぎないものになっていた世界が、思い込みによって築き上げられたものだったのだと気づき、深く反省しました。
自分の見ている世界がいかに狭く、自分の信頼していたものの危うさに気づきました。





それ以来私は、授賞式を含め米アカデミー賞を重視しなくなりました。
アカデミー賞授賞式当日に発表を心待ちにすることもないですし、ノミネートされる作品も俳優も、以前のように一通り追うようなことはしなくなりました。



そして今年、米アカデミー賞でアジア人にとってはなんとも言い難い出来事がありました。
ドイツで生活するようになって、日本人はアジア人であるということを身を持って感じている今、この出来事が2022年の出来事と同じくらい衝撃的に見えています。


2023年の授賞式については、好きな作品のパフォーマンスがあったのでそこだけは動画で観ましたが、それ以外は正直よくわかりません。
なので詳しくは書けませんが、アメリカに住むアジア系の人たちに希望を与える結果になっていたと把握しています。
それは黒人中心の作品が賞を獲ったの同じくらい、アメリカの映画史において重要なことだったと思います。



その歴史的な出来事の翌年に起こる騒ぎとしては、残酷すぎます。



疑惑を持たれた人たちがこの件に触れてないので、事実はわかりません。
なぜ歴代の受賞者をあんなに登壇させたのかも、事情はわかりません。


どちらかというと、そういう騒ぎが起こったことで、米アカデミー賞が行われているところと自分のいるところの、価値観やルールとの乖離にさらに気づいたような感じがしました。

前に受けた衝撃と私が下した決断の背中を押されたような気がしました。
「自分の世界」と「向こうの世界」は違う、そんな感覚がより鮮明になりました。


今回は前回よりも、「 差別 」という社会的な問題になりかねないことではあります。
でも今の私の感覚では、「向こうアメリカ」という世界に200以上ある国の1つの国のイベントの、1つの事件でしかありません。
勝手に感じていたインターナショナル感も薄れ、世界でちょっと有名なローカルイベントがSNSで騒ぎになっている。そんな感覚なのです。



米アカデミー賞への失望というより、米アカデミー賞に対して無関心になる道筋を作られたような感じがしました。
距離をとりたいもの、関わりたくないものみたいな感覚です。


向こう側は世界を意識してイベントを運営していると思います。
いろいろな国で放送されていることを把握しているでしょうし、世界の映画産業のトップを走っているという自負もあるでしょう。

戦争や差別、そのほか社会的な問題に対して訴えるような受賞者のスピーチは今までもありました。
でも「世界が注目している」と想定されている場で、事故的なかたちで意図せず行われてしまったこと。
それはもう、授賞式をエンターテイメントとして楽しんできたかつての私にとっては、急に「 現実 」を突きつけられたようなものでした。


それはテーマパークに遊びに行ったら、突然バックステージに連れて行かれて、人の顔が見えた着ぐるみがぐったりしてるのを見せられた時と、感覚が近いかもしれません。
知りたくない現実を見せられた感覚。夢が覚める感覚。


そういう意味では、私の中ではまだ米アカデミー賞への信頼が、完全にはなくなっていないのかもしれません。
まだ仮にそれが、その場で行われるだけの理想や建前のようなことであっても、最後までやりきって、ほかのまだ楽しみにしている人たちに夢を見させ続けてほしかったと思いました。
これも勝手な期待ですが、それが国内の現状とは違っていても、米アカデミーの威厳を保つために、最後までやりきってほしかった。
生中継される場で、疑われるような隙を作らないでほしかった。
これもまた、勝手な期待ですが。




2,3年前までととても身近だったものが、どんどん自分の中で遠くなっていくような感じがします。
出身国でも無ければ住んでいる国でもない国のイベントなのだから、遠いのは当たり前です。
映画産業が盛んな国の大イベントを、外国人の私が好きで見ているだけなのですから。そもそも遠いも近いもありません。



でも寂しい。
小さい頃か絶対の信頼を寄せていたものが、音も立てずに消えていく感じがしていて、なんだかとても寂しく、悲しいのです。



大人になって、世界に中心なんて無いのだと知りました。
GDPや市場のトップなど様々な指標の中で中心となる国はあったとしても、それは必ずしも人類全員の中心ではありません。
人それぞれに持つ世界があって、その中心にその人の大切なものがあります。
そしてその人の中心も、時間の流れや経験によって変わっていきます。


私はこのことで、自分の見てきた世界の狭さを再認識し、
私の中心が変わったことを再確認したとも言えるのかもしれません。


冷静に切り分けて見られることは、成長とも言えるのでしょうが……
今はちょっと、切ないです。




※これはあくまでも私から見て感じていたことであり、別の考え方の方を否定したくて書いたものではありません。あくまでも私見です、ご理解ください。


長々と書いてしまいましたが、最後まで読んでくださった方がいたなら、心から感謝いたします。
ありがとうございました。


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